内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(八)

2014-02-26 00:00:00 | 哲学

 昨日の記事の最後に引用した一八一五年六月一二日の日記の一節に続けて、ビランは、自分の精神に欠けている「ある道徳的感情」について以下のように記す。

自分自身の裡に感じる種々の変化と空虚が、それらが私とともにあるものでありながら、私にある恒常的な形を持つことを妨げている。これらの変化と空虚とは、ある道徳的感情の不在に由来する。この道徳的感情がいわば「錨」のような役割を果たし、知的・感覚的装置を安定させる。この装置は、あちこちで無数の些細な印象によって、とりわけ、変化して止まず際立って動きやすい自らの内的状態によって引きずり回されている。ある道徳的感情がこの知的・感情的装置に欠けている安定性と一貫性をそれに与えることができる。様々な「堅固な」観念を規定し、それらをもたらすことができる「堅固な」感情は、唯一つしかない。以上が私自身の経験によって私にはっきりと証明されたことである。

 この一節に続けて、そのような「錨」としての役割を果たしうる感情の例が多数挙げられているのだが、それらは必ずしもいわゆる「良き」道徳的感情とは限らない。野心や強欲や虚栄心でさえ、それが一つの堅固な感情であれば、それ自体は不安定な知的・感情的装置に重心を与え、安定性をもたらす例として挙げられているのである。なぜだろうか。私は次のように推測する。おそらく、ビランが身近に接する機会を持った政治家たちの中にそれらの例に該当する人物がいて、それらの人物を念頭に置きながら、このような例も挙げたのであろう。しかし、他方では、神によって与えられた諸能力を最大限に生かして神に嘉される者となろうという高貴な感情、同朋たちへのいかなる見返りも求めない無償の奉仕という崇高な感情も例として挙げられている。そして、知性と感情に安定性を与える感情の最後の例として、自己充足感を挙げる。これは、ビランによれば、自らに与えられた諸能力にできるだけ良い方向づけを与えることによって、そして自らの良心のみを判断者とし「自分のために」良いようにすることによって生れる内的充足感のことである。
 ビランは、この内的充足感が自分の唯一の行動原則だと言う。仕事にとりかかるため、不活性状態に陥らないようにするためには、それだけで充分だと言う。ところが、そう言っておきながら、次のように続ける。

しかし、それ[=自己充足感]は、知的・道徳的システムのある一点に私を充分に固定してくれない。それは、ある目的のために様々な行為や考えを収斂させてくれない。それは、私の道徳的存在の裡に、生を一つにし、その諸部分においてよく結び合わされたものとする連続性を確立してくれない。その日その日の終わりに自分自身に満足できさえすれば、それで私には充分なのだ。ところが、翌日の一連の考えや行動が前日の考えや行動と結びつかない。それは、ただ一つの理由、私の裡に堅固な感情がないという理由、私の視野を遠くにまで及ばせ、時間と空間において離れたところにある目的を検討するよう自分を決心させる堅固な感情がないという理由に因るのである。

 ビランは、このような状態から発生する自分の「軽薄さ」、不安定さを責める。仕事の最中でさえ、心ここにあらずとなってしまう自分を責める。当然そのような仕事に堅固な一貫性などありえない。それに加えて、研究諸対象の不確かさ。同じ一日の中でさえ、それら対象間であちこちと注意が分散してしまい、それらのどれ一つとして「深い印象」を生じさせることはない。
 誰でも多かれ少なかれ似たような精神状態に陥ることはあるだろうと言うこともできる。しかし、ビランは、自己のそのような精神状態を医学者のように注意深く観察する。自分の弱さをごまかすことなく、つぶさに、繰り返し記述し続ける。ビランの「日記」を読むことは、自己の精神の揺らめきから片時も目を離すことができない繊細極まりない一つの精神に訪れた実存的危機に立ち会い、その精神の苦悩の告白に耳を傾けることでもあるのだ。まさにパスカルが言う意味での「呻きつつ求める人」であるビランが自らに問う問いに対して、私は無関心ではありえない。