一つの〈作品〉については、そのジャンルを問わず、その完成ということを一応語ることができる。したがって、その事実的な未完成ということも語りうる。もちろんこの問題はそう簡単に片付けられないことは、例えば、宮沢賢治の作品群を考えてみればわかる。複数遺された草稿のうちのいずれを決定稿として採用するかは専門家にとっても難しい問題であるし、何度も書き直されていくその過程そのものを創作活動の全体と考えれば、一つの作品について複数存在するヴァージョンのすべてが動的で開かれた作品形態だという見方も成り立つからである。そのような問題は常に付き纏うことは認めた上で、それを脇に置けば、一つの作品についてそれを完成したものとして扱うことは、少なくとも方法論上は許されるだろう。
しかし、〈日記〉については、完成ということはその本性上ありえない。それは書き手の意志によってあるとき中断あるいは抛棄されるということはありうるが、それはその完成ではないのはもちろんのこと、意志された未完成ということでもない。書き手の死によって結果としてある日記に終止符が打たれたとき、それは、開かれたままの頁の上に置かれた一本の筆記用具とともに、書き手を失いもはや文字が綴られることもなく残された白紙の頁を想起させる。〈日記〉は、その本性上、完結しない書記行為なのである。
ビランの専門家たちは、いくつかの完成度の高い論文・原稿・草稿から、これこそが「ビランの哲学」つまり「ビラニスム」だと呼べる思考のシステムを抽出しようと試みる。その作業の中では、類似した表現が比較検討され、いずれが最も完成された表現か、あるいはそれらが相補的な関係にあるかどうか等が問われる。単なる繰り返しは重視されない。思想の生成・変化を跡づけるためにはテキストの書かれた日付も重要になってくるが、そのような情報価値を持っていなければ、あるテキストがいつどこでどのような状況の中で書かれたかは副次的な問題に留まる。ビランのテーゼを哲学的命題として批判的に検討するためには、このような学問的手続きも必要であろう。
しかし、それとは別の一つの読み方がありうるだろうと私は考える。それは、ビランの哲学的実践は日々の書記行為そのものであると考え、〈日記〉を哲学の一つの実践形そのものと見なす読み方である。このように見れば、同様な表現の繰り返しは、既得の知見の反復などではなく、その都度の新たな実践の軌跡として読まれなければならなくなる。より端的に言えば、繰り返しそのものが哲学的実践なのだ。もしビランの哲学がこのような意味での〈日記〉を基本的な表現形式としていたとすれば、その根本動機からして、ビランの哲学は、最初から完成あるいは成就を禁じられていたと言わなくてはならない。政治家として多忙で、健康に恵まれず、しかも当時としても早逝である五八歳で亡くなったから、惜しくも未完に終わったのではない。つまり、もっと時間があったならば完成できたであろうという事実的な未完成ではなく、それが実践され続けるかぎり完成はありえないという意味で、定義上未完成でしかありえない実践だったということである。
ビランの哲学におけるこの本質的未完成性は、しかし、事実的不完全性とは違う。毎日書くという仕方で実践された省察においてその日その日が一つのまとまりとして回復される。そのまま経過するにまかせるだけならばただバラバラな断片に解体するほかない一日をひとつのまとまりとして取り戻すこと。日々記述し続けることによって自己の精神の分散・解体の危機に抗し、人格的同一性を未完の開かれた動態として書記行為を通じて形成し続けること。ビランの「日記」は、そのような自己の精神形成の持続する意志の顕現として読まれるとき、二世紀前のフランスの哲学者の古びた内省の記録であることをやめ、〈今〉〈ここ〉での生きた哲学的思索の現場として私たちの前に甦る。