内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(二)

2014-02-20 02:34:00 | 哲学

 今、私の目の前には、ビランの『日記』(全三巻)が置かれている。この版は、アンリ・グイエの注意深く用意周到な編纂になるもので、一九五〇年代半ばにスイスの出版社から刊行された。簡素なデザインの薄緑の表紙も本体の紙質も、当時の出版事情を反映してなのか、けっして上質とは言えないし、出版から半世紀以上経っているので経年劣化もかなり進行しており、頁をめくる時に少しでも手荒くするとすぐに破れてしまう。さらに長期間の繙読に耐えるようにと、数年前に表紙には図書館で使われているような透明なビニールカヴァーを自分でかけた。この版が未だにビランの日記については最も信頼の置ける刊本で、パリの哲学専門出版社 Vrin から一九八四年から二〇〇一年にかけて出版されたビラン全集にも日記は収録されていない。しかし、この三巻本出版後に発見された新資料もあるであろうから、それらも含めた新しい校訂版の出版が望まれるところである。
 このビランの『日記』は、私にとってまさに「座右の書」の一つで、今この記事を書いている仕事机から後ろを振り向いて手を伸ばせば、椅子から立ち上がらなくても取れる場所にいつも並べてある。その脇には、Seuil 社版エックハルト説教集・論述集仏訳四冊が並んでおり、これらもまた私の「座右の書」である。その一段下の座ったままでもっと取り出しやすい棚には、新版『西田幾多郎全集』が並んでいる。時々これらの本棚の並べ替えをそのときの研究上の必要に応じて行うが、これらの本だけはいつも同じ位置に置かれており、私の本棚のいわば「不動のレギュラー・メンバー」である。
 数年前、エックハルト説教集・論述集とビランの『日記』を並行して毎日読む読書計画を立て、エックハルトの方は数カ月後には読了したのだが、ビランの方は最晩年の二年間の分を残して、中断してしまい、そのままになっていた。そういうこともあって、このブログの記事を書き続けることを一つの基本動機として、その読書計画を再開させようと思い立った次第である。
 しかし今週は土曜日まで大学の仕事が山積していて、とてもビランの『日記』を落ち着いた気持ちで読む時間的・心理的余裕がない。大学の仕事などすべて放り出して、ビランの世界に沈潜したいところだが、悲しいかな、宮仕えの身、そうもいかない。そこで今日から土曜日までは、ごく簡単な紹介記事にとどまってしまうであろう。今日の記事は、ビランの日記の中でもよく知られた一文を引いて、それに一言加えて締め括りとしたい。その文が見いだされるのは、ビランが四ヶ月後に五〇歳の誕生日を迎える一八一六年七月二三日の日付を持つ記事の末尾である。この記事のテーマである魂の内奥に潜むまだそれとして発見されていない領野について、ビランは次のように記事を閉じる。
 集中した反省がなしうるすべてのことを誰が知ろう、ある日だれか「形而上学者コロンブス」のような人によって発見されうるであろう内なる新世界がないかどうか、誰が知ろう。
 ビランは、自らの身体において直接的に覚知される、いかなる身体器官にもその機能にも還元され得ない原初的な意志を基点として、この「内なる新世界」を索めての終わりのない航海に船出したのである。ビランの『日記』は、そのような果てしなき哲学的探究の航海日誌として読むことができるだろう。