内的自己対話-川の畔のささめごと

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揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(七)

2014-02-25 00:19:00 | 哲学

 ビランは、フランス革命がもたらした諸々の悪習が、フランス社会のすべての構成要素をほとんどすべてバラバラに分断してしまい、一つの有機的な全体であったものを数量的に取り扱われうる相互に無関係・無関心な個体の集合にまで解体してしまったことを一八二〇年六月二〇日にフランス下院に提出された「選挙法案についての意見書」の中で述べている。関連する別の文書の中では、全国民に選挙権を与える普通選挙法に反対しているだけでなく、選挙権を得るために必要な納税額を引き下げることにさえ反対している。その哲学的主張においては〈私〉に全面的にその権能を認めておきながら、政治的主張においては、社会を構成する個々の国民の〈私〉に等しく信を置いていないのである。「普通選挙は投票数だけを数え、それぞれの票の重みを量らない」と言う。そして、一八一七年九月二九日の日記には、「平等は今世紀の狂気である。この狂気が社会を破壊するまでに脅かすに至るだろう」とまで書きつけている。
 ビランは自分の人間学のテーゼと政治的立場との矛盾を自覚している。しかし、真の自己である「深い自己」と社会化された自己である「表面的な自己」とをベルクソンのように対立させることはなく、自分の人間学を不十分であまりにも狭隘であると見なしている。自分がそれまでに書いてきた諸論文が開いたパースペクティヴは、政治的諸権利のシステムを基礎づけることはできるが、義務の方はできないと認めた上で、次のように日記に記す。

ド・メットル氏の『政治的社会の生成と保持の原理試論』を読みながら、次のようなことを感じた。私のこれまでの研究は、あまりにも自分の思考を社会から切り離してしまっていた。私の心理学的観点は、人間をまったく孤独な存在にしてしまう傾向があった。魂をそれ自身との抽象化された唯一の関係の下に考察することによって、魂の内に動力しか見ないことに慣れてしまい、魂を一切の社会的感情、内密で深い一切の感情から切り離してしまった。ところが、これらの感情の中にこそ、私たちの道徳性とともに、私たちが人間として享受しうる幸福あるいは甘受しうる不幸があるのだ。人間は、思考の内的生の外に、関係と良心の生をなお持っている。(一八一五年六月一二日)

 このように記した上で、ビランは、自分がこれまで従ってきた哲学的原則からどのようにして道徳的義務、あるいはもっと一般的な意味での「義務」を導き出すのかと自問する。まさにこの問題において、自分のこれまでの哲学的思考のシステムの中にもう一つ別の能力のシステム、魂のもう一つ別の観点を導入しなければならないとビランは考えるのである。
 各個人は自分がそこで同胞たちと共に生きる社会に対して働きかけ、その社会は全体としてその各個人に作用を及ぼす。一方では、自由で自発的な行動のもたらす感情から、私たちが「権利」と呼ぶものが生まれて来る。そのような行動はそれ自身の限界を知らず、そのことによって自らを正当化するからである。他方では、必然的な社会側の反応から、諸々の「義務」が生まれて来る。個人の行動に付いて回るその社会側からの反応が、個人の行動に物理的な反応のようには正確には対応せず、個人に従属を強制するからである。義務の感情は、このような社会的強制力から生まれてくる感情で、各個人はこの強制力から自らを解放することはできないと実感する。
 以上がビランの権利と義務についての考えの骨子だが、これだけでは道徳的義務を基礎づけることはできない。権利と義務の関係がまったく考察対象になりえていないからである。もちろん、ビラン自身それはよくわかっている。しかし、自らの哲学の抜きがたい内省的傾向からなかなか自由になれない。上に引用した日記の一節の少し後にこう記している。

抽象的な省察の不都合な点は、道徳的感情にそれに可能な発展を与えることができず、魂が自らの外に、魂の能力の少なからぬ部分が差し向けられている人間社会の中に見出すことを必要としている支点を魂から取り上げてしまうことである。