内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「はかなし」攷(九)― 思ひ出もなき春

2016-01-21 00:56:36 | 読游摘録

儚くてこよひ明けなば行く年の思ひ出もなき春にや逢はなむ

 上掲歌は、一月十八日の記事で取り上げた「なきが儚さ」を結句とする歌に呼応するかの如くに塚本邦雄によって『王朝百首』中に撰じられた實朝のもう一首。『金槐和歌集』定家所伝本冬の部の最後に置かれている。その前の五首とともに「歳暮」という題の下にまとめられている。
 この一首は、結句に文法上の問題があり、それゆえ解釈が分かれる。
 「逢ふ」の未然形「逢は」に誂えの終助詞「なむ」が接続したと取るのが文法的には穏当なのだが、そうすると「(誰かに)春に出会ってもらいたいものだ」という意になってしまう。終助詞「なむ」は、「相手の動作の実現を希望する」の意だからである(旺文社『古語辞典』第十版)。
 この一首は、しかし、實朝自身の感懐とみるのが妥当である。そこで、文法的には無理なのを承知の上で、岩波日本古典文学大系本のように、自分自身が「出会いたいものである」とする解釈がある。この解釈に従うと、「旧年の思い出もない新しい春に出会いたいものだ」というような、過去を振り捨てて未来に向かって希望を託すかのごとき意の歌ということになる。
 しかし、自らの遠からぬ死を予感するかのような暗い眼差しが實朝の作歌への衝迫の基底にあるとすれば、この解釈は到底支持しがたい。
 そこで考えうる別の解釈の一つは、新潮古典集成本の同歌の頭注にあるように、「ここは新年を待望しているとは思われない。「あひなむ」と同意に用いているのだろう」とする解釈である。「逢ひなむ」であれば、この「なむ」は完了の助動詞「ぬ」の未然形に推量の助動詞「む」が接続した形であり、「きっと逢うことになるのだろう」という、「事態の実現を強く推量する意を表す」(旺文社『古語辞典』第十版)ことになる。
 「あはなむ」をこのように「あひなむ」と同意であると考えることができるのならば、過ぎ去った年の思い出の痕跡さえなんら留めることのない、酷薄なまでに己の運命に無関心な春の到来を凝然と見据える實朝が立ち現われて来る。その眼の中には、未来への希望など欠片も見出すことができない。
 『王朝百首』中の同歌の鑑賞文は、實朝の悲運に強く共振するパセティックな名文になっている(三一六頁)。

逝く年にも來る年にも思い出や期待をもたず、ただうつろな目を瞠いて中有を見据ゑてゐる青年の姿、二十八歳の横死を思えば一種慄然たるものがある。一首の調べも滯り口籠り、鎌倉振の冱えぬ響きながら、それがすなわち作者の心境を如實に現し、却つてうつくしい。「春にや逢はなむ」の結句など語尾を濁らせて口歪める實朝の表情が髣髴する。
 彼は蹴鞠と和歌に耽り官位昇進に異様な熱意を示してゐた。しかしそれが目的でも本心でもなく、明日の見え過ぎる目、覺めきつた魂のよそほふ狂氣ではなかつたらうか。すべては虚無、源家が自分を最後として絶えることも、その虚無に通ずる必然に過ぎぬ。空の空なる短い人生を和歌と呼ぶ言葉の鏡に映し、ひたすら嘆き訴へる。その凄じい調べがすなはち『金槐集』一巻に滿ちてゐるのだ。




















































「はかなし」攷(八)― 儚き夢におとる現

2016-01-20 05:35:56 | 読游摘録

あひ見てもかひなかりけりむばたまのはかなき夢におとるうつつは

 藤原興風(生没年不詳、醍醐天皇期の人、延喜十四年(九一四)、下総権大掾正六位上。三十六歌仙の一人)の一首。家集『興風集』に見える。『新古今』巻十三恋歌三にも入撰。興風の歌の初出は古今集(十七首入撰)。『新古今』には上掲歌も含めて四首撰ばれている。興風は、歌ばかりでなく、管弦、殊に琴の名手であったという。
 上掲歌は、『王朝百首』に掲げられている通りに第三句を「むばたまの」としたが、『新古今』では「うばたまの」となっている。いずれも「ぬばたまの」からの轉で、「黒」「闇」「夢」「夜」にかかる枕詞。
 「逢ひ見る」は、実際の逢瀬、契りを結ぶの意。実際に逢って見ても、それに見合った確かな現実感が得られるわけではないことに気づかされるだけ。そんな男女の逢瀬の現実は、儚い夢にさえ劣る。
 「興風は儚い夢よりも現實の方がさらに儚いといひ、そして夢を本然の闇に引戻し、未必の逢ひの幻滅を「かひなかりけり」と嗟嘆するに止めてゐる」(『王朝百首』二七一頁)。上下句の倒置は、「儚いと知りながらそれでも逢はずにはゐられぬたゆたひ」を感じさせる(同頁)。
 興風が生きた時代からおよそ百年後、和泉式部は、『和泉式部日記』の冒頭で、「夢よりものはかなき世の中」と嘆ずることになる。この世の中もまた、男女の間のこと。
 夢現のあわいを儚しと観じつつ揺蕩うように生きることで自足もできず、夢現の区別に拠らない確実性を求道するでもなく、夢現の二元的対立を止揚する思考の冒険に乗り出すでもなく、儚い夢よりも儚い現と嘆きつつ、その現への執着を断ち切れるわけでもない。王朝期の〈はかなし〉の世界とは、畢竟その境域を超脱するものではない。
 〈はかなし〉感が無常の経験へと転じ、そこからさらに無常観へと思想的に深化していくのを見るためには、中世を待たなくてはならない。王朝的な〈はかなし〉の感性から中世的な〈無常〉の観想への転換点に立つのが〈實朝〉である。






















































 


「はかなし」攷(七)― 月下、王朝貴種のダンディズム

2016-01-19 03:36:09 | 読游摘録

書斎窓前雪景色夜夜に出づと見しかど儚くて入りにし月といひてやみなむ

 『元良親王御集』中の一首。同集は後世の他撰。その冒頭には、親王の人となりについて次のような記述が見える。

陽成院の一宮元良のみこ、いみじき色好みにおはしければ、世にある女のよしと聞ゆるには、逢ふにも逢はぬにも、文やり歌よみつつやりたまふ。

 この言葉通り、御集に収められた百七十首ほどの歌は、そのほとんどが後宮の女性たちとの「華やかなかつ深刻な戀の贈答歌」である。眉目秀麗、音吐朗々、堂々たる体軀の風流貴公子だったようである。
 上掲歌の詞書には、「つきのあかき夜おはしたるに、いでてものなどきこえて、とくいりにければ、みや」とあり、どのような場面で詠まれたかがわかる。明月下、元良親王は、ある女を訪ねた。その女は家の軒端までは出て来て宮と一言二言言葉を交わしたが、またすぐ家の中に引き返してしまった。歌の意は、毎夜見ることのできる月ではあるが、僅かに垣間見ただけで隠れてしまった月、とだけ言って、今夜あなたに逢うのはあきらめて帰りましょう、とでもなろうか。
 「聲の主はちらと見えただけでたちまち局の中へ入つてしまつたといふ趣を前提としてゐる。恐らく窈窕たる佳人であらう。その見ぬ面影を短夜の月光に託して、仄かな戀の歌としている」(塚本邦雄『王朝百首』、講談社文芸文庫、二五〇頁)。
 逢瀬とも言えぬ束の間の邂逅の儚さを月に託して歌に詠み、さらりと立ち去る貴公子の王朝ダンディズムが月下に光る。



























































「はかなし」攷(六)― 在ることの儚さ

2016-01-18 05:29:21 | 読游摘録

昨日日曜朝の近所の森の入口の雪景色萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきが儚さ

 源實朝『金槐和歌集』中の一首。『王朝百首』は、『百人一首』と違って、百人の歌人それぞれから一首ずつではなく、塚本邦雄が「かねてからひそかに王朝六歌仙と呼んでゐる」業平、貫之、定家、良經、式子内親王、實朝からはそれぞれ二首ずつ採っている。
 實朝の撰歌二首にはいずれも〈はかなし〉が含まれ、上掲歌では結句に「儚さ」、三日後の記事に掲げる予定のもう一首では初句に「儚くて」と置かれている。前者が秋の歌、後者が冬の歌。前者が夕暮れから月夜への移り行きを、後者が旧年に別れを告げる最後の夜明けへと向かう時を詠んでいる。偶然の選択とは考えにくい。塚本は、この両首を擇ぶことによって、實朝の詩的世界の基底的感情としての〈はかなし〉を、時の巡り、季節の巡りととともに提示しようとしたのではなかったか。
 『金槐和歌集』には、上掲歌の詞書に、「庭の萩わづかに残れるを、月さし出でてのちに見るに、散りたるにや、花の見えざりしかば」とある。新潮古典集成版の現代語訳では、「夕暮れまで咲いていた萩の花が、月が出てから見るともう散っていた、そのはかない命よ」となっているが、次の二点において、私はその解釈に異を唱えたい。
 第一に、この歌が詠っているのは、夕暮れまで咲いていた花が月下散っていたのを見たということではなくて、夕暮れまではその最後の微光の中にさえ確かに在った萩の花が、月明かりの中、無くなっているという端的な事実であると私は読む。
 第二に、この歌の主題は、花の命の儚さではなく、萩の花のという自然の中の具体的な一個体の顕現と消失において覚知された一切の有限な存在の儚さであると私は考える。
 この解釈は、次の論拠によって支持されると思われる。
 詞書で「散りたるにや」と疑問形になっていることからもわかるように、實朝は、散るという花の消失の原因によりも、むしろ月下の花の消失そのものに心動かされている。この心の動きは、「咲いている」と「散ってしまった」との自然の連続する二過程の対比によってではなく、「ありつる」と「なき」、つまり存在と無との存在論的対比として歌に表現されている。
 新潮古典集成版の同歌の頭注は、この歌に本歌らしいものはないとしながら、第五句は『万葉集』巻十二の作者未詳歌「愛しと思ふ我妹を夢に見て起きて探るになきがさぶしさ」(二九一四)に近似するとしている。しかし、これも私にはまったく的はずれな指摘だと思われる。なぜなら、「さぶしさ」と「はかなさ」とはまったく異なった経験に関わるからである。前者は、居るべき人がそこに居ない不在によって引き起こされ、その人の現前によって解消され得る限定的・相対的な感情であるのに対して、後者は、存在そのものの頼りなさの実存的経験の表現であり、それを一度経験してしまえば、もはやいかなる感情によってもまぎらわされ得ない基底的な存在経験に関わっているのである。
 このように読んではじめて、上掲歌は、實朝の「魂の聲」として私たちの心に深く響く。
 塚本邦雄の同歌の鑑賞文から二箇所引用する(二二一頁)。

「なきが儚さ」。この虚無の呟きこそ日常の死を生きねばならなかった彼の魂の聲であらう。また實朝の名を消してもこの一首の冷え冷えとした不吉なひびきは人の心を刺す。

彼が観たものは現實の彼方の見てはならぬもの、禁忌、死の國ではあるまいか。













































 


「はかなし」攷(五)― 露をまとって立つ一茎の秋草

2016-01-17 01:28:49 | 読游摘録


はかなさをわが身のうへによそふればたもとにかかる秋の夕露

 『千載集』所収の待賢門院堀河の一首。我が身の儚さを秋の景物に重ねて嘆く歌は多いが、この歌はその逆で、はかなさを我が身の上になぞらえて捉えようとする。そして、「袂にかかる」とさらにズームを効かせ、焦点を絞り、その後に涙が来るかと思わせておいて、しかし、結句に秋の夕べの露という景物を持って来ることで、その暗示的効果によって、我が身の儚さを涙とともに自然の中に浸透させ、景情一致の儚さの景色を立ち現われさせる。塚本邦雄は、「一首の調べはそのまま露をまとつて立つ一莖の秋草を思わせる」とこの一首を評する(二一四頁)。
 塚本は、上掲歌の「秋の夕露」の心をさらにつきつめた作品として、次の一首を引いている。

それとなき夕べの雲にまじりなばあはれ誰かは分きて眺めむ

 自分が荼毘に付されて野辺の煙となって夕べの雲にまじって空に立ち上れば、いったいだれがそれを私と見分けてくれようか。「はかなし」と言葉にすることなく、〈はかなさ〉を詠った、「堀河の絶唱」と塚本は評価する。




























































「はかなし」攷(四)― あへなく過ぎる春あるいは人生

2016-01-16 00:16:27 | 読游摘録


ほととぎす五月待たずぞ鳴きにけるはかなく春を過ぐし來ぬれば

 『大江千里集』百二十四首の掉尾の一首。「詠懐」の題をもつ。
 ほととぎすは、「めぐりあふ五月を待ち切れずにまだ春の名殘ただよふ初夏に鳴き出した」(一二七頁)。その初音を聞いて、自分がとりとめもなく春を過ごしてしまったことに気づく。しかし、そんなふうに春をうかうかと過ごしてしまったのは私ばかりでなく、ほととぎすもまたそうだったのではないか。

この歌の面白さは下句の自分自身の思ひが上句のほととぎすにさかのぼりひびきあふところにあらう。ほととぎすもやはり春を夢の間にとりとめもなく過し、めぐりあふ五月を待ち切れずに春の名殘ただよふ初夏に鳴き出したといふ感情移入轉身のそこはかとないあはれ(同頁)。

 下句と上句との間には循環があり、ほととぎすと私との間に転生が繰り返される。いずれも、迂闊に時を過ごしてしまったかと思えば、季節の到来を待たずに生き急ごうとする。春から初夏へと、これとして確然とした区切りもなく、ただ淡淡しく季節は過ぎていく。人生もまた、茫々と輪郭も定かならざるままに過ぎてく。美しい調べの中に思い出の中の春霞のごとくにそこはかとなく無常感が漂う。
 虚無を生きることと美を希求することとが一つになるとき、そこに歌が生まれる。






































































「はかなし」攷(三)―「あはれ世の中」あるいは淡きニヒリズムの階調

2016-01-15 04:21:48 | 読游摘録


はかなさをほかにもいはじさくらばな咲きては散りぬあはれ世の中

 『王朝百首』中、「はかなし」あるいは「はかなさ」を初句に据えた歌が四首あるが、「はかなさ」で始まる歌は二首、その第一首目が上掲の藤原實定の歌である。『新古今和歌集』巻第二春歌下に見える。實定の『新古今』入首歌は上掲歌も含めて十六首。
 この平安時代末期の歌人に対する塚本邦雄の評価は、しかし、けっして高いわけではない。実際、上掲歌にも他の歌人に類似の発想が見られる。「桜花咲きては散りぬ」は、同時代の『殷富門院大輔集』中の「春の花咲きては散りぬ」と同工であり、「あはれ世の中」には蝉丸の先例がある。家集『林下集』を見ても、「秀歌には乏しい」(四〇頁)。『百人一首』に定家好みの代表作として採られた「ほととぎす鳴きつるかたを眺むればただありあけの月ぞ残れる」にいたっては、「論外」と切り捨てられる(同頁)。鑑賞文中に引用されている、實定なりに心を盡くして春の花のあはれを詠った四首についても、「あまりに淡淡しく胸に沁むものがない」と否定的。
 にもかかわらず、『新古今』春歌下の中、前後に並ぶ落花の歌の間にさりげなく置かれた上掲歌には、「獨特のうつくしさがあり、一種ひややかな光を放つてゐる」と評価する(同頁)。この歌の内容は、空海作のいろは歌に近く、『平家物語』の冒頭の無常観にも通ずるとし、「その無常観が決してことわりがましく表に出てゐないのがこの歌の第一の手柄であり、「あはれ世の中」なる溜息のやうな結句がまことに初句の「はかなさ」とかなしくひびきあふ」というところに、塚本によるこの歌の評価の焦点がある。
 その内容においてこの世を無常と観じつつ、理に落ちず、歌としての階調の美しさをよく保っていることを塚本は高く評価しているのである。世の中の虚しさをそれとして引き受けつつ、言葉によってそれを虚空に美しく描き出し響かせることに歌人の本来の面目を見ているのであろう。
 このような評価基準は、不意の二句切の絶妙なひびきを賞賛して、「心理のあやふさと律調の快い躊躇が渾然と和している。一首がいささかも理に落ちず却つて淡いニヒリズムを漂わせるのもこの技法のたまものだらう」というところにも働いている(四十一頁)。





















































「はかなし」攷(二)」

2016-01-14 06:00:47 | 読游摘録

 なぜ、塚本邦雄は、『王朝百首』の中に、『百人一首』にはまったく出てこない「はかなし」あるいは「はかなさ」という語を含む歌を八首も選んだのであろうか。
 この問題を考える一つの手掛かりとして、『百人一首』で使われている十六の形容詞のうち、「はかなし」と何らかの点で類縁性のある形容詞を挙げてみよう。「かなし」(三首)「憂し」(四首)「さびし」(三首)「つれなし」(二首)「惜し」(四首)「うらめし」(二首)「かひなし」(一首)等がそれに当たる。
 まず、気づくことは、際立って頻繁に登場する形容詞はないということである。次に、人間関係上の不安や不在や不安定さによって引き起こされる感情を表現、あるいは心理状態を記述している形容詞が多いということである。
 これに対して、『王朝百首』撰歌百首中には、全部で十九の形容詞を数えることができるが、「はかなし」以外に三首以上に用いられている形容詞は、ちょうど三首の「なし」一つだけ。
 『百人一首』と『王朝百首』とに共通して現れる形容詞は、「かなし」「憂し」「こひし」「かひなし」の四つだけ。
 『王朝百首』撰歌中の「はかなし」の頻出は、単に塚本の美学的嗜好と詩的感性との特異性を示しているだけなのであろうか。私はそうではないと考える。それは、「はかなし」という言葉が、単に王朝期の特に女流文学における基礎的感情を表す言葉であるばかりでなく、人間存在の基底的感情の最も端的な表現の一つとして、現代において果敢に前衛的な詩的実験を実践してきた詩人の鋭敏な耳によって数万首の王朝詩歌の中から聴き分けられた結果なのであろうと考える。
 では、その「はかなし」によって表現されている感情あるいは経験とは、どのようなものなのであろうか。
 明日から、『王朝百首』に擇ばれた百首中「はかなし」「はかなく」「はかなさ」をそれぞれに用いた八首を一首ずつ読んでいくことによって、この問いに少しずつ答えていきたい。
 この試みは、2014年11月25日の記事2015年2月24日の記事とで取り上げた問題をさらに展開するという意図に動機づけられてもいる


















































「はかなし」攷(一)

2016-01-13 09:31:54 | 読游摘録

 塚本邦雄『王朝百首』を繙読していて、ひとつ気づいたことがある。それは、選ばれた百首中、「はかなし」という形容詞あるいはその語幹に接尾辞「-さ」がついた状態名詞「はかなさ」を含んだ歌が目立って多いということである。八首を数える。
 そのほとんどが定家撰『百人秀歌』と一致する『百人一首』に対して、「秀歌なし」と断じ、「私自身の目で八代集、六家集、歌仙集、諸家集、あるいは歌合集を隈なく經巡つて、それぞれの歌人の最高作と思はれるものを選び直し、これを百首に再選して」(「はじめに」より)、それぞれに自らの現代詩への翻案と撰歌をめぐる鑑賞文とを付して編んだ『王朝百首』について、塚本は、同書の「をはりに」の中にこう記している。

 私はこの王朝百首を、異論を承知の上で、あくまで現代人の眼で選び、鑑賞した。權威の座を數世紀にわたつて獨占した趣の百人一首にことごとく反撥を示した。私の擇びこそ、古歌の眞の美しさを傳へるものと信じての試みに他ならぬ。單に定家の信條に對する彈劾の志ばかりではない。資質、才能、業績にふさわしからぬ作品を以て代表作と誤認されてしまつた各歌人の復權、雪辱も多分に含めたつもりである。

 このような意思によって編まれた詩歌集であるから、一方では、撰歌に塚本自身の審美眼が色濃く反映し、他方では、著名歌人の作品中これまで不当にも軽視あるいは無視されてきた歌に特に重きが置かれていることは容易に理解できる。
 それにしても、「はかなし」という語への偏愛とも言えなくはないこの傾きは、どう説明すればよいのであろうか。たとえこの語が王朝文学における感性の基調を決定する最重要語の一つであるとしても、それだけでは、この傾きを十分に説明したことにはならない。それは、『百人一首』には「はかなし」を含む歌は一首も選ばれていないだけに、なおさらのことである。










































離接の時あるいは形而上学的瞬間 ― 根源的受容性への〈開け〉

2016-01-12 10:48:41 | 随想

 職責上避けがたい仕事によって一日の大半を心身ともに拘束されればされるほど、その長い拘束時間に対して、持続の質において截然と異なり、屹然と対抗し、さらにはそれを凌駕し、ついには放下し、そこから離脱する瞬間を、少なくとも日に一度はもつこと。その瞬間において、慣性に支配されている日常的時間から己を切り離すこと。積み重ねによって何かを得ようとするのではなく、水平的連続性の内に無量に包蔵された垂直的瞬間に注意を集中すること。
 そのためにこそ私は毎日読みかつ書いている。たとえ身辺雑記であっても、それは自分の日常そのものが記録されるに値するなどと考えてのことでは毛頭なく、書くことそのことが、日常に接しつつそこから離れること、この意味において、「離接」の実践そのものなのである。たとえ愉しみための読書であっても、読むことそのことのうちで、時に魂は優に千年を遊行し、〈今〉〈ここ〉と、身体において、離接する。
 その離接の瞬間は、恍惚でも忘我でもなく、解脱でも救済でもない。端的に、根源的受容性への〈開け〉である。