内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

神秘経験としての祈りというテキスト

2018-07-21 19:55:00 | 読游摘録

 Jean-Pierre Jossua, Seul avec Dieu. L’aventure mystique, Gallimard, coll. « Découvertes Gallimard », 2008, (1re édition, 1996) には多数の興味深く示唆的な図版が盛り込まれているが、これはこの叢書に共通する特徴で、それらの図版を眺め、図版それぞれに添えられた短い説明書き読むだけでも多くのことをそれこそ愉しく学ぶことができる。
 本書の第一章の冒頭の節 « Que signifie « mystique » ? » には、« mystique » についての古代ギリシア語にまで遡る語源的説明とそれ以後の意味の変遷が簡略に示された後に、キリスト教世界に適用される « la mystique » の定義が示されている。

La « mystique » est essentiellement affaire de textes. Elle peut être décrite comme une union à Dieu, par une forme de prière, union qui n’est ni complète ni durable, mais néanmoins éprouvée avec une sorte de certitude intérieure. Elle suppose un dépouillement radical dans la prière, ainsi qu’une mise à l’écart des images, des sentiments, des pensées. Elle suppose aussi une ascèse rigoureuse dans l’existence même, portant sur les sens, l’affectivité, la vie de l’esprit et finalement la personnalité tout entière. Cette expérience est spécifique. Il y a de vrais chrétiens, des saints et même de grands orants ou de rigoureux ascètes, qui ne l’ont pas connue. Pourtant, si ce sens particulier du terme « mystique » date du XVIe siècle, l’expérience est déjà attestée au Moyen Age et même dans l’antiquité chrétienne (op. cit., p. 15).

 この一節には、神秘経験を考察するにあたって重要な論点がいくつも含まれている。La mystique は、神との合一として記述されうるが、それは「祈り」という形をとり、その合一は完全でも持続的でもない。しかしながら、一種の内的確実性とともに経験される。La mystique は、祈りの中の徹底した棄却を、形像・感情・思惟を遠ざけることと同じく前提とする。また、La mystique は、生活の中での厳格な禁欲・節制を前提とする。それは、五感・感受性・精神生活に渡り、ついには人格全体に関わる。このような経験は誰にでもありうることではなく、真っ当な信者でも聖人でも偉大な祈祷者でも厳格な苦行者でもそれを経験したことがない者は多数いる。しかし、たとえ « mystique » のこの特別な意味が十六世紀のものであるとしても、それに該当する経験は、すでに中世において、さらに遡って古代キリスト教時代にさえ、その証言を見出すことができる。













« Les Mystiques sont des modernes » という言葉の意味するところから ― La Mystique への歴史的アプローチ

2018-07-20 19:10:15 | 読游摘録

 今日は、昨日の定義の真逆の方向に向かう典型例を見てみよう。それは、Joseph Beaude(1933-), La Mystique, Cerf, coll. « BREF », 1990 という、日本式に言えば新書版サイズの一般向け解説書の中にある。著者は、十七世紀ヨーロッパ思想史が専門である。百二十三頁のこの小著は、著者が専門とする十七世の末に « Mystique » という言葉がある限定された意味で使われている文脈を描出することから始まる。
 その描出は、 « Les Mystiques sont des modernes » という一見すると逆説的な詩人ボワロー(1636-1711)の言葉の引用から始まる。当時の文学的流行に批判的で古典的典雅を理想とする詩人から発されたこの言葉は、もちろん褒め言葉ではない。ここでの « modernes » は、「儚い新奇さを求める悪趣味な輩たち」くらいの意味である。しかも、「神秘家連中」は当時すでに衰退傾向にあるという時代認識をこの言葉は伴っている。
 著者は、このようなボワローの見解の狭隘さを認める。しかし、間違ってはいないという。ボワローの言葉は、漠然としたある思想傾向を批判しているのではなく、当時廃れつつあったある種の新奇な表現に満ちた文学的テキストをその標的としている。著者によれば、« mystique » という定義が難しい対象を考察するにあたって、ボワローの事例は、歴史的かつ文献的に明確に限定された出発点をその考察に与えてくれるという有用性をもっている。
 以後の展開をつぶさに追っていては記事が長くなるばかりなので、著者のこのような立場が昨日のような普遍主義的で拡張型の定義と真っ向から対立していることがよくわかる囲み記事の一節を引用しよう。その囲み記事のタイトルは « Mystique occidentale et mystique orientale » となっている。そこで西洋と東洋とを概念の拡張使用によって同じ問題圏に引き込んで比較しようする近年の傾向をかなり激しい調子で批判している。

Comparaison n’est pas raison. En l’occurrence, elle élargit excessivement la notion de mystique. C’est une notion purement occidendale, formée dans le christianisme européen relativement récent, et il faut déjà beaucoup de précautions pour l’étendre à un Occident plus large dans le temps et dans l’espace, par exemple, jusqu’à l’Islam arabe ou perse du VIIIe siècle. Mais voir de la mystique en Inde ou au Japon paraît être un abus de langage, qui d’ailleurs produit parfois un singulier renversement. […] Quoi qu’on veuille, non seulement l’idée, mais le discours mystiques sont nés à l’Ouest. Ni la pensée, ni la connaissance, notamment la compréhension des cultures orientales, ne gagnent à la confusion des genres par l’extension immodérée d’une notion hors de son champs d’application, c’est-à-dire hors de l’aire relieuse et culturelle dans laquelle elle s’est formée (op. cit., p. 59).

 著者は、神秘的思考・言説は西洋で生まれたものであり、それ本来の適用領野を超えてその概念を行き過ぎた仕方で拡張して適用しようとすることは、諸範疇の混乱を引き起こすばかりであり、それが東洋の様々な異文化の理解に資するとろこはないと言い切る。
 このような歴史的厳格主義的立場に対する反論も人類学的な観点などから当然出てくるだろう。しかし、私自身は、どちかというと、歴史的文脈をしっかりと押さえ、その中で具体的に限定された時点から当時の言説に基づいて議論を出発させるこのようなアプローチの方を好む。そして、そのことは思想的視野を洋の東西に広く開くことと矛盾しない。













« Mystique » の定義の難しさ

2018-07-19 19:46:55 | 読游摘録

 « Mystique » という言葉の定義は難しい。フランス語で書かれた神秘主義関係の書籍に話を限っても、それらの中にまったく相反する定義が見出されることも珍しくはない。いくつか例を挙げてみよう。
 まず、マイスター・エックハルトの説教・論述の最も優れた仏語訳の訳者である Jeanne Ancelet-Hustache は、Maître Eckhart et la mystique rhénane, Seuil, coll. « Points Sagesse », 2000 (1re édition, 1956) の冒頭で、« Mystique » という語があまりにも乱用されていて、そのもともとの意味が失われかけていると初版出版当時の現状を述べた後、次のようにこの語を定義している。

La mystique, au sens propre, a ceci de commun avec la mystique selon l’usage courant du terme, qu’elle met l’accent sur l’élément irrationnel plus que sur les aspects sociaux, moraux ou dogmatiques de la religion. Elle se trouve chez tous les peuples, à tous les moments de l’histoire. C’est elle, surtout, qui permet de qualifier l’homme d’« animal religieux ». Peut-être pourrait-elle se définir ainsi : le désir mystérieux, éprouvé comme sacré, antérieur à toute justification rationnelle, parfois inconscient, mais profond et incoercible, de l’âme qui s’efforce d’entrer en contact avec ce qu’elle tient pour l’absolu, généralement son dieu, parfois aussi une entité plus vague : l’être en soi, le grand Tout, la nature, l’âme du monde.

 このような定義は、神秘経験はどの民族どの時代にも見出されるとしている点において、「普遍主義的」な定義と呼ぶことができるだろう。
 他方、その非合理性・非社会性・非道徳性・非教義性が mystique の特徴とされ、その本質は絶対的なものとの接触を求める魂の止みがたい欲求にあるとされる。
 しかし、このようなそれぞれの歴史的文脈を抜きにした普遍主義的定義は mystique の理解にとって有効であろうか。この定義に従えば、非一神教的な宗教の信者においても、さらには無神論者においてさえ、神秘経験はありうるということになってしまう。












遠く離れた国を旅するように

2018-07-18 23:59:59 | 読游摘録

 Michel de Certeau, La fable mystique. XVIe-XVIIe siècle, Gallimard, 1982 の « Introduction » の冒頭の次の一節は、神秘経験あるいは神秘主義へのアプローチに関して多くのことを考えさせる。

Ce livre se présente au nom d’une incompétence : il est exilé de ce qu’il traite. L’écriture que je dédie aux discours mystiques de (ou sur) la présence (de Dieu) a pour statut de ne pas en être. Elle se produit à partir de ce deuil, mais un deuil inaccepté, devenu la maladie d’être séparé, analogue peut-être au mal qui constitut déjà au XVIe siècle un secret ressort de la pensée, la Melancholia. Un manquant fait écrire. Il ne cesse de s’écrire en voyages dans un pays dont je suis éloigné.

 私たち自身はそれを経験することができないことを考察対象にすることは果たしてできるのだろうか。それから決定的に切り離されていることについて私たちは何を語れるのか。しかし、まさに私たちに欠けているものが私たちに書かせるのだ。自分たちから遠く離れた国を旅するように。












神秘経験における神へのあまりの接近は無神論の危険を孕んでいるか

2018-07-17 17:11:12 | 哲学

 神秘経験による認識にもそれ固有の整合性があることを認めさせるのは容易なことではない。なぜなら、神秘経験においてしばしば見られる相矛盾した言説は、その論理的整合性を疑わせるからである。しかも、そのような疑いは、哲学者たちによって理論的レベルで提出されるだけではない。キリスト教信者たちの多くもまた、同じような疑義を神秘経験に対して懐いている。それは、神秘経験とキリスト教信仰とを峻別することがキリスト教からプラトニズムを排除することになると考えてのことである。
 キリスト教世界で神秘経験の排除において徹底した主張をした神学者の一人が弁証法神学のカール・バルトである。バルトが特に批判するのは、神秘経験における神との過度の近さである。それはほとんど無神論であるとまで言う。
 しかし、フレデリック・ネフによれば、神秘経験に他性の否定を見るバルトの立場は行き過ぎである。確かに、無神論的神秘経験はある。しかし、すべての神秘経験が無神論であるわけでもなく、ニヒリズムに陥るわけでもない。
 プロテスタント神学に見られるこうした反神秘主義は、より一般的には、古代ギリシアの形而上学への批判をその背景としている。ネフが引用しているプリンストン大学哲学教授 Mark Johnston の Surviving Death, Princeton University Press, 2010, (Second Edition, 2013) によれば、そのような「切除」は、しかし、その施術後に患者が生き残れないような手術のようなものだ。
 私にはこれもまた言い過ぎだと思われるが、キリスト教信仰における神秘経験による認識の合理性と整合性という問題に関わる諸論点を明確化するためには有効だろう。
 ついでだが、出版を急いだせいなのか、ネフの La connaissance mystique には、誤植・脱字・誤記がかなり目立つ。それに、出典・参考文献の表記も不親切かつ不正確なところが少なからずある。とても瑕瑾と言って済ませられるレベルではない。大変注目すべき内容の著作だけに惜しまれる。












神秘経験の主体はありうるのか

2018-07-16 17:12:43 | 哲学

 神秘経験の主体とはいったい何なのか。この問題を心理学の問題に還元してしまったり、心の哲学の問題にすり替えてしまうことなく問うことは、神秘経験に固有の合理性の有無を問うことと同じく、容易ではない。
 神秘経験は、一般に、主体が一個の考える主体として「主体的に」獲得するものではない。神秘経験において、主体の役割は、むしろ何かがそこにそのまま立ち現われてくるスクリーンあるいはフィルターの機能にまで縮減されてしまうことが多い。
 そのときそこに姿を現わすのは、様々な心的機能に先立つ魂の頂点、あるいは、合一体験の単純きわまりない基底そのものである。神秘家たちの中には、神性の深淵の裡に、あるいは、神性の底なる砂漠の内に、魂は没入してしまうと考える。このような経験において、一切の限定と様態が否定され、最深の現実と無との同一性が顕現すると考えられる。
 しかし、そのような経験において起こっていることは、魂の底と神性の底なき底との単純な同一化ではない。もしそうならばそれは経験でさえありえない。魂の底においてこそ、神性の底なき底はそれとして把握される。その限りで、魂の底と神性の底なき底との間には還元不可能な差異がなくてはならない。
 だが、たとえそうであるとしても、別の問題が残る。魂が神性に没入するとはどのようなことなのか、という問題である。それは観想なのか。神秘的合一なのか。観想的合一なのか。
 この問題と併行して問われなくてはならないのは、主体とは一つの幻想に過ぎないのか、という問いである。経験の主体と思われるものは、表層に形成される虚像に過ぎないのか。それとも、その経験の主体に形而上学的存在を認めることができるのか。












神秘経験(la mystique)のタイプに応じた複数の存在論とその相対性

2018-07-15 19:34:32 | 哲学

 « La mystique » をどう訳すかで困っている。これを「神秘主義」と訳してしまっては、 « mysticisme » との区別がつかない。ところが、フレデリック・ネフは両者を区別している。前者がそれ固有の領域をもった経験とそれに基づく認識を指しているのに対して、後者はいわゆる神秘的経験を特権化する特定の主義を意味している。したがって、この文脈では、両者はむしろ互いに反意語の関係にあると見なさなくてはならない。
 「神秘神学」と訳すこともできない。なぜなら、ネフは « la mystique » と « la théologie mystique » とをやはり区別しているからだ。後者は、主にキリスト教神学の一つの系譜を指しており、それに固有の言説の体系を意味する。 前者は、それ固有の境位をもった経験であり、その経験はそれ固有の存在論を内含しており、その存在論と不可分な認識論を伴っている。
 問題をさらに複雑にしているのは、« la mystique » には複数のタイプがあり、それぞれに異なった存在論を内含していることである。一元論(monisme)、二元論(dualisme)、普遍主義(universalisme)あるいは個別主義(particularisme)などである。したがって、« La mystique » に唯一つの存在論を対応させることはできない。
 しかし、このことは、各存在論に相対性を認めることを要請するとしても、それら存在論そのものの相対主義を主張することとは違う。なぜなら、これらの存在論それぞれが絶対者との一義的関係をその根本に置いているからである。













創発(émergence)とは、「非連続の連続」である

2018-07-14 20:01:38 | 哲学

 昨日付けの記事で引用した箇所に見られる émergence 概念の導入の仕方に対して次のような反論があるだろうとフレデリック・ネフは想定する。

On peut nous reprocher une incohérence : l’émergence ne serait-elle pas un mode de la discontinuité, que nous avons précisément rejetée ? Si l’émergence est le surgissement d’une nouveauté, n’est-elle pas en rupture avec ce sur quoi elle émerge ? S’il y a rupture dans le processus, celui-ci n’est-il pas discontinu ? (Op. cit., p.21)

 一方で神秘経験を他の諸経験・諸現象と断絶させることを拒否しておきながら、他方で émergence を主張するとことは不整合ではないか。なぜなら、émergence が新たなものの出現なのであれば、それは既存のものと非連続なのではないか。
 このような反論に対してネフは、非連続と émergence とは違うとして、次のように応える。

En revanche, si nous repérons des émergences successives de la mystique, nous serons en mesure de penser un processus finalisé, source à la fois de nouveauté et de continuité (ibid., p. 22).

 継起的に発生する創発を見つけることができれば、それらがそこに属するところの一つの目的性をもった過程を想定することができる。この過程が同時に新しさと連続性との源泉となる。この過程においては、創発と連続性は矛盾しない。西田哲学の言葉を転用して言えば、創発とは、「非連続の連続」である。
 しかし、それぞれの創発的現出をそれとして捉えることはそもそもどのようにして可能なのか。それが可能になるためには、それがある既存の枠組みの中で発生することが必要条件となるはずである。そうでなければ、私たちはその新しさをそれとして認識することさえできない。
 単に共時的な諸現象間の相互的弁別性差異からだけでは創発は発生しないし、当然それとして認識することもできない。ある一つの通時的な過程を前提としなければ創発はありえないし、認識もできない。ネフが考察の対象を la « mystique occidentale » に限定している理由もそこにある。












現出(émergence)としての神秘経験

2018-07-13 23:59:59 | 哲学

 フランス語で、それまでそこになかったものが現れることを émergence という。例えば、« émergence d’un fait nouveau modifiant une théorie scientifique » [ある科学理論を修正させる新事実の出現]というように使う。生物学の分野では、「発展、進化の過程で、それ以前の段階では予想できなかった新しい特性の出現」という意味で使われ、「創発」という一般にはあまり使われない訳語が充てられる。
 この概念については、拙ブログの2014年9月2日・3日の記事で Anne Fagot-Largeault の論文 « L’émergence »(dans Daniel Andler, Anne Fargot-Largeault, Bertrand Saint-Sernin, Philosophie des sciences II, Gallimard, collection « Folio essais », 2002, pp. 951-1048)に依拠してラヴェッソンの『習慣論』における自由論を考察したときに取り上げている。
 この概念が昨日の記事で言及されている Frédéric Nef, La connaissance mystique の中で最重要鍵概念の役割を果たしていることは、本書の副題が Émergence et frontières となっていることからもわかる。

Dire que la mystique est un émergent, c’est dire qu’elle représente une nouveauté complète par rapport à eux. Cette base d’émergence, dans le cas de la mystique, contient des rites, des rituels, des symboles, des codes, qui forment l’essentiel de ce que l’on appelle « religion » et de leur complexité émerge la mystique. En ce sens, la mystique pourrait former un niveau empirique, autonome dans la science cognitive de la religion. On pourrait accepter que la religion émerge d’un processus que l’on peut naturaliser et que la mystique représente une seconde étape de l’évolution (Frédéric Nef, La connaissance mystique : Émergences et frontières, Éditions du Cerf, 2018, p. 21).

 肯定的にであれ否定的にであれ、神秘的経験を言表不可能な特異な現象とするのではなく、宗教の認知科学において固有の自律的領域をもった経験の問題として把握するために émergence という概念が用いられていることがよくわかる一節である。
 私が特にこの概念に注目するのは、ネフの大著そのものの理解のためにそれが不可欠だからというだけでなく、シモンドンと西田とを結びつける「絆」がそこにあり、かつ両者の哲学がネフの議論をさらに発展させる契機を与えてくれると考えるからである。













路上で拾ったK先生の古ぼけた黒革手帳から ⑤ ― 『神秘的認識、現出と境域』

2018-07-12 23:59:59 | 哲学

 「メランコリーの系譜学」の次の頁の第一行目目には、「Frédéric Nef, La connaissance mystique. Émergence et frontières, Éditions du Cerf, 2018」と著者名・書名・刊行年が記されています。四月に出たばかりの大著です。 私もつい最近買ったばかりです。
 著者のフレデリック・ネフ(1947-)は、言語哲学・分析哲学・認知科学・社会存在論などの分野やライプニッツ研究等で多大の業績を上げている哲学者です。二〇〇四年に刊行された Qu’est-ce que la métaphysique ?(Gallimard, coll. « Folio Essais »)という浩瀚な概論によって、私たちの認識活動一般における形而上学の本来的現実性を現代哲学のコンテキストの中で明らかにしてみせました。
 K先生は、このネフの新著にとても強い関心をもっているようです。書名の下に以下のようなメモが記されています。
 「西洋精神史における神秘的認識の系譜を認識論一般の中に位置づけることで、他の認識(特に科学的認識)との類縁性と異質性とを明らかにし、その経験と認識の正当性と固有の境域を確定することを試みる」
 「ある経験の歴史的連続性を認めることとその歴史的過程に複数の異なった発展段階を措定することとは矛盾しない」
 「創発の可能性を孕んでいる非線形的歴史過程を認めつつ、相互に断絶した複数の閉鎖系を併存させる無限相対論に陥らない歴史的認識論」
 私もこの夏休みの課題図書の一冊として読み始めています。