内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

未来への希望としての学生たちのレジリエンス

2020-05-01 23:59:59 | 講義の余白から

 学部二年生の「近現代日本文学」の授業の課題レポートの締切りは来週木曜日なのだが、昨日から一つ二つと届き始めた。なかなか力作揃いである。彼らのレジリエンスには感心する。
 大学閉鎖が決まった翌週、三月下旬に課題を出した。私が選択した近現代の二十人の作家の中から一人選び、その作家についてある問題を自分で設定してレポートを書けというのが課題である。ただ自由に書かせるのではなく、長さは厳しく制限した。だらだら書いても碌なものにはならないからである。
 課題発表の翌週には、選んだテーマを報告させた。場合によってはダメ出しをするためである。学生の方からはこんなテーマでいいかとの問い合わせも少なからず来た。それに対してはもちろん助言した。大きすぎるテーマを選ぼうとする学生には、長さの制限に合わせて問題を限定するように求めた。
 その翌週には、承認されたテーマについての文献表を提出させた。ここで彼らは苦労した。なにしろ図書館がまったく使えないから、インターネットでアクセス可能な資料か手持ちの資料だけが頼りだ。選んだテーマについての資料が見つからない、どうしたらいいかという問い合わせもあった。その場合、アクセス可能な資料に応じてテーマを変更あるいはアプローチの仕方を変えさせた。
 その翌週にはレポートのプランを提出させた。ここで大きな差が出る。一言で言えば、構想力の差である。テーマを選んだ時点ですでに問題をどう展開すべきか見えている学生とただ面白そうだからこのテーマにしましたというだけの学生とでは、プランの骨格も精度もまるで違う。レポート作成過程でプランを修正するのはもちろん構わないが、途中で大幅に変える学生は結局うまくいかないことが多い。
 この三月下旬からの一月余り、多くの学生とレポートについて随分メールのやりとりをした。もし普通に教室で授業をしていたら、こんなに頻繁にやり取りすることはなかっただろう。正直、ちょっと大変だったが、楽しくもあった。学生たちにとっても、ただ教室で授業を聴き試験を受けるよりも、自分で立てた問題について考えていくのは面白かったようだ。
 今日レポートを提出してくれた学生は、普段から授業後によく質問する学生だった。作家として小林多喜二を選び、同時代のヨーロッパのプロレタリア文学と比較するというのが最初のアイデアだった。だが、それではとても与えられた長さに収まらないから、日本の文脈に限定させ、比較論は諦めさせた。レポートを添付したメールの文面が微笑ましかった。
 「比較論は、先生の助言通りレポートの中には入れませんでしたが、やはり書いたので「第二部」として添付しました。成績評価の対象にはならなくてもかまわないので読んでください。この課題は研究のイニシエーションとしてとても面白かったです」とあった。
 このようにレジリエンスの高い学生ばかりではもちろんない。だから一概に言うつもりはないが、私が担当している授業の学生たちの多くはよく頑張ってくれていると思う。私にとって彼らは未来の希望そのものである。