内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

半引きこもり生活を続けるK先生宅訪問記 ―「師の謦咳に接することなくして学成り立たず」

2020-05-12 18:29:03 | 雑感

 偏屈者のK先生は、ここ何十年と半引きこもりの生活をフランス極東のライン川のほとりの街で続けている。万巻の書物の谷間に埋もれるようにして、日夜読書に勤しみ飽きることなく、先生自身以外は誰も読まない思索日記を営々と書き続けている。
 病的に非社交的な性格がわざわいして、先生の驚嘆すべき博覧強記を知る人はこの世界にはほとんどいない。もちろんあの世にもいない。
 外出するのは、せいぜい半月に一度、使い古して草臥れた登山用リュックサックを背負って食料品の買い出しにしぶしぶ出かけるくらいである。街外れにある先生の陋屋には、ネット環境などもちろんない。パソコンもスマートフォンもタブレットもない。それどころか、テレビもないし、ラジオさえない。新聞もとっていない。つまり外部の情報を入手する手段をまったく所有していないのである。
 私はK先生より一回り年下だが、先生が大学生だった頃からよく知っており、もう半世紀以上の付き合いである。先生のほとんど唯一の良き理解者をもって任ずる者である。
 三月十六日、外出制限令発効の前日、先生はおそらく制限令のことを知らないであろう、いや、そもそも新型コロナウイルス感染拡大のことさえ知らないであろうからと、心配になって自宅を訪ねた。
 「明日からカクカクシカジカの理由で自宅からの外出が厳しく制限されます。例外的に許可されている外出理由を記した証明書を携帯しないと外出できません」と簡単に事情を説明すると、案の定、「confinement ? 何じゃそれは」とまったく事態を理解していない反応が返ってきた。
 「余(先生は漱石の愛読者で、自分のことを話すときも自称詞として常に「余」を使う)には関係ないではないか。そもそも外出しないのであるから。それに、肉体をある場所の閉じ込める(confiner)ことはできても、それは魂が精神世界をその果て(confins)まで遊行することを妨げるものではない」と一向に気にする様子がない。
 「でも、先生、食料品の買い物はどうしますか。それにも例外的外出許可が必要なのですよ。」
 「それもまったくノー・プロブレムじゃ。いつ大災害が起こって食品流通が滞っても、一年は何も買わなくても食べていけるようにと、地下倉庫に充分な保存食が保管してあるのだ。それに余は一日一食、しかも少食であるから、少し食べる量を減らせば、一年半、いや二年は余裕で籠城できる」とちょっと自慢げな口ぶりで、まったく動じる気配がない。
 「学校もすべて閉鎖になり、授業はすべて遠隔授業になりました。大学も同様です。今日の午後、第一回目のオンライン授業をやってきましたよ」と説明しかけたが、これは先生には無意味であることにすぐに気づいた。先生はインターネットの何たるかさえ知らないのであるから。
 それでも、教室での授業ができなくなったことは理解したようで、「それは由々しき事態であるな」とはじめて深刻そうな顔をした。「どうしてそう思われるのですか」と聞くと、「師の謦咳に接することなくして学成り立たず」と厳かに宣われた。
 「教育内容の伝達手段など、どうとでもなる。人文学など書物を読めばほとんどそれで済む。しかし、師に直接お目にかかり、その肉声を親しく聴くことなしに、学問への情熱の火種が弟子に受け継がれることはない。」
 K先生の言うことはいつも大げさである。話半分、いや、十分の一くらいに聞いておかないといけない。それにしても、先生の家からの帰り道にこう思った。
 この非常時に乗じて教育の大半をオンライン方式に一気に移行させることは、学問教育の死の到来を加速させることになるのかも知れないと。