昨日の記事は暗澹たる内容だったので、今日の記事では明日への希望の光が差し込んでくるような話をいたします。
昨日が今年度最後の宿題の提出締切日でした。大学が閉鎖されてから合計六回、毎週宿題を出しました。五回目までは課題提示から五日後が締切りで、時間をかけて考えている暇はあまりなかったはずですが、半数近くの学生は毎回締切日前に提出してくれました。ところが、最後の宿題である六回目の宿題は四月二十日に課題を提示しましたから、締切りまで十二日間あり、しかも先週は春休みだったにもかかわらず、早めに出してくれたのは二三人だけで、残りの二十数名は昨日の夕方以降になって次々と送信してきました。つまりそれだけみな悪戦苦闘したわけです。
無理もない話です。日本学科の(いや、哲学部でも)学部レベルではありえない以下のような課題を出したのですから。
自然と人間とは、技術を介して、これからどのように新しい関係を構築すべきか。この問いに対するあなたの考えを述べなさい。まず、シモンドンと三木清の技術の哲学の要点をそれぞれまとめ、それから自分の考えを述べなさい。
しかも、これはシモンドンと三木清の技術の哲学についての私の日本語での計三時間に渡る超難解な録音講義を聴かなければ答えられない問題なのです。日本の哲学科の学部生だって仰天するような課題を、なぜか日本学科の学部三年生に横暴にも学科長の権力(そんなものは実は薬にしたくてもないのだが)を振り回して押し付けたわけです。サディスティックこの上ないアカハラとして提訴されても仕方がないような暴挙と言っても過言ではないでしょう。ただ、かねてより、私の授業に文句がある学生は学科長に訴え出る権利があると伝えてありましたが、そういう苦情は私のところには一切来ていないことをここに明言しておきたいと思います。
いつも早めに長文の見事なレポートを提出してくれる最優秀の学生も、「お待たせ致しました。やはり先生がおっしゃった通り大変むずかしかったです。頭が痛くなるほど一生懸命に理解しようとしました。(笑)」とのメッセージ付きでレポートを送ってくれました。
一応八百字から千字までと長さを指定しましたが、「書きたければ書きたいだけ書いてよい」と付け加えておいたので、千字を超える力作が半数近くを占めました。最長はなんと五千字です。
今朝、計二十八枚の宿題の添削を終え、すべて返送しました。以下、学生(チャレンジャー)たちの珠玉の回答集からほんの少しだけ抜粋しましょう。学部最終学期終了時の彼らの知力の到達点をそこに垣間見ることができるでしょう。
私の意見では、全世界が今経験しているパンデミックは、自然が人類に与えるもう一つのチャンスです。これは、人々が地球との付き合い方について考え直す機会です。
シモンドンは、技術が人間を間化したと考える人たちに対して、技術を間化したのは人間だと答えます。
技術が進歩することで自然と人間とが技術を介して新しい関係を構築するとき、「自然」という言葉の定義そのものを見直すべきに違いない。
「距離のパトス」と「回帰のパトス」の話を聞いたとき最初に思ったことは、人間と神の関係も同じようだということである。最初、両者は統一されていたが、人間は神から離れ、そして最終的には神の愛を探しに帰るだろうという気持ちが心のどこかにある。
シモンドンにとって、技術的オブジェクトからの人間の疎外は、機械による人間の作業の収奪によって説明されるものではなく、技術的オブジェクトの存在モードとその内部機能の誤解によって説明されるものです。
私は、人間と自然を保護するために、技術の知識を誰もが利用できるようにし、特定の企業が喧伝する偽情報と戦い続けなければならないと思う。
確かに汚染の問題はある意味技術が引き起こした問題ではありますが、現在の問題は技術ではなく社会の問題だと思います。つまりは資本主義的な今の社会では自然の事より利益の事を優先させているせいで、技術の悪い間違った使い方が止まらなく、自然は破壊されてゆく。そのため、私は社会そのものが変わらない限り、この人間と自然との関係は変わらない、変わっていけないと思います。
技術的な発明という行為は、集団へ開かれた個体的な行為であり、技術の内在的な規範性は、文化的な規範に左右されずに、社会のためにより普遍的な価値体系とともに、新しい道徳的な規範を成立していくことができる。この意味では、シモンドンは規範と価値のダイナミズムの中に倫理があると考えている。
シモンドにとって、「倫理」は一種の準安定的なバランス(純粋な倫理と応用倫理を区別しないこと)であり、つまり、時間の経過とともにゆっくりと進化する事で、この遅さにより、全体として安定性が得られる。倫理的問題と技術的問題は不可分である。
自然を支配するのは唯一の創造主ではない。バランスをとるためには、ある程度の破壊も必要である。この意味で、技術的なオブジェクトを生み出す創造的なプロセスは、新しい創造だけでなく破壊も目的としている。したがって、創造は破壊を生み、それが今度は新しい創造を生む。
これまで、技術と自然はまったくコンパチブルではないと思っていたが、意見が変わった。これまで、技術は自然の破壊のシノニムだったが、今それは違うと思う。三木清に同意する。技術は自然を破壊しないが、それを使って人間が破壊する。技術のせいではない。
大学が閉鎖され、自宅待機令が出てから、私はほんとうに好き勝手に授業をいたしました。自分が学生たちに伝えたいと思うことだけを話しました。それに文句も言わずについてきてくれた学生たち(その何人かは心のこもった感謝の言葉さえ私に送ってもくれました)に心から感謝します。この困難な時期を、物理的には離れ離れでしたが、彼らと一緒に過ごしたことを私は一生忘れないと思います。彼らのうちの何人かとは夏休み後に修士課程で再会できることを今から楽しみにしています。