内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

滞仏丸二十四年 ― だからなんなの?

2020-09-10 20:27:55 | 雑感

 今日の記事の内容はタイトルに尽きております。
 今日で滞仏丸二十四年になりますが、あ~ぁ、こんなに長い年月が流れているのに、なんと言いますか、それがまったく何ら実りある結果をどこにももたらしていないというか、こんな長い時間が流れているのに、自分は意味のある仕事をまったく何もしていないという深い溜息しか吐くことができません。
 年毎に、残された時間の短さだけがよりひしひしと身に迫り、いったい何やってんだろう、俺は、という自問しか繰り返すことができないのは、まことに惨めであります。愚かな過ちと軽率な選択と卑怯な回避を繰り返して来た結果ですから、まさに身から出た錆でしかありません。その事実に耐えるのが精一杯です。
 あと一年はなんとか持ち堪えるように頑張ります。そのあたりがいろいろな意味で潮時なのかなと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『風土』の読解から出発して、ドキュメンタリーを作成する演習

2020-09-09 23:59:59 | 講義の余白から

 今年の修士一年の演習は、和辻哲郎の『風土』が課題図書である。これは今年の二月にすでに決めてあった。この演習は、本来、翌年二月の日仏合同演習のための準備をその目的としている。
 ところが、この六月に先方の大学によって合同演習中止が決定されてしまったので、いわば目的を失ってしまったとも言えるのだが、だからといって演習そのものをなくすわけにはいかないので、プログラムを変更することになった。
 とはいえ、前期の前半は、課題図書の読解に充てられるので、その点では例年と変わらない。しかも、『風土』にはオーギュスタン・ベルク先生の名訳がある。この訳業には、私も校閲者として関わったので、その訳の厳密さについて自信をもって保証できる。それに多数の詳細な脚注がテキストの理解を大いに助けてくれる。ベルク先生による序文を読めば、『風土』の孕んでいる可能性と問題性についての予備知識が得られる。『風土』の理解には、日本語の原文だけを読むよりも、この仏訳を読んだほうが、日本人にとっても同書のより深い理解が得られると言っても過言ではないであろう。
 だから、原文を四苦八苦して読む必要はなく、いきなり内容に立ち入って議論し始めることができる。この読解・討論の過程で学生たちはそれぞれにテキストから問題を引き出し、それを展開することで口頭発表の構成を練っていく。今年は十六名と登録者が多いので、四つのグループに分けてグループ発表を行う。
 十月から来年一月にかけては、月一回のペースで、日本の学生たちとテレビ会議でディスカッションする。これでこの方式を始めて四年目になるのだが、昨年までと大きく違うのは、今年は皆すでにこのようなオンライン会議に慣れているということである。
 これらの既定のプログラムに加えて、今年のために私が提案したのは、一回三十分のミニ講義を私が予め録音しておき、それを月一回のペースで、十月から一月にかけて四回、参加する全学生に配信することである。テーマはすでに一応決めてあって、第一回目が「倫理と風土」、第二回目が「風土を考える/風土において考える Penser au « milieu » / Penser « au milieu »」、第三回目が「感性と風土」、第四回目が「内部世界の気象学と自己観察」としてある。
 こちらの学生たちには、さらにこれまでになかった二つ課題を課した。まず、九月中に学生たちひとりひとりが自己紹介のヴィデオを作成して、それを日本の学生たちに送ることである。もう一つは、フランスあるいはヨーロッパの風土についてのドキュメンタリーを作成することである。この作成には、十月以降、四ヶ月かける。
 最初は、四つのグループそれぞれに作成させようかとも考えたが、それはいくらなんでも過大な要求だと考え直し、クラス全員で協力して、役割も公平に分担しつつ、一つのドキュメンタリーを作成させることにした。 
 二月に予定されているテレビ会議による合同演習では、このドキュメンタリーをめぐってディスカッションを展開したいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この未曾有の繁忙期を、できるだけ頑張らずに、へらへらと乗り切りたい

2020-09-08 18:16:10 | 雑感

 今日は、ほんとうに誇張ではなく、午前五時から午後五時まで、ほとんど机の前から離れることなく、仕事し続けた。もちろん、プールにも行っていない。簡単に遅めの朝食を取っただけで、昼食は取っていない。
 何をしていたか。ほぼメールのやり取りに尽きる。いや、「やり取り」というのはあまり正確な表現ではない。私の方から相手に回答や意見や指示を与えることが圧倒的に多かったので、メールを書いては送りといことを一日繰り返していたと言ったほうがよい。
 朝、同僚の一人からメールがあり、この新年度の始まりは、やたらに学生からのメールが多いのは何故だろういう。彼女によれば、新入生の履修届がすべて電子化され、教務課に直接出向いてその場で質問できなくなり、しかも、オフィス・アワーも行われておらず、メールでアポを取ってからしか教員にも会えない。新入生のためのチューターたちもメールでの応対が原則だ。まだ右も左もよくわからない新入生たちは、ちょっとでもわからないことがあるとメールで問い合わせるしかないのだ。しかも誰に聞けばいいのかもよくわからないから、一年生の担当者である彼女のところに例年以上の件数のメールが届いているだろうという。
 たしかにそれが理由だろう。私のところに届くメールの件数も、これまで学科長を務めてきた過去三年間と比べると、少なく見積もって、三倍以上に膨れ上がっている。しかも、同じような質問が多い。学生たちにしてみれば、教務課やオフィス・アワーで直接聞ければ簡単に済むことなのに、一人一人個別にメールで問い合わせるしかなく、それに答えるこちら側にしてみれば、彼らを集めて口頭で説明できれば一度で済むことを個々に返信するという膨大な手間がかかる。
 それに加えて、学科の運営に関わる案件の処理にも追われた。日本語の全科目を私たちの日本学科で引き受けている別の学科の学科長とは、昨日私がメールでちょっと言い過ぎたこともあり、お詫びもかねて、電話で話した。予めお詫びのメールは送っておいたので、すでに彼は私のことを許してくれていたが、私のほうが気持ちの余裕を失い、事実に反し、しかも礼を失した内容のメールを送ってしまったことは誠に恥ずべきことだ。
 例年、新学年度開始から十月末までは、大学が一年で一番忙しい時期だが、今年は、そんなわけで過去とは比較にならないほどの忙しさだ。この未曾有の繁忙期を、できるだけ頑張らずに、へらへらと乗り切りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新年度対面授業開始 ― 教室という劇場空間と授業の演劇性

2020-09-07 23:59:59 | 講義の余白から

 今日から新年度2020-2021の授業が始まった。私は、今日、三年生の Civilisation et culture japonaise の一コマがあった。彼らがまだ二年生だった今年の三月十二日木曜日に近現代日本文学の授業を教室で行ったとき以来だから、半年ぶりの再会であった。みな元気そうで何よりである。名簿に名前が載っている学生は全員出席。去年前期の単位は取得している留年生も来ていた。皆やはり教室での授業が待ち遠しかったのだろう。二年生のときからできのいい子が多い学年だったが、半年ぶりの教室での授業に何か新鮮なものを皆感じているようでもあり、反応もとてもよく、気持ちよく授業することができた。
 もちろん以前の平常に戻ったのではない。感染症の危険は今もなお私たちを脅かし続けている。全員マスク着用したままであり、それは一歩距離を置いて見れば、異様な光景だとも言える。今日は天気が良くて、教室内で話し続けているとマスクの中に熱がこもってしまい、それはとても不快だった。
 空気が共有される教室でしか伝わらないものがある。そんなものは学習内容とは関わりがないと遠隔派の人たちは言うかも知れない。しかし、テレビやネットでの舞台中継の鑑賞と劇場での生の舞台の鑑賞とが同じ経験だという人はいないであろう。教室は一つの劇場空間であり、授業には演劇性が伴うと私はかねてより思っている。だから教室での授業は楽しい。毎回が舞台だから、もちろんうまくいかないときもある。
 いつまた状況が悪化し、教室での授業ができなくならないともかぎらない。それは学生たちだってわかっている。許されるかぎり、彼らと教室という劇場空間を共有し、楽しみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夏休み中の自主研究レポート

2020-09-06 23:59:59 | 雑感

 今日の午前中は、今年二年生になった一年次学年トップだった学生から前日に届いた徒然草についての自主研究レポートへのコメントを書くことに費やした。彼女は、昨年日本学科に来る前に、パリのリセ・ルイ=ル=グランのグランゼコール準備学級に在籍していて、入学時の成績も最高位であった。日本学科に登録してすぐに一部の語学の科目は免除になり、哲学部に同時登録した。日本の伝統的美意識に関心があり、それをテーマとした美学的研究を将来したいという考えを入学直後の面談のときに話していた。
 夏休み中、彼女からメールが届いた。「今、徒然草の仏訳を読んでいて、すっかりその魅力に取り憑かれてしまったのだが、やはり原文と照らし合わせながら読みたい。でも、まだ古文を読みこなす力はないから、信頼できる現代語訳はないか」という問い合わせだった。さっそく電子書籍版で入手可能な最新の現代語訳を二つ紹介し、併せて入手しやすく学科の図書室にもある注釈書を三冊紹介した。
 昨日のメールの文面と添付されていたレポートの内容からして、徒然草全文を読み込んでいることがわかる。第一部で自然・感覚・美の三点を基軸概念として規定した上で、第二部で徒然草に見られる兼好の美的嗜好の特徴を捉え、第三部ではその例証としてテキストの注釈を行うという構想で、送られてきたのは第一部の草稿であった。
 本人も自覚しているように、研究プランとしてはまだほんの粗描に過ぎないが、将来的には日本中世の美意識の美学的研究を総合的に行いたいという雄大な構想を抱いている。コメントと併せて、研究を発展させるための参考文献も数冊挙げておいた。
 こういう指導は、どんなに忙しくても苦にならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


妄想的全国大学一元化論

2020-09-05 11:47:47 | 雑感

 自慢ではないが、私の授業の内容など、学生たちが世の中に出てから役に立つことはまずないと言っても過言ではない。そんな、不要不急どころか、無用・無益な授業など廃止してしまえばいいというご意見もあるだろう。ごもっともである。しかし、それでは私が失業してしまうから、困るのである。学生たちには大変申し訳ない話であるが、あと数年は辛抱していただきたい。
 本学においても、他の先生方は、どこに出しても恥ずかしくない立派な授業をされていることだろう。他の大学では、もっと質が高く、有用で知的刺激にも富んだ素晴らしい授業が多数行われているに違いない。そういう質の高い授業を、遠隔でどんどん配信していただいて(多少の受講料は徴収するとして)、大学の壁を超えて、多数の学生たちが受講できるようにしたどうであろうか。
 そうすれば、できのわるい教員はお払い箱にできるし、教室もいらなくなるし、大学の数もぐっと減らせるから、莫大な予算削減が可能になり、大学全無償化も夢ではなくなるだろう。
 もっと極端なことを言えば、放送大学のようなシステムを徹底的に拡充して、各分野、共通科目はすべてオンラインあるいはオンデマンドにして、全国どこからでもアクセスできるようにしてはどうであろうか。
 こうすれば、学生たちはわざわざ地元を離れる必要がなくなり、もしかしたら地方活性化につながるかも知れない。もっとも、都会の大学とそこでのキャンパスライフに憧れている高校生たちも少なくないであろうから、都会の大学に行くチャンスがなくなれば、彼らはすっかり失望して、勉強の意欲を失ってしまうかもしれないが。
 このような全国大学一元化という、間違いなく歴史に残る超大改革が実現したら(後世の歴史家たちによって「令和の大学教育大改革」と呼ばれるようになることであろう)、全国各地の個々の大学は消滅し、それに替わる学習センターが各地方自治体に開設される。幸いにもこの夢(いや、悪夢かな?)のような大改革の後に生き残った旧大学の先生方(もちろん私はその数に入っていない)は、何をその職務とすればよいであろうか。少人数の演習形式で、きめ細かな学習・生活指導を行い、進路・就職の相談に乗ることをその主たる職務とすれば、将来の日本を背負って立つ頼もしい学生たちを全国各地で輩出させることができるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


問題「各個人間の一メートルの物理的距離の確保を厳守せよ。ただし、教室収容人数上限を減少させてはならない」― あなたの解答は?

2020-09-04 23:59:59 | 雑感

 今日の夕方、学長名でCovid-19感染予防対策に関する最新の指針が届いた。その第二項は以下の通りである。

Article 2 :

Le port du masque est obligatoire pour toute personne (étudiants, enseignants-chercheurs, enseignants, autres personnels, visiteurs, prestataires, etc.) de onze ans et plus dans l’ensemble des campus et bâtiments universitaires.

La distanciation physique d’au moins un mètre entre individus doit être respectée.

Toutefois, dans les salles d’enseignement et les amphithéâtres, cette distance doit être respectée dans la mesure du possible sans que cela n’impose une réduction de leur capacité d’accueil.

 第一段落は、マスク着用は、11歳以上のすべての者(教職員・学生・訪問者・従業者等)にとって大学の全キャンパスと建物内において義務である、と明確に規定している。
 次の一行は、各個人間の最小限一メートルの物理的距離の確保の厳守を求めている。
 ところが、次の段落は、教室および階段教室(大教室)においては、物理的距離の確保は、収容上限人数の減少を引き起こさずに可能な範囲で厳守されなくてはならない、と言っている。
 つまり、すべての教室において、物理的に収容可能な最大数まで学生を受け入れてもよい、ということである。言い換えれば、出席を希望するすべての学生を教室に受け入れることが最優先され、そのために物理的距離が確保できなくてもいいですよ、ということである。
 授業にもよるが、この原則を適用すると、特に新学期開始直後は、教室が一杯になる授業が少なくないであろう。その場合、学生同士の距離は、一メートルどころか、三十センチくらいしか確保できない。どういう結果がそこから生じるかは来週月曜日から二週間ほど様子を見る必要があるだろう。
 我が日本学科に関しては、一二年生の大半の授業は一メートルの距離を充分に確保できるほど広い教室を確保できている(このあたりは学科長の周到な配慮のおかげだと言っても過言ではないのだ、と誰か言ってよ)。三年生に関しても、幸いなことに予想よりも若干登録学生が少なく、しかも前期は単位取得済みの留年生もいるから、実際の出席者は25名前後と予想され、五十人収容の教室でも充分に一メートルの距離は確保できる。
 ああ、来週月曜日から始まる授業が待ち遠しい!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


迷走する感染予防指針に振り回される教員たち

2020-09-03 19:38:59 | 雑感

 昨日の記事で話題にした感染予防対策に基づいた授業方式の話を続ける。
 今、怒りと不安と安堵とが交錯した不思議な気持ちである。
 今朝方、三年生向けに各科目の授業方式を説明するための一覧表を作成していて、あと一科目の方式だけ報告待ちというところまで仕上げておいた。ところが、である、今さっき学部長から転送されてきた学長室の新しい指針によると、すべての教室で一メートル間隔の確保はもはや必要なく、教室収容上限人数まで受け入れてよいことになった。
 なんなの、これ。今までの私の準備はすべて無駄になったってことでしょ。これまでさんざん教員たちを授業方式について悩ませておいて、土壇場でチャラにするって、現場の苦労に対する配慮がなさすぎじゃネ。
 ただ、すでに二グループ分割方式を採用し、学生にも告知してある場合、それはそのままでかまわないという。しかし、この中途半端な方針は、感染予防対策上、どんな根拠があってのことなのか。それとは関係なく、まあせっかくご準備なさったのですから、それはそれでどうぞってことですか。
 でも、これでもし全員を受け入れた教室でクラスターが発生したら、どう言い訳するのか。二分割方式を遵守した教員たちからは、そらみたことかという批判が出ることは間違いないし、そのクラスター発生による感染拡大の危険に晒されるのは、当該の教室の学生とは限らないから、深刻な感染拡大を大学外にも広げる危険なしとしない。
 教員たちに選択の余地を与えるのは悪いことではない。私も通常の全員出席の対面授業を望んでいる。二分割方式で行うと今朝方学生たちに通知した月曜日の授業の初回も、先程、全員を受け入れる対面授業に変更すると学生たちに伝えた。他の教員たちについては、各自の判断に任せる。日本学科だけ足並みを揃えたところでほとんど意味はなく、むしろ各教員が学生たちと話し合い、現状においてもっとも自分たちにとってやりやすいと感じられる方式を採用してくれればいい。来週金曜日、一通りすべての授業の初回が終わった時点で教員会議を開き、翌週からの方針を話し合う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「教室収容上限人数の半分まで」を原則としつつ、ほぼ全部の授業を対面式で行う

2020-09-02 23:59:59 | 雑感

 来週月曜日から今年度の授業が始まる。
 もっとも人数が多い一年生に対しては、すべての授業が対面式で行われる。もちろん、教員も学生もマスク着用が義務である。日本語実践の授業は五つのグループに分かれ、毎週全員出席する。一年生全員が出席する文法の授業は二グループに分かれるが、こちらもそれぞれ毎週全員出席が義務。
 日本学科一年生全員だけでなく、他学科の学生たちも選択する日本文明の二つの講義は、大きな階段教室で行われるが、これは出席者を二グループにわけ、それぞれ隔週で行う。古代から近世までカヴァーする講義では、講義を中継し、教室に出席しないグループも遠隔で同時受講する。近現代日本についての講義も、二グループに分けられるが、こちらはそれぞれのグループが隔週で出席する。教員は同じ内容を二回繰り返すことになり、通常の対面授業より教授内容は大幅に削減されるが、課題図書・宿題提出等でその欠を補う。
 二年生の授業もすべて対面式である。二年生は人数も六、七十人程度、それに対してすべての授業で充分に広い教室を確保できたので、毎週全員出席が義務である。
 三年生はもっとも人数が少なく、三十人程度なのだが、かねてより使用している教室がちょうどそれに見合った大きさであることが、皮肉なことに、逆に足枷になり、毎週全員出席は難しい授業がほとんどである。二グループに分けて、隔週というのが原則になる。この場合も、課題提出等でその欠を補う。
 上記の方式を前期の終わりの一月中旬まで続けることができるかどうかはわからない。実際、学長名で発表される方針がほとんど日毎に微妙に変わる。ここ数日間に教職員宛てに一斉メールで送られてきた感染予防対策関連の文書間にさえ矛盾があり、すぐに教員から指摘があった。ある文書では、教員に対して、マスク着用義務の例外として、「授業を行う際にはマスク着用は義務ではない」となっていたのに、他の文書では「キャンパス内ではマスク着用は常に義務」となっていた。その指摘を受けて、「授業中も教員のマスク着用は義務」と訂正された。
 身体的距離の確保についても、大学の指針には曖昧な文言が残っている。教室内での各人間の一メートルの距離の確保が原則とされながら、それに「可能な範囲で」という条件が付されている。これだけでは大きく異なった解釈の余地を残す。一メートル確保が不可能な場合、何人まで教室に受け入れていいのか、まったく指示がないからである。
 もちろん、常識的に考えて、収容上限人数まで受け入れていいと解釈する教員はいないだろう。しかし、夏休み前の指針には「収容上限人数の半分まで」という明確な制限規定があったのに、その制限規定が最新の指針では外されたため、何人まで受け入れるかが現場の判断に委ねられてしまっているのである。
 確かに、学部・学科によって、学生数に大きな差があり、使用する教室の大きさも異なるから、一律的な制限規定は現実的ではない。しかし、感染予防対策として科学的根拠があり且つ現実に適用可能な規則が明確に規定されないままに授業を開始せざるを得ないのは、教員にとっても、学生にとっても、不安であることは否定し難い。
 我が日本学科は、結論として、「教室収容上限人数の半分まで」を原則としつつ、ほぼ全部の授業を対面式で行うという方針でさしあたりは行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「この先どうなるかわからない。だからこそ、今しっかり学べ」と私は学生たちに言いたい

2020-09-01 23:52:36 | 雑感

 今日が新学期初日(そうなんですよ、9月1日から始まっちゃうのです)で、早速新入生ガイダンスを階段教室で行いました。例年と違うのは、一つの教室に新入生を一度に集めてオリエンテーションを行うのではなく、名字のアルファベット順に三つのグループにほぼ等分に分けて行ったことでした。
 例年、百数十人の学科新入生を250人収容可能な階段教室に集めてオリエンテーションを行うのですが、今日は、同じ階段教室に各回の出席者を50人未満に制限して行いました。つまり、三回同じ説明を繰り返したのです。教員も学生もマスク着用が義務であること、あらかじめ周知徹底してありました。
 私は学科長として全般的なことを簡単に説明しただけで、個々の点については担当教員に説明してもらいました。例年通りならば、一回で済むことを、三回繰り返したので、合計4時間半かかりました。その間ずっといて、必要十分な説明をし、個別質問にも丁寧に答えてくれた学科の教員たちに心から感謝しています。結果として、これまででもっとも懇切丁寧なオリエンテーションができました。
 これは初日を終えての主観的で根拠薄弱な私的感想ですが、このような過去にない形で、結果として、新入生たちをよりよく迎え入れることができたと思っています。出席教員総出で個別質問に答える時間もいつもの三倍になりましたが、それだけきめ細かに答えることができました。
 感染状況は予断を許しません。いつまた今年の三月のように大学閉鎖に追い込まれないとも限りません。そうなったらそうなったで、誰もそれを望んではいませんが、適宜対処する他はありません。
 週単位で変化する先の読めない状況の中で、さしあたりの方針を立てることさえも難しいのに、新入生たちに向かって「君たちの将来は云々」という話を単純に肯定的にはしにくい。しかし、だからこそ、今学べることをしっかり学べ、そのために私たち教員はできるだけのことをする、そう学生諸君たちに私は言いたい。