内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

文章的な映像とはどのような作品か ― 新海誠の作品に即して考えてみる

2020-09-20 23:11:30 | 講義の余白から

 映像表現と文章表現との間の違いと両者の間の可能的な関係について考えてみようというのが明日の授業のテーマである。
 考察対象として新海誠の三つの作品を取り上げる。『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』と『君の名は。』である。これら三作には、新海誠自身がノベライズした小説がある。同じクリエイターがそれぞれに映像と文章とで表現しようとしたものを比較できるわけである。それがこの三作を選択した理由である。
 しかし、三作それぞれの映画に対する小説の関係は一様ではない。その点について、映画と小説そのものを比較検討することと併せて、両者の関係についての新海誠自身の説明も手がかりして考察したい。二回に分けて考察する。明日の初回は、前二作を取り上げる。
 『小説 秒速5センチメートル』の「あとがき」(二〇〇七年八月記)で新海誠は次のように述べている。

映画と小説で相互補完的になっている箇所や、映画とは意図的に違えた箇所などもあり、映画の後で小説を、あるいは小説の後で映画をご覧いただければ、より楽しんでもらえるのではないかと思う。

 映画と小説と両者相俟ってより大きな一つの作品として読むこともできるし、両者の間の違いを行き来することで作品世界が増幅されるようにもなっているわけである。

映像で表現できることと、文章で表現できることは違う。表現としては映像(と音楽)の方が手っ取り早いことも多いけれど、映像なんかは必要としない心情、というものもある。

 これはその通りだと思うが、表現者としての新海誠自身にとっては両者の間の往還運動が作品の創造に必要なのだろう。そして、こんなことを言っている。

これから先もきっと、僕は映像を作ったりそれが物足りなくて文章を書いたり、あるいはその逆をしたり、はたまた文章的な映像を作ったりということを繰り返していくのだと思う。

 ここに出てくる「文章的な映像」とはどのような作品なのだろうか。これが明日の授業の中心的な問いになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


部分的に録音授業を使うことのメリット

2020-09-19 23:59:59 | 講義の余白から

 月曜日に行う「日本の文明と文化」という超ザックリとしたタイトルの学部三年生対象の科目を担当するようになって今年で三年目です。この授業はすべて日本語で行います。このブログですでに度々この科目のことを記事にしてきていますので、「またかよ」とうんざりされる方もいらっしゃるかと推察されますが、懲りずにまた話題にします。
 まあ、この授業は、ほんとうに好き勝手にやっているのですが、一つだけ原則があるとすれば、日本製の視聴覚教材(と言うともっともらしく聞こえますが、実際は日本の映画とドラマにほぼ限られています)を使って、学生たちに様々な問題を考えさせ、それらの問題について日本語で文章を書くことを宿題としていることです。提出された宿題は、もちろんすべて添削して返します。
 教室での対面授業は、要点と基礎語彙と重要事項をパワーポイントで示しながら授業を進めます。身振り手振りや表情も言説内容の伝達の補助手段となりますし(現状ではマスクのせいで表情はあまり役に立ちませんが)、ちょっと早口過ぎたかなと気づけば、少し速度を落として同じ表現を繰り返したり、学生たちの反応を見て、これはあまりわかっていないなと判断すれば、言い方を易しくしたり、鍵になる言葉を板書したりと、臨機応変に対応できます。
 しかし、学生たちの聴解能力を鍛えるという目的からすると、このような補助手段の利用や老婆心は必ずしも好ましくありません。なぜなら、ほんとうは完全には聴き取れていないのに、私が言っていることがわかったと彼らが思い込んでしまうからです。
 そこで今年度の新機軸(というほどのものでもありませんが)として、授業の一部を事前に録音し、それを各自聴いてから教室での授業に臨むようにさせたのです。この方法のメリットは、各自が聴解に集中できること、繰り返し聴けること、授業内容について自ずと予習できることです。
 今日、二回目の録音授業を大学の専用サイトにアップしました。何人アクセスしたかチェックできるようになっています。第一回目の録音授業のアクセス数は48回でした。登録学生数は29名ですから、何人かは複数回聴いていることがわかります。
 数回終えたところで、学生たちからのフィードバックを参考にして、改善を図るつもりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


授業の合間にテキトーに休もう

2020-09-18 18:18:52 | 講義の余白から

 今日、金曜日、学部三年生の二コマ連チャンです。と言いましても、計三時間ですから、時間的にはチョロいもんすよ(ウソっす)。しかも、コロナ禍を受けて、二つの授業間の学生の入れ替えのために少なくとも定刻十分前には授業を終えるようにという大学のお達しがありましたので、二時間の授業でも、実質的には一時間五十分で切り上げなくてはなりません。それだけ授業が短縮されるわけです(ラッキー!)。
 ここまで読んで、奇妙に思われた方もいらっしゃるかも知れません。授業と授業の間には十分から十五分の休憩時間があるから、早める必要はないのでは、と。
 ごもっともなご指摘、ありがとうございます。どういうことか、ご説明いたしましょう。フランスの大学の時間割には、基本、休み時間がありません(授業間の休憩時間を導入している大学もあると聞き及んでおりますが、少なくともストラスブール大学では導入しておりません)。つまり、すべての授業が8時から18時までビッチリ連続していて、休み時間がまったくないのでございます。
 したがって、コロナ禍以前は、直前の授業の教師が時間割通りギリギリまで授業すると、学生の入れ替えのために数分割かなくてはならないので、当然、次の授業の開始時間は数分遅れます。これが常態でした。しかも、少しぐらい超過しても、ノープロブレムだろと、平気で自分の授業時間を超えて喋り続ける教師も少なくありませんから、なおのこと、次の授業の開始が遅れます(私、十五分待たされたことあります。もちろん学生たちも。当該の教師は、何事もなかったかのように、爽やかな笑顔を残して、風と共に去っていったのであります)。それを日常茶飯事として授業を行うのが、シックでエレガントなおフランスなのでございます。
 時間割を律儀に守ることそれ自体を御璽御名で遵守されている謹厳実直で美しい日本の聖人君子たちには、ありえネ―話であろうと拝察申し上げます。
 ぶっちゃけ、スッゲー、テキトーっすよ。私自身、今日の二コマは午前11時から午後2時までなのですが、昼休みなしなんすよ。で、一つ目の二時間の授業は、12時40分に終わりにしました(マスクしてこれだけぶっ通しで話すと疲れるし)。13時からの次の授業も同じ学生たちが相手なのですが、この二十分間に私は学生たちの質問に答え、その同じ教室で何人かの学生たちは、自前のお弁当を食べながら、質問に答えている私の話を聞いていて、気が向くとおまけの質問したりするんですね。それも、かなりリラックスした感じで。結果として、私は休み時間ゼロなんですけど。
 個人的な感想ですが、私はこの時間がとても好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


思い出すことができない遠い過去と繋がれている場所としての〈家〉はどこにあるのか

2020-09-17 21:22:54 | 読游摘録

 バシュラールの『空間の詩学』の初版はPUFから1957年刊行されているが、その後何度も版を重ねている。私の手元には、2001年刊行の第8版と2012年刊行の第11版の第二刷(2013年)がある。今年に入ってPUFの « Quadrige » 叢書の一冊として校訂版が新たに出版された。初版の本文はそのままだが、校訂者による Présentation が新たに加えられ、同じく校訂者による詳細目次・後注・参考文献表・人名索引・事項索引が巻末に置かれている。結果、頁数は旧版のほぼ倍に増えている。『新しい科学的精神』の校訂版も『空間の詩学』のそれと同時に刊行されている。
 この『空間の詩学』の校訂版には、昨日の記事で引用した箇所に出てくる « immémorial » という語に校訂者による後注が付されている。このフランス語を「太古」と訳しただけではニュアンスが伝わりにくい。この脚注はそのニュアンスをよく解きほぐしてくれている。
 形容詞 immémorial は、あまりにも古くてもはやまったく記憶が残っておらず、したがって、それを記述することもいつと特定することもできないものを指す。実詞としての大文字の Immémorial は、バシュラールが同書で「日付なき過去という大いなる領域」と呼ぶものを指している。その領域とは、遠い昔の無名の時の領域であり、最も古い先祖の記憶よりもさらに深いものである。それは、祖型あるいは恒常的な大いなる夢の領域であり、人間の心性の基底を成している。〈家〉は、祖型として、Immémorial なものに属しており、そこにおいて、女性的本性(Anima féminine)、〈母〉、そして、とりわけ〈子供〉の祖型と結ばれている。Immémorial なものは、思い出すことはできない。しかし、それと繋がれる場所がある。それが〈家〉である。
 そうであるとして、私の〈家〉はどこにあるのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


太古の領域への通路を開く親密な場所としての〈生家〉あるいは風土を私たちは再び見出すことができるだろうか

2020-09-16 23:59:59 | 読游摘録

 坂部恵の『和辻哲郎 異文化共生の形』(岩波現代文庫 2000年 初版 岩波書店 1986年)第3章「風土としての空間」のはじめの方にバシュラールの『空間の詩学』(La poétique de l’espace, PUF, 1957)からのかなり長い引用がある。和辻の風土概念を読み解くための手がかりとして、『空間の詩学』の「生家 maison natale」の本質規定が援用されている。

Les vrais bien-être ont un passé. Tout un passé vient vivre, par le songe, dans une maison nouvelle. […] Et la rêverie s’approfondit au point qu’un domaine immémorial s’ouvre pour le rêveur du foyer au-delà de la plus ancienne mémoire (p. 25).

幸福であることは、すべてある過去をもつのだ。すべての過去が、夢想を通して、新しい家に住みにやって来る。[中略]夢想は、こうして、さらに、もっとも古い記憶をもこえて、家にあって夢みるものに太古の領域が開き示される地点にまで深められて行く。(坂部恵『和辻哲郎』89頁)

 和辻の風土をバシュラールの「生家」に引きつけて読み、風土とは、「そこに生まれついたものにとって、太古以来の記憶の重層を帯び、みずからが大宇宙の一角に住みつくにあたって不可欠の媒介の役割をはたす一種の生家以外の何ものでもないのだ」と坂部恵は言い切る。
 この断定をそのまま承認するとして、私に言えることは、私には、このような生家としての風土はない、ということである。単に生まれただけの場所が必ず生家になるなら苦労はない。生まれついた風土がいつもそこにあってくれるならば確かに安心だろう。しかし、今私たちが生きているのは風土喪失の時代ではないのか。太古の記憶へと遡る途は見失われているのではないのか。
 仮にその途が再び見出されたとしても、太古の記憶の中に生きることはできない。それを夢想するだけで生きて行くこともできない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


芦名星追悼

2020-09-15 17:39:25 | 雑感

 7月18日にネットでちょうど一年前の京都アニメーション放火事件関連のニュースを検索していたとき、三浦春馬の自殺の報道があって、何かの間違いじゃないのかとひどく驚いた。彼の出演している作品をそれほど観ているわけではないけれど、他の俳優さんには真似のできいない優れた演技をする俳優さんだと思っていたし、何よりあの笑顔は忘れられない。
 2010年に多部未華子と共演した『君に届け』は、平成時代に作られた青春映画の中の傑作の一つに数えていいだろうし、昨年公開されて大ヒットした『コンフィデンスマンJP ロマンス篇』での天才恋愛詐欺師ジェシー役もちょっと代わりが思いつかないほど見事になりきっていた。
 彼のファンは日本国内だけでなく、海外にもおり、フランス人にも彼の熱烈なファンがいる。いまだにメディアには彼に関連する記事を毎日のように見かける。何が自殺の理由のなのか、ネット上には様々な憶測が飛び交っているようだが、それらにはまるで興味がない。ただただ、これからますます優れた演技を見せてくれたであろうほんとうに稀有な俳優さんの一人のご冥福を祈ることしかできない。
 こんな話を始めたのは、今日のニュースで別の自殺を知って、思わず「うそでしょ!」と声を挙げてしまったことがきっかけになっている。三浦春馬とは知名度の点では比べものにならないし、こちらは女優さんだが、芦名星の自殺には、何かとても痛ましい思いがすぐに湧いてきた。ファンというほどでもないし、詳しい事情は何も知らないし、出演作品は片手で数えられるくらいしか観ていないのだが、その演技と佇まいの美しさにはその都度とても印象づけられた。
 初めて彼女をドラマで観たのは、私の大のお気に入りのテレビドラマ『ツバキ文具店~鎌倉代書屋物語~』第五話「母へ贈る文字」へのゲスト出演だった。それまでまったく知らない女優さんだったが、この話の設定に実に相応しい美しい立ち居振る舞いに魅了された(NHKのサイトの同ドラマの第五話のページはこちら)。
 今晩は、追悼の意を込めて、この第五話を観る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


詳解『聲の形』

2020-09-14 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の授業は、まずPCを立ち上げようとしたら画面が真っ暗なままで、プロジェクターも認識していない。いやな予感がしたが、幸い iPad も持参しており、授業で使うデータはすべてクラウドにアップしてあるので、準備してあったパワーポイントも無事開くことができ、プロジェクターにも問題なく接続できた。しかし、このテクニカル・トラブルで5分あまり時間をロスした。授業の後半では、『聲の形』の後半をところどころ飛ばしながら最後まで観る予定だったので、このロスは痛かった。
 PCを再起動して接続を再度試みる間、学生たちには、予めパワーポイントの中に貼り付けておいた YouTube 上の五十音の手話のレッスン(5分)を見させたが、これが大いに受けた。皆、動画を見ながら、各ひらがなの手の形を真似していた。「漢字の試験のときに使ったらだめだよ」と釘を刺したら、それがまた受けた。映画を観る前の問題として、「バカ」が手話ではどうなるかなと聞いておいた。その答えが、映画の終わりの方での植野直花の手話を西宮硝子が直すシーンの理解には必要だからだ。
 幸いPCの再起動の成功し、Blu-Ray プレイヤーもすぐに起動した。後は、映画をところどころで止めながら、ポイントを解説していった。半数近い学生がすでに観たことのある映画だったが、皆最後まで真剣に見ていた。直花が硝子を病院のフェンスに突き飛ばして詰るシーンでは、何か自分の特別な思いと重なったのでもあろうか、感極まってしばらく涙が止まらなくなってしまった女子学生がいた。いつも隣に座っている男子学生が気遣っていた。
 いくらVOで観ていたとしても、彼らの日本語能力では細部は理解できていなかっただろうし、手話の意味もわからないままに観ていたであろう。先週と今週の二回に分けて細部を詳しく説明し、さらに、先週土曜日には三十分の録音授業で補足説明(それが一昨日と昨日の記事の内容である)を配信しておいたから、それらすべてをあわせ観たことで、学生たちのこの名作の理解は過去の視聴のときよりも格段に深まったことだろう。
 課題として、映画の中から特に印象に残った場面を一つ選び、その理由を説明しなさい、という日本語での小論文を課した。締め切りは来週月曜日。彼らがどんなことを書いてくるか、楽しみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


映画『聲の形』と小説『映画 聲の形』との間に見られる二つの相違点について

2020-09-13 13:41:05 | 読游摘録

 映画『聲の形』と小説『映画 聲の形』との間にも違いがいくつか見られるが、その中の二点について書き留めておきたい。
 一点目は、映画の方にのみ見られる工夫である。場面は、小学校六年の時、石田将也の学校に転向して来た硝子が将也から執拗にいじめられ始めたときのことである。原作漫画では、教室の黒板に将也が大きく「合唱コンおめでとう! 西宮サンのおかげで入賞逃したよ! オンチはうたうな! みんなにあやまってください!」と書き、それを見た硝子がひどくショックを受ける。そこに川井みきが駆け寄ってきて、「ヒドいよね、これ。ホント…」と同情する。将也は、自分で書いておきながら、誰か他人がやった落書きであるかのように黒板消しでその落書きを消すが、島田も一緒に消している。それに対して、硝子は、いつも持ち歩いているノートを開いて、「みんなありがとう」と書かれたページを開く。
 ところが、映画では、「西宮さん おめでとう !! さはらさん どっかにいっちゃたよ☆ こんど西宮語おしえてね !! オェーオェー」と板書されている。こうすることで、佐原みよこがなぜ学校に来なくなったか、その理由が示唆されているのだ。原作漫画では、佐原みよこが、硝子と仲良くなろうと手話を覚えることを申し出たことがきかっけで自分もいじめの対象になり、不登校になってしまったことがはっきりと描かれているが、映画ではそのことをこの板書だけで示唆しようとしたのだ。それに、この落書きを消すのは将也一人であり、硝子は、きれいになった黒板に「ありがとう」と書く。そうすることで、より二人の関係に場面の焦点が絞られている。
 もう一点は、小説の方にのみ示された硝子のかなり長い独白である。その独白は、高三の夏休み、多くの時間を一緒に過ごした将也に硝子が自分の母親の誕生日を自宅で一緒に祝うことを提案し、戦々恐々としながらケーキを準備していた将也だが、誕生パーティーは無事済み、結弦が翌週の花火大会に一緒に行こうと将也を誘い、硝子の母親もそれに同意し、自分も行くと答えた場面の直後に置かれている。
 その中で硝子は、小学生のときからの自分の過去を振り返り、自分が他者に対して取るようになった態度について説明している。そして、家族の困難や将也が失ったものはみな自分のせいだと自分を責める。その独白は「あとは私さえ、いなくなれば――」と結ばれている。よく言えば、懇切丁寧に硝子が自殺を決意するに至る理由が縷縷と述べられているのである。これは、その理由がよくからないであろうと思われたラノベの読者への配慮であろうか。
 この独白は、原作漫画にもなく、映画にもまったく出て来ない。映画では、花火大会以前に二人で一緒に出掛けた時に、硝子が将也に手話で「わたしと一緒にいたら不幸になる」と言っている場面があるだけである。そして、花火大会の途中で、勉強があるからと帰るという硝子に将也が手話で「またな」と言うと、それに対して硝子が「ありがとう」と手話で返し、人混みの中に消えていくという、とても印象的なシーンがあるだけである。その「ありがとう」が何を意味するのかの説明はない。小説には、このやりとりのあとに括弧して、「(いつもは『またね』なのに、なんで今日は『ありがとう』……?)」と将也の内語が付されているが、原作漫画にはそれもない。
 この二点目に関しても、原作に忠実な映画の脚本と場面構成を私は高く評価している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


原作『聲の形』には描かれていて、『小説 聲の形』には出て来ない場面

2020-09-12 23:59:59 | 読游摘録

 『聲の形』の原作漫画と映画『聲の形』との間にはかなり重要な相違が少なからずある。全七巻の漫画の内容を映画の中に詰め込むことはできないから、映画作成過程でかなり難しい選択を迫られたと思われる。
 特に大きな違いだと私に思われたのは、硝子の母親が夫とその両親から離婚を迫られる場面である。映画ではこの場面はまったく触れられもしないし、暗示されもしない。映画を観て、西宮家が祖母、母、硝子、結弦の四人暮らしであることはわかるが、何故父親がいないのかはわからない。この場面、全七巻中、読んでいてもっとも心が痛んだ場面である。その場面は、第4巻第32話に出て来る。
 硝子に障害があるとわかったのは硝子が三歳の時だった。それが理由で、硝子の母親は夫とその両親から離婚を迫られる。その場面での夫とその両親の暴言はよくもまあここまで言えるものだという酷さである。夫は、「ダマされたんだよ 僕たちは…… 君がこんな子を産むなんて聞いてない」と詰る。硝子の母親は感染症のせいだと言い返すが、「つまり君のせいだろう? 硝子がお腹の中にいる時に問題が起きたのだから」とあくまで硝子の母親だけのせいにしようとする。そこへ追い打ちをかけるように、夫の父親が「ワシは障害の発見がこんなにも遅れたのが気になる」「あんた わざとこのこと黙ってたんと違うか」といわれのない嫌疑をかけ、さらに、「本当はあんた自身に問題があるんじゃないか?」とまで言葉の暴力を振るう。そして、とどめは夫の母親の発言である。「硝子がこんなふうに生まれたのにはちゃんと理由があるはずだ。ほら言うじゃないか」「因果応報… 硝子が前世でなにか悪いことをしたせいなんだよ。あるいはあんたが」と言い放つ。たまりかねて、硝子の祖母が反論するが、もちろん夫と両親は聞く耳をもたず、夫の父親はさらなる暴言を振り回す。
 この場面は、原作漫画をノベライズした『小説 聲の形』(2019年)にもまったく出て来ない。単行本として原作が刊行されたのは2014年のことだが、コミックス連載時のままの表現を掲載していると巻末に注記がある。映画ではこの場面がカットされている(そのノベライズである『小説 映画 聲の形』(講談社ラノベ文庫 2016年)でももちろんカットされている)のは、選択肢としてよく理解できるが、原作を忠実に反映した内容にするのを原則とするノベライズでもこの場面が全面的にカットされている理由はなんだろうか。
 この作品は講談社青い鳥文庫として刊行されている。この文庫は、児童向け小説叢書だから、その趣旨からして、上記の場面は重すぎると判断されたのだろうか。それに、主人公である石田将也と西宮硝子の小学校六年生のときからの成長物語が作品の主眼なのであるから、硝子が三歳だったときの両親の離婚の顛末はカットしてもよいと判断されたのかも知れない。確かに、この離婚で深い傷を負ったのは硝子の母親であり、硝子の祖母であったから、この離婚話を描きすぎると、大人の話になってしまう。原作者である大今良時氏自身の合意のもとに下された判断だったのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


いつまでもつか、もうわからなくなってきた

2020-09-11 23:59:59 | 雑感

 コロナ禍の予断を許さぬ状況がいつまで続くのかわからないという不確実性の中、学科長としての職務をこなしながら、週に学部の授業が三コマ、修士の演習が前期の前半は一年の一コマ、後半にはそれらに修士二年の別の演習が加わり、並行して日本の大学への留学を希望する学生の申請書類の処理・帰国後の成績変換作業もしなくてはなりません。修士論文の指導や口頭試問の準備もしなくてはならない。もうそれだけで手一杯なところに、何でこんなことまでしなくてはいけないのかという類の予測不可能なアホくさい雑務もゲリラ的に襲ってくる。ああ、論文査読忘れてた。博論の審査も来月ある。土日に授業の準備をしなくてはならないから、もう休みなんてまったくありませんよ。
 幸いなことに健康に恵まれていますし、体力もある方ですし、ストレス耐性も強いほうですが、もういつまでもつかわからなくなってきました。