旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ロードス・シティ

2020-04-21 07:22:01 | ギリシャ
2007年、2011年《手造の旅》ギリシャ二回の旅の写真を併用してお送りします

朝、クルーズ船のデッキに出るとロードス島の城壁に虹がでていた。
1522年ロードス島騎士団(聖ヨハネ騎士団)の立て籠もるロードス・シティをオスマントルコが包囲した。

↓下は城壁内の見張り場所「ロロイの塔」からの眺め

今はクルーズ船が停泊している海。

城壁は大砲戦がはじまったばかりの時代だったのでこのぐらいの厚さでよかった。
修復を重ねた結果なのだが、16世紀当時の雰囲気をそのまま感じられる。
↑城壁手前に見える赤いドームの教会はビザンチン時代のスタイル。
オスマントルコ時代でもキリスト教信は居住を許されたし、教会での信仰も禁止されたわけではない。
↓上の眺めはこの「ロロイの塔」からのもの。

元は七世紀ビザンチン時代からの塔があったとされるが、今見えているものは19世紀後半に建てなおされている。
こわれたのは1856年に起きた「騎士団長の舘」の大爆発によるものか、あるいは同年の地震によるものか?
↓近くにはスレイマンモスクの尖塔、1523年オスマントルコの領土になった際最初に建設されたモスクだが、現在見えているのは1808年に再建されたもの。


実際に城壁内を歩くと

様々な時代の遺跡や廃墟やモニュメント重層的に見えてくる

↓この黒いのは?

↑第二次大戦中ドイツによって強制収容所で殺された1604人のユダヤ人への追悼碑。

ロードス島は1912年にオスマントルコ領からイタリア領になり、第二次大戦後の1947年からやっとギリシャになった。
ムッソリーニのイタリアがイタリア内のクーデターで覆されると、エーゲ海の島々も実質的にナチス・ドイツによって占領された。
第二次大戦後半1943-45のギリシャの島々ではナチス・ドイツの厳しい支配が行われていたのである。。


歴史的な事を知らなくても、旧市街をさまようのが楽しいが
↓このイッポトン通り(騎士団通り)に入ると整然とした、ちがった雰囲気を感じるだろう↓

1309年から1522年までロードス島を支配していた聖ヨハネ騎士団は、ヨーロッパ各地の貴族たちがその子弟をおくりこんで成り立っていた。
この通りには言語別の舘が並んでいた。
もっとも人数の多かったのがフランス人。最後の騎士団長の紋章がフランスの舘にはめこまれている。

彼らの運営していた病院の建物↓


今はがらんとしているがここは当時の病室。
ヨハネ騎士団は別名「ホスピタラー」と呼ばれているように、その発祥は11世紀にエルサレムへ巡礼するキリスト教徒のために設立されたのである。

考古学博物館としても使われている。
訪れるといつも、「水浴のヴィーナス」を楽しみに見る。

※これについてもう少し書きました
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イッポトン通りをのぼりきった場所にある騎士団長の舘は規模が大きい↓

ここはロードス島がイタリア領だったころには王家が滞在する宮殿として使われていた。
イタリア王国時代の国王のヴィットリオ・エマニュエレ三世やムッソリーニも滞在した。
1858年の火薬庫大爆発で大きなダメージをうけて再建された部分が多いので現代的に立派に見える。

ここも考古学博物館となっているが、床に古代のモザイク画がはめこまれたのは宮殿だった時代である。

いちばん有名なのは9ミューゼズか

騎士団の先割れ十字もあしらわれて、イタリア王国の宮殿だったおもかげが感じられる↓

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街をぐるりと囲む城壁も見所のひとつ

空堀を歩けるようになっている。
1522年のオスマントルコとの戦いは詳細に記録されているので、それを読んでこのあたりを歩くと16世紀の出来事がありありと浮かんでくる。
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昼食に、何度か訪れていた店にお連れした。

路地の奥にひっそりとあるが、光も風もよく通る。

シンプルな料理だけれど、素材がよいのでどんどんたべられてしまう。

何度も通っていると同じメニューでも日によって・季節によって違うのがよくわかります(^.^)

サカナの身をほぐしてこぶりなボールにしてさっと揚げてあるの、また食べたいなぁ。





コメント
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