旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

コリントス

2020-04-29 05:38:23 | ギリシャ
2004年ギリシャの旅より
ペロポネソス半島の付け根にあるコリントス運河は1893年に開通した↓

海面まで約80m。
長さ六キロ運河をコリントス地峡に通す計画は紀元前七世紀からあった。
ギリシャのポリス時代に二度構想があり、ローマの支配下にはネロ帝によって途中まで工事も進められていた場所。

地峡から二キロほど離れた場所にある古代コリントスの遺跡

古代都市コリントスは地中海航行の要所としてミケーネ時代=紀元前13世紀ごろから栄えていたといわれる。

伝説によれば、太陽神ヘリオス(=アポロ神)の孫だったコリントス王によって街が建設された。
BC6世紀のアポロ神殿↓元は36本あったらしい柱は数本だけ残されている↓

最も古い時代のドーリア式円柱なので↑まるまる一本の石から柱を削りだしている
※アテネのパルテノン神殿などは輪切りの石を積み重ねて一本の柱にしてある(この方が新しく効率的な建築方法)

同じくギリシャ時代からあったとされるペイレーネの泉↓

神話によると、ペイレーネの息子ケンクリアスが競技会で女神アルテミスの投げた円盤に当たって死んでしまった。
それを悲しんで泣いて泣いて、溶けて泉になってしまったそうな。

コリントスは紀元前146年に共和制ローマによって征服され、一度都市は壊滅させられてしまった。
紀元後一世紀になってユリウス・カエサルによってローマ都市として復興。
現在見られる遺跡のほとんどは最盛期の帝政ローマ紀元後二世紀ごろのもの。

紀元後二世紀にハドリアヌスによって十分な水が確保できるようになり、上水も下水も完備された。

現代と同じように舗装された道の地下に通されていた。

↑これは公共の水洗トイレ

紀元前一世紀にローマが再建した街にはラテン語を話す人々やユダヤ人も多く入植した。

↑これはユダヤ教徒の「メノーラ(七本の燭台)」だ。

港町として歌舞伎町の様な盛り場もあったコリントスは、新約聖書の「コリント人への手紙」で使徒パオロが戒めている。

見事なモザイクは邸宅か店の床を飾っていたのだろう。


併設されている博物館の展示品。見事な肉体表現の彫刻。これはアマゾネスとの戦い?


当時の屋根につけられていたみごとな瓦↑
↓こういう身体のパーツは?

病気平癒を願って、その部分のレプリカを奉納していたようなのだ。

石に刻まれたギリシャ文字は現代のギリシャ人にも読める↓
↓これは何と読む?

「ディミトリウス」と読める。
十字架が刻んであるからキリスト教が公認された紀元後四世紀以降のものだろう。
名前の左右にも十字架が刻みこんである。


港から続いていただろう大通り

後にあるアクロコリントスの山↓

難攻不落のあの山頂にも古代遺跡と神殿がある。













コメント
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