旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

中世のボディアム城

2020-04-10 05:07:34 | イギリス
2011年5月イングランド南部をめぐる《手造の旅》
シシングハーストから三十分ほどの場所にある↓

駐車場から小道を歩いていくと水に囲まれたいかにもの古城が姿を現した。
資料によると1385年に建設。フランスとの百年戦争の真っ只中。

大砲が戦争に使われはじめる前だからこんなつくりでも守れたのかしらん?
いや、実際の戦争で包囲されたら、いかに中世とはいえひとたまりもないだろう。

中世のままの姿であるはずはない。
1828年に、荒れはてていた城を保全するために当時の有力政治家だったジャック・フラーが購入し、手に入れている。

簡単に近寄れる道ができていて
上階に通じる階段も修復されている↓

上からの眺めは古城の風情をいっぱいにかんじさせてくれる

石造りの城でも梁や床は必ず木製だった。

何百年かのうちに木製の部分は焼けたり朽ちてしまったりして

石の部分・いわば骨組みだけが残されているとおもってよい

部屋の壁にはタピスリーが張られていただろうし、暖炉にも炎があったはずだ
今はこんなに殺風景な内部でも、かつての栄華を想像してみよう。



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シシングハースト(城)の塔と庭

2020-04-09 05:14:08 | イギリス
2011年5月イングランド南部をめぐる《手造の旅》+2005年3月
五月の南イングランドらしい青空にルーピン(のぼり藤)と古城の残りにみえる塔。

シシングハースト城は、実は13世紀ごろから貴族のマナーハウスがあった。
王が滞在したこともあったが、所有者は移り、第一次大戦には戦争捕虜の収容所になったりもした。

↑壮大なマナーハウスは姿を消し、ひとつの塔と平屋の小さな家がのこっているだけ。

塔をのぼる↓

↓まわりはよく手入れされた緑の海

ここの見所はなんといっても庭

イギリス庭園は自然に見えるが手がはいっている。

このイギリス屈指の人気庭園はしかし、戦争捕虜の収容所に使われたあと荒れ果てていた。
「農場」として売りに出されてしまったほどに。

★1930年になってここを所有した外交官と詩人の夫妻

ヴィタ(ヴィクトリアの愛称)サックヴィルーウェストは16世紀ケント伯爵の末裔になる名門の生まれ。
彼女は若い頃から詩や小説の才能に恵まれ、十代でイタリア貴族から求婚された美貌でもあった。

しかし、本人は女性が好き。
21歳の時に結婚してすぐに子供まで授かったのだけれど、後年「結婚したのは人生最大の失敗だった」と書き残している。
十歳年長の小説家ヴァージニア・ウルフにあこがれ、
子供が大きくなってからも女性の恋人とフランスへ逃避行して、
二人の夫たちがチャーター機で連れ戻すようなことまであった。


夫のハロルド・ニコルソンと1930年にシシングハーストに移り住んだことは、彼女にとって大きな転機になったのではないかしらん。

そんなに仲はよくなくても、芸術的センスに恵まれた二人が少しずつつくりあげていった庭は、イギリス屈指の名園となったのだから。

大きなシェパードと二人の子供と住んだシシングハーストは、同性愛の彼女にも「幸福」を与えてくれたのではないかしらん。

彼らの住んだ雰囲気が、今も残されている。


併設されている簡単なレストランで新鮮な野菜をつかったランチプレートをいただきました(^.^)

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カンタベリー

2020-04-08 05:41:41 | イギリス
2011年5月イングランド南部をめぐる《手造の旅》+2005年3月
英国国教会のトップはロンドンではなくカンタベリーにある↓

1170年に大司教のトマス・ベケットが国王からの刺客に暗殺される事件が起きてから、この地は巡礼がやってくるようになった。
巡礼たちが各地の物語を語り合う形式で14世紀に書かれたのが「カンタベリー物語」。
↓大司教ベケットが祈っている最中に、四人の騎士がこの場所で襲撃したとされている↓それを暗示する剣の形をした表示(堂内2005年3月に訪れた時の撮影)このモニュメントは現代になってから付け加えられたもの

大聖堂の中で祈っている最中に暗殺されたというのは衝撃的な出来事だったのだ↓
↓下は15世紀はじめにヘンリー四世の墓の飾りとして描かれた聖トマス・ベケットの暗殺シーン↓

↓「ここにベケットの廟が1220年から1538年まであった。ヘンリー八世が破壊するまで」と書かれている↓

ヘンリー八世によってカトリックから英国国教会に変えられた時に修道院の多くは破壊され、巡礼という制度も止めさせようとしていたのだ。
しかし、人々の祈りは止められなかった。↑今でも一本のろうそくが灯されて続けている
今、見ている大聖堂はトマス・ベケットの時代12世紀末には基本的なかたちができていたのか
↓このステンドグラスは13世紀につくられてその後壊された断片をもとに復元されてはめこまれている↓



大聖堂の中での見所、もうひとつはブラック・プリンスの墓

ベケットから百五十年ほど後の英仏戦争時代に活躍したエドワード三世の息子。
勇敢で有能だったとされているが父より早くに病死したので王にはなっていない。
※その息子のリチャード二世が後嗣となった
イギリスの紋章史のはじめにでてくるブラック・プリンス

彼の息子リチャード二世は、いとこであるヘンリー四世(前出の暗殺シーンのパネルの墓の主)に敗れて獄死した。
大聖堂は基本的にゴシック様式だが↓


↓ところどころにロマネスク的な装飾がみられる

↓大聖堂にはかつて修道院が付設されていたがその名残の塀かしらん

↓この門の近くに

↓「クリストファー・マーロウがここで子供の頃に教育をうけた」と書かれた記念メダルがはめこまれていた。
貧しい靴屋の息子だったが才能が目に留まり、教会がサポートしてケンブリッジ大に学んだ。

マーロウはシェークスピアと同年生まれとされる。
映画「恋に落ちたシェークスピア」の中でシェークスピアと間違われて殺されてしまうシーンがあったっけ。
**
カンタベリー大聖堂敷地への入口門として16世紀に建てられた門↓



中央、ブロンズのキリストは現代のものに取り換えられた↓



旧市街には何百年モノ?と思わせる古い家がたくさんあるが
なかでもこの傾いた家にはびっくりさせられる↓

入口には「1647年キングス・スクールの店だった」と書かれているが

考古学的調査によると1617年に建造されたモノとされている。
↓これはほんとに中世の城壁の一部たったのではないかしらん


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ヒースロー空港到着してすぐ海峡の街ドーバーへ

2020-04-07 06:16:24 | イギリス
2011年5月イングランド南部をめぐる《手造の旅》より
「ドーバーの白い壁」を見たい! というのが、この企画のスタートだった。
夕方にロンドン・ヒースロー空港に到着して海峡の街ドーバーまでは二時間ほどで到着。
五月の陽はながく、午後七時ぐらいなのに海峡を守る丘の上の砦が昼間の様だ↓

海に面したプロムナードのホテル泊↓

さっそく散歩にでた

海の向こうはフランスということで、ノルマンディ名物シードルの宣伝↓
↓「(フランス語で)これはシードル、(英語で)サイダーではありません」

英語のCIDERサイダーはもともとフランス語のCIDREシードルからきている。
※Rが末尾か、Eが末尾か
2020年の今になってわかるのだが、この商品をつくっているステラ・アルトワ社は、フランス語を国語のひとつにしているベルギーの会社で大学町ルーヴェンに本社をおいている。
※2019年にルーヴェンを訪れた時の写真をごらんください
地下道に描かれていたのはノルマン時代のバイキングシップ↓

ドーバーの対岸・フランスのノルマンディー地方はフランス王が彼らに与えた土地なのだ
彼らが海峡を渡ってブリテン島の主となってゆく第一歩の戦いが1066年ヘイスティングの戦い。
ヘイスティングはドーバーから七十キロほど西にある。
この戦いに勝ったノルマンディ公ギョームは英国史で「征服王ウィリアム」と呼ばれるようになる。
↓ノルマン時代に建設された塔が残る聖メアリ教会↓

ローマ時代の浴場跡に、日本なら平安末期に建てられた教会
**
翌朝、散歩に出る。
おお、白い壁がすぐ近くにせまっているではないか↓

港をみおろすように↓

ずっと連なっているのがわかる↓

きのう夕暮れに前を通った聖メアリ教会の庭にバラが咲いていた↓

↓海をみながらダイニングで朝食

もちろん、典型的な「ブリティッシュ・ブレックファースト」



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ブライトンの記憶~「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読んで

2020-04-05 19:31:30 | イギリス
今、旅行全てが止まってしまった。この機にこれまで読んできた本と旅とをふりかえってみよう。
本屋大賞を受賞した「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」はイギリス南部、ドーバー海峡に面したブライトンに住む家族の話
※こちらに感想載せました
**ブライトンへは三度ほど訪れたことがある。
2011年の《手造の旅》で一泊した。
夕食に出て、ブライトンでいちばん有名な観光箇所だろうロイヤル・パビリオンの前で撮った一枚↓

18世紀後半の国王ジョージ四世の趣味でインド調の建物になっている。
ドーバー海峡に面したプロムナードはここから徒歩すぐ↓

中世にはニシン漁の街だったが産業革命以降にリゾートタウンとして発展した。
↓こういうシアターもある(^.^)

今ではちょっとクラシックな街並みが良い感じ↓

海に突き出したピアが19世紀の雰囲気↓

「ぼくはイエローで…」の中では労働者階級のあんまりきれいでも安全でもない街として描写されているが、中心部の観光エリアを歩いただけではあまりそんな心配な感じはなかった。

《手造の旅》でブライトンに泊まったのは「ドーバーの白い壁」が見たかったから↓

えんえんと続く白く高い断崖は紀元前一世紀にローマからやってきたカエサル(シーザー)も見た。
この白い色からブリテン島のラテン語名「アルビオン(白い)」が命名されたのだ。
1990年ごろにパリからロンドンへの飛行機から見つけてその美しさに窓に顏をくっつけて追っていた。

「いつかこの白い崖を間近で見たい」と思っても、そういうパッケージツアーはほとんどなかった。
なので、イギリス南部の庭園を回る旅の中に入れたのである↓
↓訪れたタイミングはほんとによかった。

天気が良くなければ楽しめない場所であります↓

2011年の五月には、まだこのブログは書きはじめていなかったので、
次回、庭園などについても書いてみたいとおもいます。
覚えているか、不安(笑)
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