旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

アテネに一泊して、翌日クルーズ船にチェックイン

2020-04-17 06:54:09 | ギリシャ
2011年4月《手造の旅》ギリシャより

雨上がりのアテネ、ホテルの最上階からアクロポリスが見える

夕食前の散歩でふもとのオデオン前まで行った

紀元後二世紀・ローマ五賢帝の時代にギリシャ出身の元老院ヘロディス・アッティッコスが建設した音楽堂・集会場

アクロポリスの斜面を利用した階段座席

見上げれば↓アクロポリスのパルテノン神殿の前神殿が見える

近くに建設されたアクロポリスの博物館↓パルテノン神殿と同じ長方形をしていて

ロンドンの大英博物館に所蔵されている「エルギン・マーブル(パルテノン神殿のレリーフ)」が返還されたらここに展示するとしている。
ホテルで夕食。焼いたチーズがころころ入ったギリシャらしい一皿

ライトアップされたパルテノン神殿

↓朝の同じレストラン・テラスより


チェックアウトしてエーゲ海クルーズの船にチェックインしにいこう
アテネ郊外ピレウス港、手続きをして乗船

すぐにドリル(避難訓練)がはじまる。部屋に備え付けられている赤い救命具をつけて、部屋ごとに定められた避難場所に集まる↓

お昼ご飯を終えたら
デッキにあがってみよう

もうすぐミコノス島が見えてくる
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メテオラ~天空の修道院

2020-04-15 22:02:04 | ギリシャ
2011年4月《手造の旅》ギリシャより
にょきにょきのびた岩山の上に修道院が建てられている。

ギリシャは内陸に行けばけっこうな山国。メテオラ岩塊の最高標高は千メートルに至る。
周辺はヤギも放牧されている。ホテルのすぐちかくでも↓




カランバカは山脈から平野にながれこんでゆく川が作りだした地形。
もともとの地面はにょきにょきのびた岩山の高さにあったということ。

固い地質だけをのこして川が洗い流してこの形状になった。

**

神との対話を真剣に追い求める者はいつも孤独に向かう。
西暦九世紀、すでにギリシャ正教の修道院が多く集まっていたアトス山を離れた修行僧がメテオラ岩塊の割れ目に登り、住みついた。
↓今もそういった場所はこんな風に祀られている↓

当時は岩塊の修道院は存在せず、隠者たちは平地にあるドゥピアニ教会(※今も存在する)に定期的に集まっていた。
14世紀ごろからトルコの侵攻がはげしくなり、数も増えていた修道士たちは岩塊の上に修道院を建設することにした。
セルビアの皇子が求めてここで隠者となり聖人となったこともあり、セルビア王国の庇護も厚かった。

最盛期には二十四もの修道院が岩塊の上で活動していたが、現在は六ヶ所のみ。
そのうちで最も古くもっとも規模の大きいのがメガロ・メテオロン修道院↓

↑いちばん下の穴から階段を登っていくが、1920年より以前は階段はなかった。
いちばん上のつり上げ機をつかって入るしかなかった。
↓他の修道院も同様


メガロ・メテオロンの入口への階段

登ると周りの景色が見えてくる

修道院へ入る女性は長いスカートでなければならない↓
↓こんなのを貸してくれます

自給自足の生活をしていた彼らの生活の中心はもちろん教会
14世紀後半から増改築を繰り返してきた


だが、トルコからの独立戦争を支援していたギリシャ正教という側面からの博物館も併設されている↓

ギリシャ民族はローマに飲み込まれたあと19世紀はじめまで国を持つことがなかったので、ロシアなど各地にギリシャ人のコミュニティをつくって彼らの生活と宗教を守っていた。
独立戦争の時に、そういった共同体が小さな国をつくっていき、それらが統合して現代ギリシャが形成されていったのだ。

オスマン・トルコの首都イスタンブールにはギリシャ正教の総主教がいたが、独立戦争に加担したとされミサに踏み込んだトルコ兵によって絞首刑にされてしまった↓※今もその教会の扉はある。黒く塗られ溶接されて誰も通ることはできない。


アテネに戻る

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デルフィの神域と青銅の御者像

2020-04-14 16:15:53 | ギリシャ
2011年4月《手造の旅》ギリシャより
アテネに到着しすぐデルフィまで移動して泊まった。

デルフィはパルナッソス山の斜面に位置している。
遠くに見えるイテアの港まで「オリーブの海」が地面を埋め尽くしているのが見えた↓

かつて、デルフィの「アポロの神域」へ詣でる人々の多くはあの入江から歩いてきたのだろう
デルフィの村は19世紀末まで神域が破壊されたあとの遺跡の真上にあった。
が、フランスが発掘するにあたりまるごと近くに移転させ、今日我々が泊まる新しい村ができた。
夕暮れの村を歩く↓


村の教会↓

ギリシャらしいフェタチーズとオリーブのサラダ

↓このミニコロッケは豆でできている

**
翌日、デルフィの神域へ↓ここがその中心となる太陽神アポロの神殿↓

ギリシャ世界指折りのお告げを授けてくれる場所だった
↓その巫女が出入りしたと推察されている↓いわば楽屋口

↓神殿の基礎となる石垣は不規則ゆえに地震が多いギリシャでも現代までそのままだ↓

↓神殿の石垣表面にはびっしりと髪への約束事が刻まれている↓

奴隷の解放を約束した文章などだと、すべて解読されている
↓神殿の周囲にはギリシャ世界の都市国家が競って奉納した宝物庫の後がみつかった

★アルゴスという都市国家が奉納した「クレオビスとビトン」の像が有名

※これについてこちらに書きました

デルフィの博物館は大きくはないが見所がぎっしり↓これはアポロがカラスを黒くした話が描かれた小皿↓

↓焼けて黒くなった象牙製のアポロ神の顏↓

デルフィの神域はキリスト教時代のローマ皇帝テオドシウスによって紀元後390年に閉鎖された。
多くの神像は焼かれたり壊されたりしたのだろう。
石像に比べ、ブロンズ像は圧倒的に残っていない。溶かされてしまうから。
そんななかで、ギリシャ時代屈指の秀作である「デルフィの御者」が地中に埋まって難を逃れたのは幸運だった
↓紀元前五世紀半ば、アポロ神に捧げて開催されたピティア祭のレースで優勝した御者がウィニングランをしているところ

↓四頭立ての馬車を操りながら、顔を少し聴衆の方にむけている

彼の前方には実物大の馬のブロンズ像もあったと思われる。
※実際に1896年に発掘された時にその破片と思われるものもみつかっている。
馬が引く車の上に立っているの足先にはちゃんと力が入っている↓

細部への描写は驚異的。ガラス製の生けるが如き瞳、その周辺のまつ毛※Wikiの頁へとびます
背中にはたすきが回されていたのだろう↓

若き御者の名前はわかっていないが、奉納者の名前が台座にのこされていた。
「ゲラの君主ポリザロス、アポロに捧ぐ」

地中海世界のブロンズ像はギリシャオリジナルがローマ時代に石像としてコピーされてそれが現代に伝えられているものが多い。
古代ギリシャのオリジナル・ブロンズ像がこれだけの精度で展示されているのは稀有なことである。
とはいえ、発掘されて百年以上展示され続けてだんだんと緑青がかった色に変ってきたという話もある。





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「キフツ・ゲート・コート」と「ヒドコット・マナー・ガーデン」

2020-04-13 11:10:21 | イギリス
2011年5月イングランド南部をめぐる《手造の旅》


★キフツ・ゲート・コートの庭には独特の美意識が躍動している

かつてテニスコートだった場所を2000年に池に改造。

なにやらおもしろい植物が顏をだしている?

先端から水がしたたる、「噴水」と呼ばれる作品。
ニュージーランドのサイモン・アリソンというアーティストによる。

こういった斬新な変革は、個人所有の庭だからこそ可能。
ナショナル・トラストに遺贈された、美しくはあるが変化を封じられてしまった庭園ではできない。

キフツ・ゲート・コートも基本的には伝統的な英国の庭


1919年にミュアー夫妻がここを手に入れて以来、現在に至るまで女性三代が慈しんできた邸宅と庭である。

最初にマナーハウスに住んだヘザー・ミュアー夫人は、すぐとなりに住むアメリカ人ローレンス・ジョンストンと友人になり、彼の庭「ヒドコット・マナー・ガーデン」に学んできた。※ローレンスの庭は後述
夫人はここで娘の不幸な死にもみまわれたが、幸いもう一人の娘が意志を継いだ。

現在のオーナーであるアンさんはその娘にあたる。

広い敷地の端はちょっとした崖になっていて大きな松が植えられている




**
すぐの場所に★「ヒドコット・マナー・ガーデン」がある

前出のアメリカ人ローレンス・ジョンストンが住んだ邸宅と庭。

1871年パリ生まれ(パリコミューンの起きた年!)だが、ケンブリッジ大に学び1900年には英国籍を取得している。
第二次ボーア戦争に英国軍人として参加。
帰国後、傷心の息子の為に1907年に母が購入した広大な庭園とマナーハウス。

お土産屋の一角にローレンスの等身大の像がひっそりと置かれている↓

犬好きだったようで、いっしょに映っている写真がけっこうある
※ナショナルトラストの彼についての最新研究結果が載せられた頁

十年ほどして、おとなりさんとして前出の「キフツ・ゲート・コート」がつくられ、そこの女主人ミュアー夫人とも交流していた。

↓当時はやりの「ロング・ウォーク」


広い敷地を小さなコーナーに区切ってそれぞれ個性のある庭にしている。
造園家として他にもたくさんの庭を手掛け、晩年は南仏の庭園ですごし、没した。

生涯結婚せず、ここは最終的にナショナル・トラストが管理することになった

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モティスフォント旧修道院の庭

2020-04-11 05:29:33 | イギリス
2011年5月イングランド南部をめぐる《手造の旅》
モティスフォントは13世紀はじめに創設された修道院がもとになっている

↑もともと教会だった建物の真ん中・身廊部分には16世紀にマナーハウスがつくられている。
どうりで両サイドの雰囲気が古くてちぐはぐ。

中世には巡礼たちがやってきて、収蔵していた「洗礼者ヨハネの指」を拝んでいたそうな。

14世紀のペストで衰退し、16世紀ヘンリー八世の英国国教会への趣旨替えで修道院は閉鎖。
このタイミングで教会が壊されてマナーハウスをつくってしまったのか。
19世紀から20世紀前半には富豪が狩りの館につかっている。
第二次大戦時には野戦病院となり、戦後の所有者が1970年代まで住んでいた。
彼が生前に寄付して、ナショナル・トラストが管理している↓現在



イギリス屈指の庭園として知られている

特にバラが有名なのだが

五月前半、少し早かったかもしれない

楽しめるのはばらだけではない

古い建物といかにも自然に見えるようによく手が入れられた庭園をあるく











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