旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ウランバートル到着・泊、翌日テレルジへ

2020-08-20 07:52:26 | モンゴル
2008年《手造の旅》モンゴルより機体は「チンギスハーン号」

十六年ぶりのモンゴル、当時は中国領内モンゴルの呼和浩特(フフホト)で一泊が必要だったが、今や成田から五時間半の直行便で到着できるウランバートル。

夜九時過ぎに到着した空港の名前もチンギスハーン


ウランバートル市の中心から車で十分ほどの公団住宅街にあるホテル・テムジン(チンギスハーンの幼名)。
ここは日本人経営なのです。

朝食前に周辺を散歩すると、ロシアや東欧でみかけるのと同じスタイルのアパートがいっぱい。

扉がごついのは泥棒よけ?冬の寒さ対策?
**
今日はウランバートルの北七十キロほどの場所にある景勝地テレルジへ

草原を走る鉄道



「オボー」と呼ばれる旅の安全を祈る道標が時々めにつく

ゲル(遊牧民の住宅)のお土産屋さんで休憩。

この国はなんでもチンギスハーンです
***

テレルジへの入口アーチ このあたりは国立公園に指定されている。

テレルジ川はそれほど大きな川に見えないが全長七百キロを超える。
日本最長の信濃川の倍にもなるのか、さすがは大陸の河川。

木製の橋を渡ると

ツーリストゲルがたくさんみえてきた。
観光用のふたこぶラクダも。

草原の中に突然現れる巨岩が「名所」

こういう岩の間に入れてしまう




↑なかでもこの「カメ岩」がガイドブックに載せられる

ヤクは寒冷地で家畜になっている牛のなかま。
****
モンゴルの草原には日本ではなかなか見られないエーデルワイスも自生している

この時期は野草がよく咲いている
自然もよいけれど、そこに暮らす人の暮らしやいかに?

けっこうしっかりつくられている内部

旅人にはまずもてなしのアイラグ(馬乳酒)を

アルコール度は低く、酒というより新鮮な野菜が限れる遊牧生活での重要なビタミン供給源。

自家製のチーズも定番。
天日で干してつくられているのだが、歯が欠けそうな固さ。
もらったかけらを噛みきれなくてポケットにしまった。

こんなふうにつくられている。常温で日持ちするし、栄養価の高い保存食。
※以前、ゲルに飼われていた犬にこれをあげたら「これ!大好き」と、ガツガツたべはじめた。
日本から持ってきたかっぱえびセンには見向きもしなかったのに、
人も犬も、生まれ育った土地の食べ物が好きになるのです


観光客向けの食事はちゃんと用意されております(^.^)


こういう風に育てば、身体頑健な子供になるでしょ(^.^)

小柄なモンゴルの馬にものせてもらったし


ウランバートルに戻る途中に、最近できたとんでもない巨像があるという…

寄ることにした

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1992年のモンゴルへ~飛行機が来なくて乗馬ツアーを企画、翌日ウランバートルへ

2020-08-18 08:14:23 | モンゴル
1992年モンゴルの旅より 「虹の足が見える」はじめてそう思った


ホジルトからウランバートルへ戻る予定の日、我々が乗る飛行機は来なかった。
来るときに臨時便で到着していたので、席が足りなかったのである。
他のグループがいなくなった草原のゲル。
雨が降ったあとに冒頭写真の虹が出た。

ぽかんと虹をながめていてもよい空白の一日。

遊牧生活では子供のうちから馬を自在に操るようになる。
持っている長い棒は先に輪っかがついていてそれで羊を捕まえる。

「そうだ、馬に乗りに行こう!
バスはないのでゲルのトラックに乗せてもらい、馬を飼っている遊牧民のゲルにつれていってもらう。
彼らにとってもドルの現金が手に入る良い商売だから快くうけてくれとおもったら難しい顏をしている。
なぜかというと・・・

※汚い字ですみません
馬は喜んで人を乗せてはくれない。はじめ人が乗ろうとすると全力で振り落とそうとあばれる。
それを調教されて、つまり「振り落とすことはむりだ」と諦めさせることができた馬が「乗馬用」とされているだけだ。
何十頭も飼われているなかで、見ず知らずの素人が乗ることができそうな馬は二頭しかないというのである。
ううむ、それでは、その二頭とトラックを併走させて、交代で乗らせてもらおう。

草原を疾走するのは気持ちが良い。
が、飼い主の遊牧民が誘導するから走ってくれているだけで、馬自身はあんまり喜んでいない。
乗り手交代で止まる度に「もう帰ろうよ…」というようにくるっと逆を向く。
家畜についてもペットにしても、人は動物の気持ちを都合のいいように解釈しているが、動物の本音がどこまで理解できているのかは分からない。


雨上がりの草原、三百六十度の空にまだ雨の気配がのこる。
十数キロ走って、我々を乗せていた馬たちを「もういいよ」と放すと、一目散に駆け戻っていった。
**
翌日、ようやくウランバートルへ戻る飛行機が来ることになった。

民族音楽でいちばんモンゴルらしいといえば「馬頭琴」
それにホーミーと呼ばれる二つの音を同時に出すめずらしい歌唱法。


中国民航で呼和浩特へ一泊して北京を経由して成田へもどるフライトだった。



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1992年のモンゴルへ~ホルホグ 羊を草原で屠殺し、料理する

2020-08-16 11:27:20 | モンゴル
1992年モンゴルの旅より ホルホグは命をいただいているのだと知る料理

羊の胸に小さな切り口をつくり、そこから腕を差し込んで指で大動脈を切る。
血が肺にまわり短時間で絶命させることができる。口から血が出ないようにしっかりおさえる。
大地に血を落とさずに殺すのはその命に敬意を払う方法とされている。

口をおさえているのは我々のガイドをしてくれたガルタさん。
大卒であろうと、モンゴルの男は羊をさばけないと一人前とみとめられないのだそうだ。

まるで服を脱がせるようにつるつると毛皮をはいでゆく。
小さなナイフを自分の手のように自在に使えるからこんなに簡単そうに見えるのだろう。

肉をきれいにとりわけ、内臓をひらく。
血はバケツにすくってソーセージの材料にする。
骨も昔から遊具に使ってきた。

羊をさばいている一方で、川から拾ってきた握りこぶしぐらいの石をたき火で焼いておく。
新鮮な肉を調味料・香辛料と混ぜ、ミルク缶の中に、焼いた石と交互に入れてゆく。

剥いだ皮の一部をつかってミルク缶を密閉し、ゴロゴロところがす。
焼けた石が肉を調理する圧力鍋状態。

ホルホグは遊牧民にとっていちばん大事な家畜を一頭提供する御馳走。
遠来の客がやってきた時などに出す特別料理だ。

「できたかなぁ~」

おそるおそる食べてみたが、びっくりするほど美味しい!
盛り付けや彩といった日本の食文化と対極にあるような料理だが、脂がたっぷりで羊の臭みはほとんど感じない。
まさにモンゴルの草原でなければ成立しない料理を体験することができた。


2008年のモンゴル再訪時、忘れられなかったホルホグを料理してもらった。
味は同じように美味しいと感じたのだが、自分の肉体が同じように食べられる若さではなかった。
※後にこのブログでごらんいただけるようにいたします
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1992年のモンゴルへ~ホジルト空港からカラコルム

2020-08-15 08:25:14 | モンゴル
1992モンゴルの旅
路線バスをチャーターしたのは後にも先にもこの時だけだ。

セスナ機でホジルトに降りると空港はがらんとしていた。
先の大型チャーター機の乗客がツーリストバスを二台とも使ってしまったのである。
そのバスには我々の座席もあった筈だが、臨時セスナ機がほんとに飛ぶのかもわからない状況だったから、先の飛行機の欧米人たちは「いいよいっちゃえ」と思ったのだろう。

呆然とする我々のもとへ、黄色いおんぼろ路線バスがやってきた。
窓ガラスの代わりに板がはめこまれた場所もある。政府がガソリンを買えないのでチャーター機がなければ空港に人はいないので路線バスを待つ一般客はいない。
そのまま近くのツーリストゲルまで直行してくれた。
午後、四十キロほど北にあるカラコルムへ行く予定だがこのぶんだと我々のためのバスはない。
「このバス、つかわせてもらえないかな?US二十ドルでどう?」
という提案をドライバー氏は受け入れた。
US二十ドルで職務放棄をOKしたドライバー氏を責めてはいけない。
こんなことも可能になる社会状況だったということだ。
我々だって予定していた観光をなんとかして実現しなければならない。
※予定通りの旅程を実現するのに最大の努力をすることが添乗員さんの義務。「できませんでした」と事後にもっともな理由を説明しても信頼は得られない。

ツーリストゲルの昼食のあと、路線バスが我々のためだけにカラコルムへむかってくれた。

カラコルムは13世紀モンゴル帝国時代の首都だった場所とされている。
マルコ・ポーロがヴェネチアからやってきたのもここだったとされている。
しかし、当時の栄華をしのばせるものは、まったく残されていない。
上の写真の白い塀もずっと後世に復元された寺院の跡なのである。

ただ、亀のカタチをした石だけが当時のモノだと伝えられている。
※この石は2008年に再訪したブログにておみせできます
**
遺跡よりも、途中で訪問したふつうの遊牧民のくらしぶりがおもしろかった。

舗装されていない草原では車よりも馬の方が役に立つ。
子供達は鞍も鐙もない馬を自由に操っている。

ツーリスト用のゲルも当時は一般遊牧民のゲルと基本構造は同じだった。
言葉は通じなくてもゲルの子供たちといっしょに遊ぶ。

そうそう、ゲルで飼われている犬に日本から持ってきていた「かっぱえびせん」をあげようとしたら、鼻先で嗅いで「なにこれ?」という目でみられた。
そのあと、意外な?モノに食いついてびっくりしたっけ(^.^)
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1992年のモンゴルへ~南ゴビのゲルに二泊してウランバートルへ戻る

2020-08-14 09:00:14 | モンゴル
1992モンゴルの旅より
南ゴビのツーリストゲルにて
ただ広い草原の中にあるツーリスト・ゲル

中は四人一部屋でこんな感じ。

真夏でも夜は寒くなるのでストーブが必要。

トイレ、水シャワーが共同になっている
今はもっと快適なゲルやコテージ式のホテルもあるようだが、当時はウランバートル以外の宿泊で他に選択肢はなかった。
観光はおんぼろバスに乗って渓谷入口にたどりつき、一時間歩いて氷河の残りを見学した。

食事は現地式の羊肉料理が主。これは美味しいのです(^.^)

西欧的な料理のほうが微妙

白いご飯のうえに黒い粉がふりかけてあって何かとおもったらチョコレートだったのには驚いた。
**

南ゴビのゲルに二泊し、再びズルチン旅行社のチャーター機でウランバートルへ戻る。

清朝末期から1924年に社会主義のモンゴル人民共和国が成立するまでの短い期間、チベット仏教の生き仏をトップとする政教一致の大モンゴル国が存在した。
その当時のトップである生き仏ボグド・ハーンの弟チョイジンラマの宮殿だった場所。
大きな仮面をつけて踊るツァムを見せてもらった。

↑額に書かれた寺の名前、いちばん右がチベット文字、次が漢字、左の二つはモンゴル文字だと認識したのだが…二行あるから二種類併記なのだろう。
モンゴル文字と同じように縦書きするウイグル文字や満州文字ク文字などがある。どれかは分からない。
うしろに稚屈なタッチで画かれた残虐な絵が何を意味するのかも知り得なかった。
1924年にはじまる社会主義時代には多くの寺が焼かれ僧侶も殺されたときいている。
***

ウランバートルのホテルに入る前に市内のデパートに行ってみる。
外国人旅行客はいわゆるドルショップで買物することなっていた当時、物売りと少しでも交渉するそぶりをみせるとどっと人があつまってくるのだった。

デパート内はがらんとしている。
1989年に訪れた社会主義末期のブルガリアを思い出した。
統制経済を厳格に実行しようとしても庶民はしたたかで、高く売れるモノを安い正規ルートにはのせない。
戦争末期から戦後の日本もそうだったように、経済政策が破たんするとヤミ経済がふくらんでゆく。
外貨と自国通貨のレートを国が決めようとしても、実体経済に即したヤミレートに流れてしまう。

ここ半世紀ほどの日本は自国通貨「円」に何の心配もなくていられたからこそ繁栄を享受してこられたが、モンゴルも含めた多くの国々はそうではない。
自国通貨を信用できない国を一度でも訪れてみれば、今の日本がどれだけ守られた場所なのか理解できるだろう。
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