旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

1992年8月のモンゴルへ~呼和浩特からウランバートル到着

2020-08-12 12:43:53 | モンゴル
1992モンゴルの旅より。
当時添乗していた会社ではじめて催行されたモンゴルへの旅だった。日本からの直行便はなく中国で一泊が必要となる。中国へはよく行っていたので添乗依頼がきたのかもしれない。
まわりの添乗員さんが誰も訪れていないモンゴルへの旅ということで、日報に加え一生懸命アルバムをつくった。
そのアルバムのページからご紹介します。
まさに「草原の国」

社会主義から民主主義に転換してすぐのモンゴルへ。
**
全日空で北京へ飛び、故宮などを観光し、夕食後に内モンゴルのフフホトへのフライトに乗った。

フフホトに一泊して翌朝また空港へ。

フフホト空港の表記は「呼和浩特」の漢字表記と中華人民共和国の国旗がはためいている。
★モンゴル史を少し…
中国領内の内モンゴルと、独立国モンゴルである外モンゴルの二つの地域に分かれる。
清朝にはモンゴル全土が支配されていたが、1911年の辛亥革命で清朝が滅ぶと中華民国に対して独立戦争がはじまる。
当時のロシア帝国を後ろ盾に外モンゴルだけが大モンゴル国(モンゴル・ウルス)として独立したが、清朝時代から北京の政策でモンゴル人比率が低くなっていた内モンゴルは中華民国の支配下となった。1917年にロシア革命でロシア帝国が倒れると、中華民国が外モンゴルも支配すべく侵略。モンゴル人たちは新生ソ連の力を借りて(最初は白軍、後に赤軍)撃退するが、内モンゴルは独立国の地図に入れることができなかった。1939年日本が支配する満州国がモンゴル国との国境で領土紛争を激化させ、いわゆる「ノモンハン事件」が起きる。実際には完全に戦争。第二次大戦後も外モンゴルは引き続きソ連影響下の一応独立国(通貨トゥグルクはソビエト・ルーブルと完全等価固定され、ロシア文字表記が強制されていた)となり、内モンゴルは中華人民共和国になってからもその支配下に留められている。チベットと同じチベット仏教を信仰し似た歴史をたどってきたこともあり、モンゴル国時代には相互承認していた。


午前11:50ウランバートルに到着。
入国手続きは煩雑。

所持金US$800、一万円(ほんとにそれだけだったかな?)写真フィルム三本、カメラ、
※左の「神田太郎」は記入サンプル

こういう新聞コピーもお配りしたっけ。
当時、「社会主義ドミノ」と呼ばれた体制変革はヨーロッパだけの話ではなかった。
それぞれの国や民族が苦悩しながら選び取っていることを、人の気持ちの感じられる記事から知っていただきたいと思っている。

いちばん最初に訪れたのは「スフバートル広場」。
ソ連なら赤の広場、中国なら天安門広場にあたる場所。
以下のような建物が囲んでいる↓

横長の議会は50トゥグルク札に登場↓※いまはまったく違う建物になっている

注目すべきは議会の建物すぐまえにあるレーニン廟そっくりの赤い「スフバートル廟」。騎馬像もスフバートル。
※ダムディン・スフバートルは大モンゴル国時代に独立運動を率いていた軍事指導者。二十九歳で没したことでより英雄視されるようになったのかも。

当時はほとんどすべてのお札にスフバートルが画かれていた。
※モンゴルの通貨トゥグルクは当時200トゥグルク=1US$ぐらいだったが、その後木の葉のように下落していった。
スフバートルの遺体はレーニンのように遺体保存されていたが、2005年に仏教式に荼毘に付され、廟はなくなっている。
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ウランバートルのみ建物のホテル※地方はすべてツーリスト・ゲル(遊牧民のテント)
○バヤンゴルホテル

社会主義時代の建物はどこでもよく似ている。
突然天気が豹変し、ぱらぱらと雹が降ってきた。

食事はとにかく羊肉が多い。
コメント
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