2005-2010《手造の旅》ネパールより
カトマンドゥ旧市街の中心にあるカーラ・バイラブ神像
破壊神シヴァの化身のひとつ。中世ネパールではこの像の前で罪人に白状させたのだそうな。
すぐちかくに旧王宮があり、正門で「ハヌマン・ドゥカ(門)」がある↓
↑左の赤い衣に包まれているのがヒンドゥ神話によく登場する猿の神ハヌマンの像。
「目から強い光線を放つので顏を赤く塗りこめてある」と説明してくれたガイドさんがあった。
かつての王宮は今は博物館。となりに異質な西欧建築がある。
ああ、イギリスがここでもやっちゃった・・・と思った。
植民地で崇拝されている宗教建築や王宮を西欧建築物に建て替えている。
それはけっして強制ではなく、ここネパールの場合にも王族自身が西欧建築を望んで、古来のネパール様式の建物を壊してこのコリント式列柱の宮殿を建てたのだが。
※この迎賓館・戴冠式の会場は1908年に完成。2015年の地震で大被害をうけたが2018年に修復された。中国新華社のニュースの写真がこちら⇒
*
国王の新宮殿は1886年、旧市街の外に建設されたナラヤンヒティ宮殿。
はじめてネパールを訪れた2004年にはほんとうに王様の住居で中へなど入れなかった。
ここも19世紀に建てられた当初は旧市街の建物と同じような西欧式の宮殿だった↓
1934年1月15日の大地震では産まれて間もない名前も付けられる前の王の娘二人が圧死した。
上の写真の中央列柱は地震の後に改修した際に付け加えられた。
1962年に新国王によって現在の建物に建て替えられた。
あからさまな西欧建築ではなく、ネパールの伝統的な建物を意識したデザインになっている。
2008年に王制が終わり、6月11日に王が退去すると、博物館として公開された。
小松も2010年に一度だけ内部を見学した。2001年の「あの」銃撃事件のあった建物はもう壊されている。
**
カトマンドゥ旧市街にもどろう。
街の名前の由来になったカスタマンダップ寺院は
一本の木からとられた木材で建設されたとされている。
周囲は遠来の物売りでごったがえす。
よくこんな荷物を担げるものだ
チベットへの山道・ジョムソン街道でも信じられない様な荷物を背負った人とたくさん行き会った。
今でも現役の水場・ヒティ。
↑この三重の塔は2015年の地震で完全に倒壊した。
カトマンドゥ旧市街の中心にあるカーラ・バイラブ神像
破壊神シヴァの化身のひとつ。中世ネパールではこの像の前で罪人に白状させたのだそうな。
すぐちかくに旧王宮があり、正門で「ハヌマン・ドゥカ(門)」がある↓
↑左の赤い衣に包まれているのがヒンドゥ神話によく登場する猿の神ハヌマンの像。
「目から強い光線を放つので顏を赤く塗りこめてある」と説明してくれたガイドさんがあった。
かつての王宮は今は博物館。となりに異質な西欧建築がある。
ああ、イギリスがここでもやっちゃった・・・と思った。
植民地で崇拝されている宗教建築や王宮を西欧建築物に建て替えている。
それはけっして強制ではなく、ここネパールの場合にも王族自身が西欧建築を望んで、古来のネパール様式の建物を壊してこのコリント式列柱の宮殿を建てたのだが。
※この迎賓館・戴冠式の会場は1908年に完成。2015年の地震で大被害をうけたが2018年に修復された。中国新華社のニュースの写真がこちら⇒
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国王の新宮殿は1886年、旧市街の外に建設されたナラヤンヒティ宮殿。
はじめてネパールを訪れた2004年にはほんとうに王様の住居で中へなど入れなかった。
ここも19世紀に建てられた当初は旧市街の建物と同じような西欧式の宮殿だった↓
1934年1月15日の大地震では産まれて間もない名前も付けられる前の王の娘二人が圧死した。
上の写真の中央列柱は地震の後に改修した際に付け加えられた。
1962年に新国王によって現在の建物に建て替えられた。
あからさまな西欧建築ではなく、ネパールの伝統的な建物を意識したデザインになっている。
2008年に王制が終わり、6月11日に王が退去すると、博物館として公開された。
小松も2010年に一度だけ内部を見学した。2001年の「あの」銃撃事件のあった建物はもう壊されている。
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カトマンドゥ旧市街にもどろう。
街の名前の由来になったカスタマンダップ寺院は
一本の木からとられた木材で建設されたとされている。
周囲は遠来の物売りでごったがえす。
よくこんな荷物を担げるものだ
チベットへの山道・ジョムソン街道でも信じられない様な荷物を背負った人とたくさん行き会った。
今でも現役の水場・ヒティ。
↑この三重の塔は2015年の地震で完全に倒壊した。