旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

十六年ぶりのホルホグ~命をいただく草原の料理

2020-08-26 07:41:55 | モンゴル
2008年《手造の旅》モンゴルより

午後のカラコルムに黒い雲がかかりはじめる。近くの羊農家でホルホグをおねがいした。

遊牧民のいちばん大切な財産である羊をまるごと一頭料理する料理。遠来の客など特別な時のもの。

子供たちが今晩の一頭を連れてきた。

あっというまに羊は転がされ、

なんのためらいも決心も必要なく、胸を切り手を入れて指で動脈を切る。

絶命した羊は見る間に解体されて食材に変ってゆく。

いや、「変わってゆく」わけではない。
本来、我々が口にしている肉は命とつながっている。
誰かがこうして食材というかたちに「変えて」くれているだけだ。

目をそらさずに肝に銘じておくべきこと。

小屋の中で下ごしらえ

と、突然、バラバラと音がしてすごい雨が降りかかってきた。

どのぐらいの時間、暗い小屋の中から外を見ていたのだろう。

ホルホグはそろそろできてくる

十六年前の1992年にはじめてモンゴルを訪れた時

もっとも美味しく、忘れられない料理だった。

※こちらから1992年のホルホグの様子をごらんいただけます
もう一度食べる機会をつくることができたのは幸い

皆でガツガツたべはじめた、記憶のとおり美味しい!

いくらでも食べられる、、、と思って食べはじめたのだが
たった二つ、三つのところでどうも身体がいっぱいいっぱいになってきた。
自分の肉体のほうが十六年前とは同じでなくなっていたようだ。


この子たちが眠るのはとなりのゲルかな

たしかに木造の小屋のほうよりも快適にみえる。草原で暮らす人々にとってゲルは「家」というよりも「寝室」。家は草原そのものである気がしてきた。
この子もきっと「寝室」に入れてもらえる。



外はもう真っ暗、ツーリストゲルにもどりランプの灯りで身支度をして、おやすみなさい。
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カラコルム~モンゴル帝国の首都だった場所

2020-08-24 20:21:20 | モンゴル
2008年《手造の旅》モンゴルより

キリル文字で「ハラホリン」と書かれている。「カラコルム」はチベット語やチュルク語系の言語で「黒い砂礫」の意味。中国語で「哈剌和林」と表記するのはこの地名を聞き取った中国人が漢字の音をあてたものだろう。
この門の名前はそれをふたたびモンゴル語で(ロシアの)キリル文字を使って表記しているということになる。

縦書きモンゴル文字は半世紀にわたるロシア語教育の中で使われなくなってしまっていた。
※社会主義が崩壊にした1990年以降に独自のモンゴル文字を主に使用できる国家にしようと教育しはじめたが、経済的に強いつながりを持つロシアのキリル文字の優位は変えられなかった、というのが現在の状況だろう。

なにもない草原を四角く囲った寺が出現。

四角い壁の上に高さ十五メートルの白い仏塔(ストゥーパ)百八個がずらりとならぶ。
解説によればモンゴル帝国最初のチベット仏教寺院として16世紀に創建されたエルデニ・ゾーがここなのだ。
15世紀はすでに明帝国が北京を支配しており、元は北方に追いやられて「北元」(=モンゴル・ウルス)として存続していた。
カラコルムはクビライが首都を大都(=北京)に移すまでの首都だったが、北京を追われてから再び首都となっていたことになる。

この碑文はサンスクリット文字と共にモンゴル文字が併記されている。さて、いつごろの時代のものだろう。

↑クビライの時代=マルコ・ポーロが訪ねてきた時代のカラコルムには壮麗な建物があったとされているが、その名残はこの亀石しかない。
13世紀にマルコ・ポーロが「東方見聞録」に残した噴水の記述から↓こんなものが復元されていた

これ、モンゴルのお札にも描かれております

マルコ・ポーロの時代、世界最大の覇権国家だったモンゴル帝国の栄華は、この草原を見てもなかなか感じることが難しい。


むしろ、感じておくべきは、二十世紀の社会主義時代になる前は、この仏塔で囲まれた敷地に千人を数える僧侶が住む寺院がたちならんでいたということ。

残されたのは三つだけだったと言われる破壊と殺戮が行われた。
第二次大戦後に「博物館」となって四十年が経ち、1990年に民主化されてやっと今見るかたちで寺院・修道院が運営再開されているのである。

こういった仏像や

ツァム舞の衣装や面も、密か隠されていたもの。



今は「信教の自由」が認められ、お参りする人々と観光客のために、少しずつ施設整備がすすめられている途上だった。


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カラコルムまで草原をドライブする

2020-08-23 08:00:07 | モンゴル
2008年《手造の旅》モンゴルの旅より

どうして一本の道を走らないのか。やがてわかることになる。
朝、ウランバートル中心部のホテルを出発。

しばらくすると大草原になる。

過積載ぎみのトラックばかり。

前を行くトラックが近づく。
こりゃとても後ろを走っていられない。
草原に轍が縦横に走っているのはこのせいだったのか。

追い越します。

遊牧の動物たちはもう珍しくない。

遊牧生活のゲルによって休憩。
別に知り合いなわけではないが、遊牧民は旅人を必ず迎える。

馬乳酒やチーズをふるまってくれる

電気もなくて不便?いえいえ最近はちがうのです

性能のよいソーラーが軽くなっているので遊牧民はだいたい持っている。

テレビもあるし携帯電話もいち早くもっていた。
もともと電話線があまり普及していなかった国では、携帯電話の普及は先進国よりも早くなる。
**

お昼はこんな場所で?

サンドイッチでピクニック

この石のサークルは、家畜を集めておくための場所でそこここにある。
***

めずらしくない光景

一般の乗り合いバス

観光客用のラクダがいた

せっかくだから(^.^)


え?



ハラホリンの入口門がみえてきた。





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スフバートル広場周辺を見学し、夜はウクライナ料理を

2020-08-22 08:19:00 | モンゴル
2008年《手造の旅》モンゴルより


ウランバートルの中心広場はスフバートル広場(2013年から16年までの短期間はチンギス広場に改名されていた)。
「バートル」とは「英雄」という意味。

スフバートルは1920年代の短い時期に活躍したモンゴル独立の英雄。
この記念碑は彼が活躍して中華民国からの独立を勝ち取ったモンゴルの社会主義革命から二十五年を記念して設置された。
1992年にはじめて訪れた時には彼の遺体はレーニンのように保存されてそのためのレーニン廟そっくりの建物が広場にあった。
※1992年に訪れた時の広場の写真はこちらのブログの後半に載せています
※廟は国会の建物の前にちょっとしか写っておりません。なくなるとしっていたらもっとしっかり撮っておいたのですが…未来の事はわかりません

広場の北側の国会は2006年に現在の建物になり、正面には巨大なチンギス・ハーンの像がある。

国旗がたなびく



広場の南側に建設中だったこの建物は2011年に「ブルースカイホテル」として開業↑

日本人にとって記憶すべきはオペラハウス↑シベリア抑留された元日本兵の強制労働によって建設された。

火事になった建物がそのままになっていたりもする。

どこかで見たような人が、日本で成功して帰国するとモンゴルでは名士。
こういうサクセスストーリーがあるから国技のモンゴル相撲は今も盛んなのだ。

**
夕食はヨーロッパのウクライナ料理の店へ。

ボルシチもちゃんとビーツがはいって本格的
サカナのスープ「ウハー」?みたいです

キエフ風カツレツを切ると中に巻いてあったバターが流れる。

ちゃんとこういうお店もあるのです(^.^)


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チンギス・ハーンの巨像を見学

2020-08-21 07:51:22 | モンゴル
2008年《手造の旅》モンゴルより
いったいどれだけ大きいんだ…

テレルジからウランバートルへの途中、
今年(2008)開業予定のチンギス・ハーンの巨像があるというので寄ることにした。

周囲になにもない草原のど真ん中にこんな施設をつくってしまうのか。
高さは四十メートルにもなる世界最大のチンギス・ハーン像だそうな。

建物の中はがらんとして、たしかにまだ正式オープン前。
それでも馬のたてがみ部分にある展望台までのぼらせてくれた。

鞍の上、またぐらの部分から出てくると・・・

巨大な尊顔がこちらをにらんでいる。
手に持っているのは「金の鞭」。
まだチンギスの名前を得る前のテムジンがここでひろったと考えられている。
草原で鞭を拾うのは遊牧民にとって吉兆だそうな。
※我々日本人が「鞭」ときいて思いえがくものとは形が少しちがう

確かに金色になっている。
草原というのは我々には道などないように見えるが、遊牧民にはある程度の方向が見えていて各自その方向にむけて走る。
車の時代になっても馬の時代と走り方が変わっていないのがこの轍をみているとよくわかる。
前の車のうしろについてはしると砂埃がまいあがってちっとも快適でないせいなのだと、一度でも走った者は理解できる。

遠くに見える丸い点々は何?
これはツーリスト向けのゲル(遊牧民の丸いテント)を立てるコンクリートの基礎にちがいない。
この巨像のまわりを集中開発して一大観光施設にする計画がみえた。

それにしても巨大すぎて
展望台は狭いので、全体像がうまく写せません。

※数年後には団体ツアーの定番立寄り場所になっていったようです

ウランバートルまで五十キロほど
**

我々の車は乗合バスと同じカタチをしているので、草原で手を上げて止めようとするひとにであう。
すいません・・・

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