2008年《手造の旅》モンゴルより
かつてこの斜面いっぱいに存在したチベット仏教寺院群のことを思う。
1930年代後半、ソ連の強い影響下にあった社会主義モンゴルは国中の寺院を破壊しはじめた。
破壊前のこの斜面の様子↓上の写真に写っているのはごく一部だとわかる。
★1930年代のモンゴルは人口七十万人なのに九万人もの僧侶がいた。
男性の四人に一人が僧侶だった計算になる。
寺は「ジャス」と呼ばれる直轄の寺領を持ち、それは全国で三千にものぼった。
チベット仏教のトップが政治的にも最大の権力を持つこのシステムを破壊するために、社会主義モンゴルはあの手この手で人々を寺院から離反させ、1939年にはここツェツェルレグの寺院は博物館に変えられた。
抵抗する者は強制的に排除された
我々が今見ているのはそういう場所なのだ。
1911年に辛亥革命で瓦解する清朝は遊牧とチベット仏教信仰のモンゴルを容認していた。
モンゴル人が遊牧の民だと誰もが知っているが、17世紀ごろまでは寺院も移動していたのである。
首都のウランバートルはその移動宗教都市「イフ・フレー」が1788年から六十年間動かなかったことにより定住がすすんで都市となった。
1930年代はじめ二階建ての住居はひとつもなかったそうである。
地方都市ツェツェルレグは2008年にもすべて平屋の町だった。
板塀の中に伝統的なゲルをつくって住んでいる人もまだまだ多かったようすがわかる。
**
2008年8月7日
朝、ハラホリン(=カラコルム)のツーリストゲルを出発
いつまで見ていても飽きない空と草原を走り出した。
さらに西にあるツェツェルレグを目指す
川原で休憩
崖の上にレプリカが
二時間弱で本日宿泊のツェツェルレグへ到着
ゲルでなくちゃんとした建物のホテルがある
1990年代に外国人が建てたのだ
内部はこんな
食堂でランチにしよう
わりにちゃんとした(失礼)メニューがある
なんだかヨーロッパの田舎風?
***
午後、町はずれのボルガン山斜面にある寺院へ。
あの斜面がそこ。
一見なにもないような場所だが
それは、冒頭に書いたような歴史があったからである。
再建された門をくぐり階段をのぼってゆく
すべては新しい
1990年に民主制の国に移行してから寺院の再生もはじまっている。
この木魚は新しい?古い?
そして、突き当りに残された、古い本堂?の前にたどりつくが
無残に破壊された跡がそのままだ
ここから町を見下ろすと、モンゴルはどこの町もチベット仏教が中心にあったことがうかがえる。
※2018年に訪れた人によるとこの建物は修復されて大きく新しくなっていた
****
アルハンガイ県立博物館へ
チベット仏教の寺ではあるが清朝時代の影響もはっきり感じられる。
ここで必ず見ておかねばならないのはこの「ブグト碑文」
六世紀、突厥と呼ばれていた時代のものとされる。
欠けてはいるが↑この部分はオオカミだとされている。左が顏で、足が四本見える。モンゴルはチンギスハーンの時代の「蒼き狼」の建国伝説が有名だが、この碑文はチンギスハーンの時代より五百年近くも古い。
中国では隋王朝の時代、モンゴルは敵対するだけでなく、碑文を立てるという中華的伝統にはならっていたのか。
博物館内部
17世紀までは寺も移動して、僧侶もゲルに暮していた。
定住してからのちも、今ツェツェルレグの町にゲルをつくって暮す人がいるように、ゲルの方が快適と感じる人は多かっただろう。
人は、民族は、生き方を簡単には変えられないものなのだ。
かつてこの斜面いっぱいに存在したチベット仏教寺院群のことを思う。
1930年代後半、ソ連の強い影響下にあった社会主義モンゴルは国中の寺院を破壊しはじめた。
破壊前のこの斜面の様子↓上の写真に写っているのはごく一部だとわかる。
★1930年代のモンゴルは人口七十万人なのに九万人もの僧侶がいた。
男性の四人に一人が僧侶だった計算になる。
寺は「ジャス」と呼ばれる直轄の寺領を持ち、それは全国で三千にものぼった。
チベット仏教のトップが政治的にも最大の権力を持つこのシステムを破壊するために、社会主義モンゴルはあの手この手で人々を寺院から離反させ、1939年にはここツェツェルレグの寺院は博物館に変えられた。
抵抗する者は強制的に排除された
我々が今見ているのはそういう場所なのだ。
1911年に辛亥革命で瓦解する清朝は遊牧とチベット仏教信仰のモンゴルを容認していた。
モンゴル人が遊牧の民だと誰もが知っているが、17世紀ごろまでは寺院も移動していたのである。
首都のウランバートルはその移動宗教都市「イフ・フレー」が1788年から六十年間動かなかったことにより定住がすすんで都市となった。
1930年代はじめ二階建ての住居はひとつもなかったそうである。
地方都市ツェツェルレグは2008年にもすべて平屋の町だった。
板塀の中に伝統的なゲルをつくって住んでいる人もまだまだ多かったようすがわかる。
**
2008年8月7日
朝、ハラホリン(=カラコルム)のツーリストゲルを出発
いつまで見ていても飽きない空と草原を走り出した。
さらに西にあるツェツェルレグを目指す
川原で休憩
崖の上にレプリカが
二時間弱で本日宿泊のツェツェルレグへ到着
ゲルでなくちゃんとした建物のホテルがある
1990年代に外国人が建てたのだ
内部はこんな
食堂でランチにしよう
わりにちゃんとした(失礼)メニューがある
なんだかヨーロッパの田舎風?
***
午後、町はずれのボルガン山斜面にある寺院へ。
あの斜面がそこ。
一見なにもないような場所だが
それは、冒頭に書いたような歴史があったからである。
再建された門をくぐり階段をのぼってゆく
すべては新しい
1990年に民主制の国に移行してから寺院の再生もはじまっている。
この木魚は新しい?古い?
そして、突き当りに残された、古い本堂?の前にたどりつくが
無残に破壊された跡がそのままだ
ここから町を見下ろすと、モンゴルはどこの町もチベット仏教が中心にあったことがうかがえる。
※2018年に訪れた人によるとこの建物は修復されて大きく新しくなっていた
****
アルハンガイ県立博物館へ
チベット仏教の寺ではあるが清朝時代の影響もはっきり感じられる。
ここで必ず見ておかねばならないのはこの「ブグト碑文」
六世紀、突厥と呼ばれていた時代のものとされる。
欠けてはいるが↑この部分はオオカミだとされている。左が顏で、足が四本見える。モンゴルはチンギスハーンの時代の「蒼き狼」の建国伝説が有名だが、この碑文はチンギスハーンの時代より五百年近くも古い。
中国では隋王朝の時代、モンゴルは敵対するだけでなく、碑文を立てるという中華的伝統にはならっていたのか。
博物館内部
17世紀までは寺も移動して、僧侶もゲルに暮していた。
定住してからのちも、今ツェツェルレグの町にゲルをつくって暮す人がいるように、ゲルの方が快適と感じる人は多かっただろう。
人は、民族は、生き方を簡単には変えられないものなのだ。