kotoba日記                     小久保圭介

言葉 音 歌 空 青 道 草 木 花 陽 地 息 天 歩 石 海 風 波 魚 緑 明 声 鳥 光 心 思

本当に『生きた』日

2019年12月30日 | 文学
茨木のり子という詩人は
体質に合う

今朝起きると
昨日読んでいた
大量の新聞の中あった
茨木のり子の詩が
頭に浮かんだ


紹介されていたのは
『ぎらりと光るダイヤのような日』
から抜粋されていた


 世界に別れを告げる日
 人は一生をふりかえって
 自分が本当に生きた日が
 少なかったことに驚くであろう
 指折り数えるほどしかない
 その日々のなかのひとつには
 恋人との最初の一瞥の
 するどい閃光などもまじっているだろう

以上の全文を
記憶していたわけじゃない

最後の時
本当に「生きた」
といえる日が
どれだけあったんだろうか

そんなふうに覚えていて
早朝
蒲団の中で
過去を思っていた

すると
本当に「生きた」
日は
素晴らしい日だけではなく
辛く悲しい
苦しく
寂しい
それでも
人生の
振幅が
大きく揺れた日
それを全部集めると
苦しい思いをした日
寂しい思いをしたあの日
悲しみに打たれ
号泣したあの場所
あの数日

ということは
喜怒哀楽こそが
人生の醍醐味
それが
ぎらりと光る日の記憶

そう思うと
辛いことや
悲しいこと
自信を失うことでさえ
それは
本当に「生きた」

いえるように思えてならない

だから
もっと悲しみ
もっと喜び
もっと苦しみ
もっと嬉しい
そんな日を刻む

できればうれしい
楽しいがいいけれど
薄っぺらなうれしさは
ぎらりとは光らない

以下
全文




 ぎらりと光るダイヤのような日
 

           茨木のり子


  短い生涯、とてもとても短い生涯
  60年か、70年の

  お百姓はどれだけの田植えをするのだろう。
  コックはパイをどれくらい焼くのだろう。
  教師は同じことをどれくらいしゃべるのだろう。

  子供達は地球の住人になるために
  文法や算数や魚の生態なんかを
  しこたまつめこまれる。

  それから品種の改良や
  りふじんな権力との闘いや
  不正な裁判の攻撃や
  泣きたいような雑用や
  ばかな戦争の後始末をして
  研究や精進や結婚などがあって
  小さな赤ん坊が生まれたりすると
  考えたり、もっと違った自分になりたい
  欲望などはもはや贅沢品となってしまう。

  世界に別れを告げる日
  人は一生をふりかえって
  自分が本当に生きた日が
  あまりにも少なかったことに驚くであろう。
  指折り数えるほどしかない
  その日々のなかのひとつには
  恋人との最初の一瞥の
  するどい閃光などもまじっているだろう。

  <本当に生きた日>は人によって
  たしかに違う。
  ぎらりと光るダイヤのような日は
  銃殺の朝であったり
  アトリエの夜であったり
  果樹園のまひるであったり
  未明のスクラムであったりするのだ。


良い詩人ですね。。。





文学と音楽

2019年12月09日 | 文学



カメラを首からさげた女性
ファンタスティックロードから来
さざんかの花を撮り
さらに北上した
裸木を見ながら

鳥のさえずり
グレイの空

大きなコンクリート片を見ていると
パッと頭に浮かぶ言葉があった
閃きというかPopupともいうらしいのですけれど
『夏の遺跡』
という言葉が浮かんだ
何故
そのような言葉が浮かんだのかまったくわからない
今は夏ではないし
『夏の遺跡』という言葉は
博物館学者でありシンガーソングライターでもある
犬塚康博氏の楽曲の題の一つ
だからとて
最近
それを聞いたか
というとそうでもない
ただ
『夏の遺跡』という言葉が浮かんだ

動画でタモリが宮沢賢治について語るものを見た
『ブラタモリ』の
「何故花巻は宮沢賢治を生んだのか?」という
タイトルである
番組の最後で
タモリが言った
「何故宮沢賢治は文学の方に行ったのかね? 僕らは石とか見ても『あー凄いなあ』で終わってしまうんだけど、おそらく宮沢賢治っていう人は心に堆積していったんだろうね。だから文学の方に行ったんだと思う」

この発言にはドキッとした
そして『夏の遺跡』の作者犬塚康博氏は音楽が大好き
大好きというのは本物の音楽を愛している人の意
犬塚氏も賢治と同様
学者であると同時に文学の側
つまり考古学者としての遺跡が
タモリの言葉を真似れば
「心の遺跡となった」
それを歌にしてしまう
歌が歌詞が音が
それが文学の発生場所である

『遺跡』は学者なら『遺跡』でとどまっても良かったはずだ
ところが
『夏の』が加わり『夏の遺跡』となり
学術と文学が絡まる蔓の如く
螺旋を描いて天に向かう
『夏の遺跡』とは
そういう題である

コンクリート片を見て
『夏の遺跡』のャbプアップが起きたとほぼ同時に
何故
学者が文学に行くのかが同時に判った
それは宮沢賢治も犬塚康博氏も
音楽が大好き
二人とも演奏した歌った
という共通点に
気づいた

宮沢賢治はチェロを弾いたというし
蓄音機に頭を入れて
大音量でクラシックを聞いた
そして喜んだ
作曲作詞もしている
有名なのは
『星めぐりの歌』
あと
『花巻農学校精神歌』

それなら
音楽好きの学者はたくさんいるし
すべての学者が文学に行くとはいえない
と言われたら
確かにそうです

答えるしかない

ただ
その後
音楽が好きな文学者を何人も思い
文学的な音楽家がたくさんいることにも
思いをめぐらせることになった

たとえば
大江健三郎と武満徹
藤井貞和と高橋悠治

コンクリート片をあとにして
残った命題は
<文学と音楽>である

國文學(第35巻2号)に
文字通り
特集『音楽と文学』がある
平成2年だから
30年前の出版である
そこをとりあえず
テクストとする

命題は始まったばかりで
音楽と文学に
どのような連関があるのか
他とは違う
どこがどのように重なり
刺激しあうのか
DNAの二重螺旋の如く
複雑なものなのか

音楽も文学も
どちらも数学、科学のように
明確な答がない
そこに共鳴性が発生したのか
どちらも時間経過がある
ならば映画は総合件pとなるけれど
文学と音楽の命題から
映画という総合件pは
とりあえず横に置くべきだろう
しかし特別として
河瀬直美監督の『光』
という作品は
文学と音楽
言葉と音というものに
クリティックな構造を持たせた
極めて斬新な
世界が絶賛する映画であるから
横に置きつつ
チラ見するのが正しい


文学と音楽の原初だ
知りたいのは

言葉を書記する以前に
言葉は音であったとするには
あまりに安直に過ぎる

文学と音楽は
そのような凡庸なものではないはずだ
それだけは確かだ

文学と音楽
その源の
具体はどうなっているのか

いつか少しはわかるかもしれない
文学と音楽の
極めて親密な関係の
色めきが



最果タヒの再読

2019年10月27日 | 文学
休日は晴

いつもの朝の時間に起きなければ
今日の用事は済まされぬ

それでもよく寝たから
起きて
歯磨き
コーヒーを煎れ
リンゴ
納豆
みそ汁
チーズトースト
バナナ

時間まで
最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』を読む
最果タヒのデビュー時
彼女を読んだ時より
判る感
今あり

それは
わたしが若くなったわけでは
もちろんない
おそらく
わたしの中で
言葉の運動が多くなったからだと考

吉本隆明は
年上の言うこと書く事を理解するのはできる
ただ
年下の言うこと書く事を理解するには
三倍の力がいる
と言った
誠である

最果タヒを若い人たちが読んでいる
わたしも読む
判りたいと思う
判らないけれど
嫌いじゃない
だからしつこく読む
とにかく読む
判るまで読む
赤本も併用して読む
最果タヒを徹底的に読む

そういう覚悟があるわけではないけれど
判らない
というのが嫌いなのだ

けれど
今不思議だけれど
以前より
ずっと最果タヒの詩が判る
それはわたしにとって
喜び以外何物でもない
無理してでも
理解したい
たとえ
実感が伴わなくても
言葉への思いがつづられた
「あとがき」を読めば
作者の言葉への思いが判る
「あとがき」こそ
今回の読書において
大事だった

そうだよな

そう思った


長い詩
短い詩
最果タヒは
「ご立派なことをいうのはもうやめませんか」
と言っている
最果タヒは
「花がきれい、ということをいうのはもうやめませんか」
と言っている

最果タヒを読んでいて
思うことは

・できる限り正確な言葉を使いましょう
・そうでないなら黙りましょう

この誠実さ
言葉への誠実さがきれい

また随所で出てくる
『獣』という言葉が気になった
けれど
それを理性との反復などと
「乱暴な言い方はやめませんか」

最果タヒは言うので
言えない

思潮社の『現代詩文庫』シリーズの
詩人たちはわずかだけれど
好きだし
そこには
自然と思想がたくさんある
けれど
最果タヒの詩は
その自然と思想の外側に出て
「窮屈です」
と言う
そこらへんが
一番面白い

判らないものを批判してはいけない
自分の持っているものがすべて
だと確信することは危険
「感動しなかった」で
済ませてはいけない
と切に思う

判らないの向こうに
荒野がある
それをわたしは
高橋源一郎が判らないと思った時
執念で一年は食べた
結果
パッとわかった
そのあとの言葉の豊饒さ
広がりほど
凄いことはなかった
そういう実感があるから
今回も食べます

まだ数冊借りてきている
もっと食べる
冬眠前の
熊の如く

最果タヒは
現代詩の
きゃりーぱみゅぱみゅだ
と思った

きゃりーはある時期
シリアスな曲をもらった
その歌詞を歌うと
泣きそうになるといっていた
おそらく
きゃりーぱみゅぱみゅを表としたら
最果タヒは裏だ
陰陽☯
になる

きっと
きゃりーは
最果タヒがすきなんじゃないか
「判るー」
って言いそうな感あり







三島由紀夫について

2019年10月20日 | 文学



先日、三島由紀夫の最後の叫びの
動画を見た

友達に教えてもらって
初めて知った動画
ありがとうございます。

上にある動画は1969年のもので
見た動画の付随としてアップ

番組を見ていて
泣きそうになった
あまりにも
三島が言おうとしていたことが
判ったので。

三島は凄く純粋で
臆病だった
そこが完全にツボった


動画の最後で
50年後100年後
「判った」と思ってもらえばいい、
と三島は書き残している
わたしは動画に向かって
「判るよ」
と声には出さずに
思った。

かわいそう
と思った
判るよ
と思った
そして
自分のやっていることは間違いではない
と思った
今まで通り
日本の自然を描いてゆく
そう思った
それが
今になって
やっと判った

三島が言う
「天皇を中心とした日本の歴史、文化を継承、守ってゆくのだ」
という言葉。
そこには愛国心も軍国主義もない
と誰かが言っていた通りだと思う

わたしは『日本文化防衛論』を30年前に読んだ
エッセイ『太陽と鉄』を読んだ
それを枕元に置いて寝たほど
『太陽と鉄』はわたしを魅了した

たくさんのことが自決において
言われそれの全部の詳細を当時
読んだ
いろんな解釈がある
それでいいと思う

ただわたしは今
まさしく三島が言うとおり
天皇を中心とした
日本語の多様について
一番自分の生活の中で
実践できているところだと思う

エロティック、または右翼、
そういうものは末端だとわたしは思う

三島の一番の思いは
戦後になって
アメリカの文化が入ってきて
日本の書、茶道、日本語、各地域での文化、
食文化、陶器、武道、葉隠れ、禅、熊野信仰、及び、
天皇のあり方としての神道、
花鳥風月、わびさび、阿吽、二十四節句、能、歌舞伎、
あらゆるものが
経済中心主義によって
お金にならないものに価値は低くあるべし
グローバル化、コミュケーション能力、
そういうものが
五十年後
三島の言う通りになっている。
これを危惧した
早い思想家としての三島

東大全共闘との対話の番組を
以前何度見直しただろう


こないだの動画にも少し紹介されていたけれど
当時、討論した全学連の人たちが
インタビューを受けていて
一番まともなことを言っていたのは
当時、著述業として紹介されていた
のちの哲学者
小坂修平氏であった
その後
小坂氏は『非在の海』という三島由紀夫論を出し
すぐに買った
すばらしい内容だった
すでに30年前
小坂氏は「天皇制は三島が言っていた通りになっていますね」
と言っていた。
『非在の海』のサブタイトルは「戦後日本社会のニヒリズム」である。
今、本棚にもある。

先日の動画で、東大全学連と三島の言うことは
根は同じ
ということを誰かが言っていた
その通りだと思う

経済優先ではなく
文化、とりわけ
日本文化を天皇を中心として
守っていきましょう
という当たり前のことを三島は言って
自決した
今判る
とてもわかる
他のことができないほど
涙が出そうなほど
三島の言っていたことが判る

平野啓一郎の言っていることは
一理あるけれど平野は
三島を本質的に理解していないと
判った
彼は文体こそ真似たけれど
三島の日本文化を守る
アメリカナイズの危機を
本当には理解していない
作家としてのシンパシーだけだ
アメリカナイズに伴い
谷川俊太郎は詩集『コカ・コーラレッスン』を出版。
コカ・コーラとはアメリカの比喩、
アメリカの文化を練習しましょう、
という意味の題。
アメリカナイズのあとに

グローバル化
英語の普及
卓上から教育から
コミュニケーション優先主義
それはすべて
卓上の文化を消し
外国人とお金儲けの話をしろ
というアメリカの圧力と
日本政府の経済最優先主義
そういうことを
平野は頭ではわかっていても
実感はしいない
アメリカ文化を
享受したまま
自然界に戻ろうとした意識が
彼にはないからだ

日本文化ほど
自然界を取り入れた文化は他国にない
漢語ということでは近代中国はそうかもしれないけれど
現代中国はすでに経済優先。

日本語を考えるということは
日本を考えるということ
日本人を考えるということ(排他的な意味ではけっしてない)
根源は三島が言う通り
天皇を中心とすれば
おのずから
日本文化の在り様が見えてくるはずだ

軍国主義ではない
経済優先を否定し
粗末ながらも
弛緩せず
便利にならず
武道の如く
礼を持って相手を敬い
というところから始まる

さらにそれは自然崇拝への敬いにももちろんなる

三島への
共感

ただ三島が言うとおりに
日本がなっている
それは小坂氏が言っていたとおり
早い思想家。

だからこそ
今生きていて
ほしかった
アフガニスタンを攻撃された
ビンラディンは
アメリカ貿易センタービルに
テロをした
911。
三島は911をどう思っただろうか。
生きて、それを発言してほしかった。
作家として、そして思想家として
今の日本を憂いてほしかった。

頭の良い作家だったと思う。
未来を予兆する眼力を持っていた。

いかんせん
今だ
三島の思想に
無理解、無関心であるのが
さみしい。
ゲイであったり
右翼団体をこしらえたり
そんなことは
わたしにとっては末端にすぎない。

あくまでも
文化防衛論
尽きるは
日本語文化防衛論となる

わたしは
三島の
「日本」なのです。
日本語、なのです




サイセイ氏に
「早すぎた思想家、三島由紀夫について何か思うことがあったら書いてほしい」
とメールをしたら
短い言葉で
すごくむつかしいことが書かれてあって
お手上げ
ゆっくり話さねば



カフカ先生は言う

「三島は祖母に育てられた。幼少の時、江戸歌舞伎を見ている原体験がある。それは暗闇と血だ。だからあこがれとして『血』の美があるはずだ。悪も美であり、グロテスクこそが美であるということをあまり誰も言っていないけれど、三島はあこがれがあったはず」
カフカ先生はコーヒーを飲みながら続ける
「三島は御神輿の中はどうなっているのだろう、暗闇への憧憬は間違いなくある。血と暗闇について三島は『憂国』なんかでも他にもいやというほど書いている。血はゲイからくるものだろうけれど、イデオロギーはなかったはずだ」
「『豊饒の海』が最終的に一番わたしは好きです」
と言うと
「輪廻転生だからですね。作り物としてではない作品だけれど、かったるい。『金閣寺』なんかで自然描写が出てくる。たくさん。するとホッとするんだ」
とカフカ先生は言った。

そのあと和辻哲郎の『風土』にある日本の自然への愛、もしくは『楢山節考』の自由さは、三島にはなかった。だから三島も『楢山節考』が出た時、のけぞった。
とカフカ先生は言う。

自決の真相はたくさんのものが絡まっているから、簡単に一元的に言ってはいけない
というふうにカフカ先生は呟いた。

何故、わたしは過ぎ去ったはずの三島が
今判るのか
25歳の感じ方と58歳の感じ方
その歳月の間に
言葉がある

当時
三島を読んで
世界はすべて言葉であらわすことができる
と通勤の近鉄電車が大和川を渡る時
ハッと思った。
あの時の思い。
今はそれがとうてい無理だとわかったけれど
三島の文体はわたしにそう思わせるだけのlogicとfeelingが存在したのは本当だ

三島は臆病で純粋だった
それが今見える

だから泣きそうになった
とりわけ
あの純粋さに
美しさを見た




無思考からの逃走

2019年09月11日 | 文学
『燃えあがる緑の木』

その動画を見ていると
作品を読んでいた時のことが
思い出せない
本は確かに本棚にあるのに
内容もすっかり忘れている
読書で内容を憶えているのが希少だ
村上春樹なんて読んだ直後から
あれ何が書かれてあったんだろう
っていうことが常
読書は音楽みたいに
感覚しか残っていない
『燃えがある緑の木』も同様
憶えていないのだ
憶えられないのだ

ただ動画を見ていて
大江健三郎の
「一瞬よりわずかに長い時間」
というフレーズの意味
それはとても重要
その数十秒、数分間を
死者たちと見た記憶があり
それを死者とともに
現在も見ることができる
これは「魂」の問題であり
永遠に「魂」はどんな形であろうと
生き続けている
という大江の確信である

そこに
死んでも永遠に魂は生きて
わたしたちと共にいてくれる
それが
わたし自身にとっても
救済になった

大江が
救済を描く
わたしが大江を読む気持ち良さと
癒しと安心は
生死の区分ではない
「魂」の永遠だ
あのゴツゴツした文体だからこそ
一行一行
立ち止まって考えながら
の「時間」を与えてくれる
読者が
通りすぎないように
と願ってのあえての悪文

大江の初期の文体を
村上春樹は模倣している
と鋭い指摘を
カフカ先生は当時
発した

それくらい
大江の初期の文体は
読みやすかった

あえて変えた
読者は離れ
新しい読者を呼び込んだ

---

すごく前
吉本ばななちゃんが
言っていた
「死者との対話が一番リアル」
それは理屈抜きで共感した、する

死者は何も言わない
けれど
語りかけることで
繋がっている

昨日は大好きだった祖母の命日だった
あれから48年も経った
「兄も俺も歳をとったよ、知ってるでしょ」
そんなことを
西の空に向かって
話している

祖母との
『一瞬よりいくらか長い時間』
それを今でもいくつか思い出すことができる
その場所に立てばさらに良いのだけれど
思い出すだけで
匂いまで嗅げそうだ
祖母の笑顔

『燃えあがる緑の木』

魂は作中の『森』に帰ってきて
わたしたちと共に暮らすという
森は二酸化炭素を吸収し
酸素を排出する
動物は酸素を吸収し
二酸化炭素を排出する
それが植物と動物の共生関係だ

その森の空気を呼吸することは
さらに身体的に死者と
共有することを意味し
一体化するという大江の言い方

既成の宗教ではなく
なにもない祈りと瞑想の場所
それはどう考えても
大江が『キリスト教』と書けない
ところである

いつだった
大江は松山だったか
牧師に言われた
「あなたはそこまで信仰をしているのだから、信仰者だといって良い」
そう言われた大江は
逃げ帰ったという
信仰を否定する
つまり何かを信じると
すべてのことがらが
全部教義の解釈になってしまう
あらゆることを
宗教的に片づけてしまう
それは結果の原因
または結果の理論を考える
ということをしなくなる
という恐れからだとわたしは思う
原理の無思考性を大江は恐れた
大江はインテリだから
何故か
という問いを
すべてに持って
それを宗教という原理で
片付けてしまうことから
「逃げ帰った」のだ

だからすぐそのあとに
『信仰を持たない者の祈り』
というエッセイを書かざるを得なかった
それは大江の意思表明以外
何物でもない

大江は構造主義の魅力に取りつかれた一人であるにも関わらず
信という原理に強い実感と憧憬を持たざるを得ない

牧師が言ったことは本当だったからこそ
理に帰らねばいけない
と立ち返ったけれど
それでも
上記の題が示すように
大江の中で
感受と理論の両方を
原理主義と構造主義の両方を
両肩に担ぎ
脚を踏ん張って
生きてゆく
という表明である

信仰に沿いたい
けれど
自身でストップと言う
ある意味
考えたい欲望を持つ人の
禁欲性といえる

---

大江の言葉で
『自動化作用』
という言葉がある

それは
普段見慣れている

部屋
ドライヤー
パソコン
通いなれている
植え込みの花

それを脳は一度認識して
自分に危害、危機を与えない
対象だと認めると
当たり前のように
見過ごしてしまう
自動的に
「これはドアだ、これは鍵だ」
と再認識せずに
家を出てゆく
ところが
そのドアを初めて見た驚き
鍵を初めて見たとき
そのギザギザの形状の複雑さを
おそらく誰もが数秒間は見る

あらゆることに慣れてしまうと
新鮮さは失う
自動的に鍵をとり
ドアを閉め
いつもの道の
草や木
店を
通り過ぎてしまう
しかし
今一度
すべてをちゃんと見る
それの観察の力を再生することで
新たな発見がある
『自動的』に見過ごしてしまうことの危険性
無思考、無観察、無認識、無意識
それは良くない
という意志を込めて
怠惰な常態を
『自動化作用』が起こっている
と書いた

中上健次も同様のことを
端的な言葉で現わしている

「外国人の目で物を見ろ」

二人の巨人たち
そのあとに
巨人は出現していない








高橋悠治と藤井貞和

2019年08月21日 | 文学
   



くもり はれ

花ぐるり
風車ぐるり

セミ
スズムシ
鳴く

外周

内周の新鮮

青テント

あのベンチの記憶

汗たくさん



もれることなく
すべての人は
物語を持っている

「小久保くんには話すけど」
「こんなこと初めて話した」
「この話をしたのは小久保くんが初めてだ」

そんなことを
何人の人に言われただろう
ところが
本人にとっては
秘密で世間体の悪い
胸にしまっている内容、生い立ちであっても
実はわたし
あまり気にしていない
それからもあまり気にしたことがほぼない
ただそこに触れるような話は避けるし
誰かがその人にその類の話をし始めると
本能的に話に割って入り
今何時
だとか
なるほどねえ
ところでさあ
と話を変える

けれど
誰がどんな過去があろうと
なかろうと
実はあまり知ったことじゃない
自分の人生にかかわることなんて
ほぼ皆無に等しい

もれることなく
すべての人は
物語を持っている

それを打ち明けてくれた人のことは
一切言わない
それくらいの礼儀はある
信用して話してくれたことだから

たまに
「これ小説になるだろ?」
と言われる
そう言われると同時に
その気がなくなる
「ならない」
と思うし
それほど
面白い話ではない
「うーん」
と言って
ごまかす
「小説にしてもいいぞ」
と言う
「あ、はい。ありがとうございます」

ツボが違う
本当にモデルにしたい人は
みんな謙虚だ
言葉がまず少ない
だから
こっちが想像する余白がある

創作とは
余白のことだ

運気とは
血行のことだ

言葉とは
ただ書くだけの
記述するだけのことだ

---

世の中には
言葉にする習慣がない人が
多い
日記も書かない
生い立ちも記録しない
その日の気分なんて
書くに価しない
それはそうだと思う

けれど
わたしは書く
理由は簡単
好きだから
書くことが
何よりも好きだから

それは小説でも
詩でも散文でも
単語の羅列でもいい

書いている時が
一番正しく生きている

書いていない時は
書くことを探していることはあまりない
ただぼんやりして寝てるか
食べてるか
歩いているか
電話してるか
そこらへん
たまに
思ったことや
見たものを
手帖に書き留めておく

何よりも
言葉を書くこと
内容なんてどうでもいい
前後のつじつまなんて
どうでもいい
そんなこと関係ない

言葉は書きさえすればいい
それが言葉への礼儀であり
「言葉を使おうなんて、言葉に失礼だ」
と言ったのは
詩人のねじめ正一さんだった

「言葉なんておぼえるんじゃなかった」
と書いたのは詩人の田村隆一さんだった

時に言葉なんてない方がいい
そう思う時
田村さんの詩句を思い出す
まだその本当の実感までは
到達していない

詩とは何か

高橋源一郎は以前
山頭火の詩句を引用した

陽を吸う

これだけ(笑)

または八木重吉

かみさま
かみさま
かみさま

これだけ(笑)

これも詩なのだ
と断言して
どれだけ励みになったことか

それにしても
どちらの詩句も知っていたので
さらに源一郎が好きになった時期である



大切な友人の一人が
詩という言葉の意味を
引用してくれていた

寺は仕事をし体を使うこと
それを脳でいじくりまわさず
身体感覚で言葉にする
それが詩であると

異論はあるだろう
詩は極めて知的な作業であり
厳選して言葉を選び
配列する
けれど
わたしの場合
その寺と言葉の関連が
一番しっくりくる
いい言葉だと思った

中日新聞で詩を紹介している
詩人北川透さんの言っていることは
ほぼ理解できない
それでも
人はわたしを詩人だと言う

いろんな詩があるのだと思う
大岡信より
黒田三郎が好き
辻井喬より
草野心平が好き
尾崎放哉より
山頭火が好き

詩の作り方がまったく違う
今のところ
二通りの違いしか判っていない
例外は
吉増剛造だけ

言葉の面白さということで言えば
詩人や作家だけではない
現代音楽家の高橋悠治のTwitterは凄い
面白い
中原昌也並に面白い

たとえはいつだったか
源一郎が高橋悠治の本から引用していた文は凄かった

、がない
。がない
、。があってしかるべきところに
一マスの余白があるだけ
それでも十分意味が通じる
そのことに源一郎はのけぞっている

こんな感じ

わたしは 朝 散歩に出た 雨は降っていない ただ空は雲っていたけれど 傘は 持って こなかった わたしは歩いた 時々 樹木の幹の 不可思議な凹凸に 世界を見ながら 歩いた


みたいな感じ
文は今
適当に作ったけれど
つまり、
、も、。もいらない
いらなくて意味がわかる
そういうことは
文撃フ世界から
出てこなかった
実験音楽の人だし
音楽の実験を言葉に応用しているだけなんだと思う

面白いな
と思ったことは
詩人、藤井貞和とのコラボもあるのだ
それは高橋悠治と藤井貞和がコラボするというのは
当たり前すぎるぐらい当たり前なこと
どちらも
同じレベルで
言葉が壊れ
音が壊れている
壊れるという言い方は
定型に対しての
アンチテーゼみたいに
なるから
壊れるを訂正したい
言葉が新しく生まれる
音楽が新しく生まれる
これが正しい




はれのちあめふりくもりぞら

2018年10月13日 | 文学
はれのちあめふりくもりぞら


朝は朝日の空の色
ビルばっかりで
それでもきれい
誰と誰がどうしたの
そんなこと
わたしに関係ない
良い音楽が天から聞こえ
わたしは聞こえているけれど
誰もかれもがお金のことで
あっちにいったり喧嘩をしたり
この世の全部投げ捨てて
わたし一人で生きていきたい



花と緑と光と青
それだけあれば
わたしは幸せ
きれいな心は長続きせず
いつも汚れて帰ってくる
どれだけ体を洗っても
人の言葉の穢れは消えず
涙を流してしまう時
そっと静かにしています



はれのちあめふりくもりぞら




わかってほしい心なんて
わたしにだってわからない
自分のことだってわからないのに
人の心がわかるわけない
それでもわたしは生きている
ご飯を食べて
水を飲んで
歩いて
笑って
悲しんで



寂しいはとっくにわからない
なんのことだかわからない
それでもわたしは前にゆく
石があれば水になって
ごめんなさいよ
と避けてゆきます



はれのちあめふりくもりぞら




明るい気分でいる時も
辛い気分でいる時も
わたしはわたし
この世にたったひとりしか
いないわたしの名を呼んで
小さな声で名を呼んで
自分で慰め励まして
安心させて
認めてあげます



昼休みには外に出て
緑の近くに歩いていって
息を出して息を入れて
誰もかれもがお金のことで
嘘を言ったり仕鰍ッをしたり
わたしは花のそばにゆき
香りを確かめてみるけれど
街の花は香りを失い
それでもわたしを助けてくれる




はれのちあめふりくもりぞら




体はいつもどこかしこ
悪くなったり良くなったり
紅茶を飲んで
体を温め
誰かのことを思っては
小さく手と手を合わせては
祈りの真似事してみます



薄暮の中で
何かを話し
何かを聞いて
明日の朝になってしまえば
話したことも
聞いたことも
すっかりしおれて朽ちてゆく





はれのちああふりくもりぞら




長い歳月過ぎてしまって
あっというまにここにいて
この椅子に座って
静かにしている
わたしはいったい何なのか
それが未だにわからない
いろいろ理由をつけてはみたけど
これっていう答えはあろうはずなく
そのことに気づくまで
ここまで来たの
だからわたしは窓をあけ
見えない空に探します




はれのちあめふりくもりぞら




空にはおじいちゃんやおばあちゃんがいることくらい
知っている
だから空を見ればホッとする


星はぜんぜん見えないけれど
それでもわたしは夜空を見ている
あっ

月だって星なんだ
そう気がついて
うれしくなって



朝から夜まで駆け抜けて
するべきことを全部おえたら
一息二息
カーテン開けて
窓をあけ
夜になったら
星を見ます



はれのちあめふりくもりぞら
何度でも繰り返す
はれのちあめふりくもりぞら







照る日もあれば降る日もあるさ

2018年09月25日 | 文学
パソコン
スマホ
Bluetooth

デジタル疲れ

なので

こんな小雨はありがたい
自然界はデジタルではない
天然のブルーカット

空はくもっている
風は吹いている
雨はあがった

青空が欲しい


なくした腕輪
熊野本宮に頼んで
送ってもらった
新しい腕輪

模様替え

川沿いの道
この道は初めてといってよいほど
新鮮な道
川は流れているし
草が生えている
鳥もいるだろう

川がある
ということ
川沿いの小径がある
ということ
そこをゆく
ということ

鈴鹿からの知らせがあり
歓喜の声をあげる

   くりかえす
   くりかえす
   いいことも
   やなことも


と歌ったのは
どんと

歯医者

カフカ先生が
たまに言うことわざがある
けれど
調べても
ことわざとしてヒットしない
妙だと思って
カフカ先生に問い合わせてみると
「ことわざじゃなく自分でつくった」
と返ってきた

 照る日もあれば
 降る日もあるさ

耳慣れないと思っていた
オリジナルとは
知らず
成程






根本昌幸さんという詩人

2017年04月30日 | 文学
以下は4月27日付けの
中日新聞の記事です。

根本さんという詩人の
詩が素敵だったので、
記事を合わせて
全文を転載します。


---


中日春秋



 <捨てる。/捨てない。/忘れる。/忘れない。/戻る。/戻れない。/帰りたい。/帰れない。/遠い。/近い。/どうする。/どうしようもない。/陽炎の/向こうに。/ゆれて見える。/わが故郷。>

▼これは、福島県相馬市に住む根本昌幸さん(70)の詩集『荒野に立ちて』に収められた詩「わが故郷」だ。その故郷・浪江町は原発事故で全町避難を強いられた

▼今春、避難指示は解除されたが、家は荒れ、先祖代々耕してきた田に汚染土を詰めた袋が積み上げられている。捨てる。捨てない。戻る。戻れない。この一つ一つの句点に、区切ることができない心の揺れが凝縮しているのだ

▼だが、句点一つの重みも分からぬ人が復興相を務めると、こんな言葉が飛び出す。「古里を捨てるというのは簡単」「(震災が起きたのが)まだ東北で、あっちの方だったからよかった」

▼ついに辞任に追い込まれたが、自民党の幹事長が「人の頭をたたいて血を出したっていう話じゃない」と擁護するような発言をしたという。時に刃物より危険な言葉の力が分からぬのなら、言論の府にいる資格が問われよう

▼根本さんは、こういう詩も書いている。<人が人を/虫けらや獣のような/扱いをしたとき。/言葉はすくっと/立ち上がるだろう。/そして人に向かって行くだろう…>。政治に求められるのは、そんな言葉ではないのか。


---

一番最後の根本さんの詩は素敵。

人が人を
虫けらや獣のような
扱いをしたとき。
言葉はすくっと
立ち上がるだろう。
そして人に向かって行くだろう…


そしてアレンジしてみた


人が虫けらや獣を
虫けらや獣のような
扱いをしたとき。
言葉はすくっと
立ち上がるだろう。
そして人に向かって行くだろう…


それにしても

「言葉はすくっと立ち上がるだろう。そして人に向かって行くだろう…」


「人に向かって行くだろう」
は凄い。
この根本昌幸さんのファンになった。
必ず近日に
全詩集を読みたい。



秋乃みか/ジャン・メ[ラン

2016年07月01日 | 文学
執筆前の儀式のよう
秋乃みかさんの
『大門のあった街』
読了

小説を読んで
声をあげて
泣いてしまうという
活字が涙で見えないというのは
本当で

拭いては
読み
ページを閉じて

長野の山奥が描かれ始めた時
今でも
書きながら
泣きそうになり
この壮大なシーンは
まるでお釈迦さまの手に
掬われるよう

生きるのは苦しい
辛い
しんどい

でも
こういう救いの作品に出会い
あとに続きたいと切に思う


「何度でも 読みたい 大事にしたい作家」

誰かが解説に書いていた
ジャン・メ[ラン『よき夕べ』

美しい文章





茨木のり子展

2016年02月07日 | 文学
茨木のり子展 愛知県西尾市にて

先日
西尾へ

---

田の掘り返し
剥きだしの土
鳥が集まる

シャベルで掘る → 鳥が認識
棒を浮ェる   → 犬が認識 DNAへの書き込み 叩いたのは人間
火を浮ェる   → 猪が認識 DNAの書き込み 山火事の記憶(火を炊くと猪は体でそれを消しにくるという

―――以下 展覧会場でのメモ書き


なつかしの「かんばせ」
まなかい

熱い塩化ナトリウム  『花の名』より

すべては動くものであり
すべては深い翳をもち
なにひとつ信じてしまってはならない 『いちど視たもの』より

落ちこぼれにこそ
魅力も風合いも薫るのに
落ちこぼれの実
いっぱい包容できるのが
豊かな大地         『落ちこぼれ』より

たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人も
いますもの              『歳月』

面白いことはおもしろかったが
くたびれて死にそうだ     
(S15.3.15 名古屋太平洋博覧会を記述した日記より)

夏草しげる焼跡に
しゃがみ
若かったわたくしは
ひとつの眼球をひろった
遠近法の測定たしかな
つめたく さわやかな!      (出典は書き忘れ)

―――

帰りの車窓
梅の白き花 発見

「誰かをはげますために詩を書いたことは一度もなかった。すべて自分へ向けてのもの」
とロビーで、
この展覧会のために作られた
VTRで
誰かが
茨木のり子さんの
言っていたことを
追想
していた

「劇場(東京)で舞台に熱中した。しかし、言葉の不足を感じた
                 ―(VTR)より

茨木のり子
言葉を持つ人ではなく
人の内なる言葉を
引き出すための
磁石みたいなものを
持参している
そんな人

『詩人』と
『言葉の人』とは
まったく
違う

言葉は物理だ

やさしい人

無駄な言葉がない


西尾市岩瀬文庫特別展 茨木のり子没10周年  

2016年2月21日まで

http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/kaforuda/40iwase/kikaku/62ibaraginoriko/ibaraginoriko.html

☆ 名古屋から名鉄電車 西尾市下車 くるりんバス(100円)あり
  わたしは西尾口で降りて 徒歩15分
  帰りはくるりんバスで。
  電車でゆられて車窓を見るのも素敵
  こんな展覧会が無料とはすごいです
  お礼に岩瀬文庫(図書館の隣)にて
  茨木のり子の会の会員になってきました

アクセスはこちらです http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/kaforuda/40iwase/iwasebunko/koutu.html  








文の時間/表意文字

2015年07月31日 | 文学
喫茶店のテーブルの上に
白い本が置いてあった
多和田葉子だったので
少し驚く

それから
詩人は漢字に頼り過ぎている
という指摘を受けて
ショックを受けた
まさしくその通り
漢字は表意文字であって
字に意味がある
それを使うのは
「ずるいですよね」
と苦笑するのはわたし
漢字は中国、韓国、日本しか使わない
さらに言えば
漢字は仏教用語である


たとえば多和田葉子は
ドイツにいて
ドイツで日本語を書いている
たとえば村上春樹は
英語でものを考える

外国語をマスターしている人は
言う
「詩人は漢字に頼り過ぎている」
と。

その人は今
ハングルの動詞の活用について考えている
フーコーの「言葉と物」を
原語で読むと
とても簡単な言葉しか使われていない

末フ問題にも話は及ぶ
「でもわたしは言語学者じゃないから」
と言う
逃げで言っているともとれるけれど
実際には学者ではない


漱石には文がある
と柄谷が言っていたことに話が及び
それは「柄谷を読む人はインテリだからあえてインテリの漱石には<文がある>と言ったのではないか?」
と言うと
「そうですね」
と言う

多和田葉子にも文がある
柄谷が以前
「哲学者の文体」ということを言っている
と話すと
その人は納得するようだった

作家は誤読されることを好む
と言うと
その人は驚いていた
それがなぜなのかが
実感できないようで
興味深く話を聞いてくれた
「判ってほしいと思っているうちはだめです、それは甘えでしょ」
と言うと
興味深くうなずいた

文の時間は短く
そして
有効で重厚だった
こんなラッキーな日もある

日差しの中で
わたしたち
南へ向かった
わたしは漢字のショックを受けて
ならば
漢字を使わず
ひらがなとカタカタで言葉を書いてみよう
と安易に思ったことは言わなかった

陽光は
わたしたちの頭上で
白く光っている

金森幸介さんというフォークシンガーの歌の一部
「言葉はいつも嘘をめざすから 僕らは少し黙った方がいい」
という言葉を紹介すると
その人は度胆を抜かれたように
「嘘をめざす」のところで
「そうだね」と即答し
「黙った方がいい」に関しては
納得いかなかったよう
それはわたしも同じ問題を抱えている
言葉を使う人々は
常に
ニュアンスを言葉にしないではいられない
こないだも言われた
「小久保は何でも言葉にしようとしよる」
性と思って
あきらめ
時には
金森さんの言うとおり
黙ることも本当に大事な時間




千年の愉楽

2013年04月10日 | 文学
http://www.wakamatsukoji.org/sennennoyuraku/

若松監督は、
中上健次を確実に掴んでいる。
今日、
作品を見て、
原作と「同じ」であることに、
驚いている。
なぞったとか、
原作に忠実とか、
そういうことではなく、
若松監督は中上健次と重なっているのだ。
それが何かを、
時間をかけて自分だけで考えたい。
中上文学のキーワードを羅列して、
それらしく言うことは簡単だ。
僕は書いた。
「千載一遇の瞬間を軸にして、来し方行く末を描ききった作家」
だとかナントカ。
こんな安易で乱暴な言い方がよくできたものだ。
憶えた、知ったばかり言葉を、
無知な僕がコラージュしただけだ。


若松監督は中上健次を掴んでいる。
それだけはこの映画を見れば判る。
問題はそれが何か、
だ。
原点だとか原初だとかそんなことじゃないんだ。
おそらくそれは、
文学の毒といわれるもの、
おそらくそれは混沌としたもの、
それを若松監督は掴んでいる。

判らない。間違いなく、ある。
だけれど、
それが何なのかが判らない。
中上健次がある時期に言った。
「今、安吾が見える」
中上は、坂口安吾を、
その時に見えたという。
掴んだ、ということだ。

中上健次の核(という言い方が正しいとは思わない、むしろ、「混沌」)、
は何だ。
それは何だ。

---追記

ある評者が、
「この映画を撮ったことは奇蹟だ」という。
「「千年の愉楽」が書かれたことは奇蹟だ」という。
思った。
以前、浅田彰が中上健次の「奇蹟」
という作品に、
「「奇蹟」はまさしく奇蹟的な作品だ」
と書いたことを。
あれから30年は経っている。
それをまだ繰り返すのか?
僕がほしいのは、
自分の言葉だ。
借り物ではない、
自分の言葉だ。
それをやらないと。

中上健次の二つの目と、
若松孝二の二つの目、
計、四つの目が、
見ている。
もうごまかしはきかない。
そのことを、
この映画は強く言っている。


同じ時期、
村上龍が坂本龍一と「千年の愉楽」を、
メタリック(白黒でしかも輝いている)で撮りたいと、
角川春樹に申し込んでみたら、
お金を出してほしいだけだったのに、
角川が「それじゃあ俺がやる(撮る)しかないな」
と言われ、二人で唖然としたこと。
そんな笑むエピソード。
あれから、
今日、
初めて、
「千年の愉楽」が、
映画化された。
感慨深い。

同じ時期、
柄谷行人は、
「大江健三郎は文化人類学(先日亡くなった山口昌男)を導入しているが、
 中上健次は文化人類学の対象そのものである」
と書いている。うまいこという人がいるもんだ、と思った。
柄谷と安岡章太郎(も、こないだ亡くなった)の対談で、
「実感ということが一番大事なんだ」
ということを安岡が言っていた。


あれから、
文学はどうなった?
死んだとか、死にゆくとか、
大江、中上で文学は終わったとか。
あれから、
文学はどうなった?
消毒された。
あったはずの毒の正体。
それが、知りたい。考えたい。
「千年の愉楽」は、
本来普遍であったものだ。
その普遍を若松監督は掴んでいるんだ。
悔しい。判らない。

中上健次と柄谷行人は、
朋輩だった。
「どちらかの(精神が)弛緩したら見捨てる」
という約束があったという。
そういう緊張感のある話を、
思い出させるのは、
他でもなく、
若松監督が撮った、
「千年の愉楽」だ。


ひらいて

2012年10月20日 | 文学
綿谷りさ著「ひらいて」を、
読了しました。
数日、
地下鉄で読んでいたのだけれど、
あまりに、
面白いので、
帰ってから、
いっきに、
最後まで読みました。
構成も、
言葉も、
言葉に注ぐ力も、
強いです。

この作品を読んでいて、
村上春樹みたいだ、
と思いました。
だから、
ャXト村上春樹だと、
思います。

小説というものは、
本当は、
こんなに面白いものなんだ、
と思い改めました。
こんな小説家がいて、
良かったと思います。
綿谷りさは、
全部読んでいますけれど、
この「ひらいて」が、
最高なんじゃないかな、
と思います。

言葉がともかく、
もの凄く良いです。
どこらへんに、
影響されたのかな、
どんなふうに、
これを制作したのかな、
という興味があります。
今年、一押しの小説、
「ひらいて」。

超fake

2012年09月22日 | 文学


写真は、
街灯です。
昔のランプの姿をしていて、
強い風には、
揺れるようにしてあります。
てっぺんは、
かもめ、
を現しているのでしょうか。
みなと町、
というほどではないけれど、
小樽のようではないけれど、
伊藤整文学記念館もない町ですけれど、
時折、
潮風が吹き、
ボオオ、
と、
汽笛が聞こえます。

今朝は4時半に起きました。
秋分の日です。

名前(言葉)って、
死んでからも、
消えない。

肉体(タクシー)は、
魂の器。

そんなことを、
朝、考。

嬌声を遠くに聞いて。
言葉が友達、味方。

暑い秋、
秋の暑さ。
秋の日の中の、
暑さ。

ーーーメモ

映画「悪人」について。

きききりん、さんの、
バスの中の演技には、
圧巻。
それは表情のみ。

 役者が作った現実
 作者が作った現実

    ↓

 演技でしか作れない現実
 言葉でしか作れない現実

それはFAKEなんだ、
ということ。

「悪人」の中の、
長回しの、
バスの中のシーンについて。

判った!
と思った。
きききりん、さんの演技は、
角田光代が小説言語で、
現した現実、
「その子はまだ朝ご飯食べてないの」
に、
対応する。

内面は、言葉(小説、文学)
でしか、あらわせない。
きりんさんは、
演技でそれをやった!

現実 → fake → 超fake。
これが正しいプロセス。

きりんさんや、深津絵里には、
別の言い方をすれば、
言葉がある、
と言える。