開けた扉のしあわせ
今読ませていただきました
二十八年間
一度もじゅん文学を休まず
小説教室の講師としても休まず
淡々と仕事をされた戸田氏への
ねぎらいの言葉から
このエッセイは始まる
縁の不思議
空海いわく
悪縁というものはないらしい
高田渡氏の歌詞で
「一度も会わない人だっている
すれちがいすらしない人だっている」
と
人と人の出会いの
巡り合わせの
確率について
歌っている
わたしは時々
精液の分泌について考えることがある
数億といわれる精子が射精によって
子宮まで必死にオタマジャクシとなって
泳ぐ
途中での生存競争は凄まじく
他の精子を押しのけて
または妨害して
ともかく子宮に辿り着こうと
必死で泳ぐ
その数は数億
その中でたった一つの精子が
子宮に辿り着き
運が良ければ
受精となり
現在のわたしがいる
選ばれた優秀な生存競争に勝った精子が
DNAを受け継ぐ特権を与えられる
動物の構造というのは
緻密に緻密を重ねても
説かれないほど
精緻である
人と人の出会いもまた
選ばれし人が
選ばれし人と会う
すれ違うだけでも凄い確率
同じ電車に乗っただけでも凄い確率
以前
インドを旅した時
あれはアグラという町で
現地のインド人と仲良くなって
アグラでの滞在期間はおよそ
一週間ほどだったと思うのだけれど
友達になったインド人の彼は
私たちが鉄道の駅から他所に向かう時
見送りに一緒に来てくれた
互いにまともな日本語も英語もヒンディー語も話せず
アイコンタクトと身振りで
互いが親和であることは伝えられた関係だった
その彼とわたしは
電車に乗り込む前
同時にこれが最後
二度と会うことがない
一期一会だと
胸の真ん中にある分け御魂が共振して
抱擁した
涙が出ていたかもしれないし
そうでないかもしれない
ただ抱擁する瞬間
これが今生の別れ
刹那である
という確信は満ちて
互いが同時に腕を
まわした
その記憶を
四十年近く経っても
覚えているのは
それが極めて
刹那だったからだろう
人はある時
誰かに出会う
または
本当に駄目になった時
誰かが現れるという
誰も現れないのは
本当に駄目になっていないということだと
最近は思う
長くいきれば年齢に比例して
出会う数は増えるはずなのに
出会ったとしても
軽んじてしまうのがよの常
作者は出会いこそ
暮らし
と書く
その通りだと思う
どんな出会いであっても
どちらかがどちらかに何かを与え
または互いに与え
その役割が終われば
いかんせん
別れが来る
別れは実は良いことだ
次の出会いがすぐそこで
待っている
人は人に出会って
成長してゆく
それは文学だけの話では当然ない
あらゆる可能性を人は秘めていて
それを引き出してくれたり
己が相手から引き出してみたり
様々です
神のみぞ知るという言葉が
未だに好きになれない
神とはそのような便利なものでは決してない
全知全能でもない
大事は
胸の真ん中にある
分け御魂と呼ばれる
自身の神と
他者の分け御魂である神と
天地の神との
密接な言葉なき会話であり
時に言葉ある会話にほかならない
人を痛めるということは
自身を痛めることに
まだほとんどの人が気づいていない
それに気づくのも
やはり作者のいう
出会う人そのものによって
得る特別な恩寵であるというのに
人は挨拶さえ交わさない
「今日は良い天気ですね」
天気の話こそ
人類のみではなく
万物の共通の話題に他ならない
ここでわたしが
110号という
じゅん文学最終号のため
一人一人の作品を読み
感想を記す
こうでもしないと
賜ってきた数多の恩寵に
応える術がない
それは作者とまったくもって
同感の極みなのです
いい思いのエッセイ
読ませていただき
ありがとうございました