栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

安楽死・尊厳死について考える。(2)

2014-12-04 11:13:12 | 視点
総論賛成、だが現実的になると

 では、尊厳死の場合はどうか。
これには異論がなさそうに思えるが、ことはそう単純でもない。
「機械に繋がれて生かされたくはない」「延命処置は望まない」
こう言う人は多い。ただし、それは本人が元気な時に、だ。
いざ、その時になると分からない。
人は状況によって変わる。また仮に本人がそう望んだとしても、家族がそれを決断できるかどうかもある。

 卑近な例だが、今夏、叔母が94歳の誕生日を目前にして亡くなった。
すでに1、2年前から寝たきりで、子供達が見舞いに訪れても誰か判断できないような状態だったらしいし、年齢を考えれば天寿の全うである。
誰もがこれ以上の延命処置は望んでいなかったはずだが、いざその瞬間になると子供達の間で意見が分かれた。
病室に駆け付け立ち会った2人は人工呼吸器のスイッチを切ることに同意したが、離れていて、駆け付けられなかった1人は再生処置を施すようにと強固に要求したのだった。

 家族間で意見が分かれると病院側も困るだろう。
では、多数決で、というわけにはいかない。
病院側は家族の同意なくしては装置を外せない。
もし、同意を得ずに外すと、それは安楽死させたことになる。

 それでも家族がいる病人はまだ結論が出せるからいいが、身寄りのない病人が増えていることがいま問題になっている。
意思表示できるうちになんらかの形で意思を明らかにしてもらっていればいいが、病院に搬送された時はすでに意識がないケースが増えているとのこと。
そして今後こうしたケースはますます増えていくことが予想される。
これはとても他人事ではない。明日は我が身かもしれない。

 ところで叔母の場合はどうなったかと言えば、反対していた1人も程なく了解した。
連絡を受けた時は母親への愛情が強かったが故に、感情的に納得できなかったのだろうが、少し時間がたって落ち着いたのだろう。
因みに彼の職業は医師である。いままで同じような場に直面してきたはずである。それでもいざ自分の身に降るかかってくると冷静ではいられなかったということだ。

 このように総論賛成、現実的に自分の身に降りかかると反対ということはよくある。
私も父の死に際して、医師から「脳死」「機械呼吸」「自発呼吸はしてない」というような言葉を聞かされ、装置を外すかどうかを暗に求められた時に、「スイッチを切ってくれ」と母に代わって言ったが、本当にそれでよかったのかどうか、万が一ということはなかったのかと、その後自問し続けた。
 装置を外した後、父の心臓は10分余りも動いていたし、手も足も温かいままだった。
そのことがたまらなかった。
切ったスイッチをもう一度入れて欲しかった。
そうすれば蘇生するのではないか、蘇生したのではないかと思いと、父の生命を奪ったのは私だったのでは、という二重の思いに苛まれた。