声の仕事とスローライフ

ただ今、仕事と趣味との半スローライフ実践中。遠方の知人友人への近況報告と、忘れっぽい自分のためのWeb忘備録です。

ハンサムウーマン

2013-01-09 21:02:49 | 自衛官時代の想い出
配属後のWAC管理隊の規則は
朝霞の教育隊と違って緩くなります。

例えば、現在は恐らく減っているでしょうが、
30年前当時のWACの陸曹クラスには喫煙者もいたため、管理隊内には、
二階に専用の広い喫煙室がありました。

テレビが置かれているのは、
その喫煙室と一階にある和室のみ、
あとは教養室にビデオ付きのテレビと
3台のTVを皆で見るのですが、

見たい番組が、どこでやっているかによって部屋を移動するのが常で、

特に21時以降のトレンディドラマは
喫煙室の常連達が好んで観る傾向がありました。

職場でのストレスを発散させていたのでしょう、そこはいつも煙缶( 灰皿)を
囲んで談話する賑やかな陸曹たちの本音が聞ける場所でもあり、

職場では一切、喫煙は禁止ですので、
ここが唯一、営内で喫煙できる憩いの場となるわけです。

この喫煙室の常連には男子自衛官よりも仕事のできるツワモノがいて、

彼女達は、タカラヅカの男役のような雰囲気さえ漂わせていて、
まさに、今流行りのハンサムウーマン
で、新隊員達の憧れの的でした。

WAC宿舎の長は管理隊長ですが、
当時、管理隊長は営外居住でしたので、

実質は営内陸曹の彼女達がWAC隊
を仕切っていたと言っても過言ではな
いでしょう。


その中の1人、
N三曹は人柄も姿もユニークな人でした。

大柄ながっちりした体格、
少しクセ毛の黒々としたショートカットの髪、
逞しい体格のわりに、愛らしい丸顔で、

大きな眼をカッと見開いて真っ直ぐ相手の顔をみながら話す、

その時の表情が怒った時のオバケの
Q太郎ソックリで、

声はややハスキーで大きくて、どこにいても目立つ、飛び抜けた存在感…

…そんな人でした。

N三曹と言えば、こんな事がありました。

管理隊の浴場は、
通信隊など夜勤明けのWACのために正午過ぎから入れるようになっていたのですが、

入口にある木製の簡単な棚に脱衣を置き、次の硝子戸をあけると、
タイル張りの広い洗い場に続いて
20人はゆったり入れそうな浴槽があります。

銭湯のように広い浴場での
昼間っからの入浴は楽しみの一つでも
あり、
浴槽の縁に座って雑談するのも
WACのリラックスタイムなのです。

ある日の午後、巡回演奏旅行が終わり、朝帰ってきた私は、
そのまま仲間たち4人と一緒に入浴していました。

浴槽の縁に座って、ペチャクチャ雑談をしていると、いきなり
ガラッと硝子戸をあけて誰かが入ってきました。

「オッす!」

とハスキーな聞き覚えのある声が浴室に響き渡ったと同時に、

肩にタオルをかけ外股で歩きながら前も隠さず堂々と入ってくる人がいたのです。(^^;;

その堂々たる態度に思わずこっちが目を伏せてしまいましたが、

それが、あのN三曹でした。

私はその時思ったものです。

羞恥心とは麻痺するものなのだと・・。(~_~;)




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軍歌うたい

2013-01-08 19:28:55 | 自衛官時代の想い出
自衛隊音楽隊のレパートリーで外せないのが、軍歌と懐メロです。

音楽隊に在籍していた二年の間で

「暁に祈る」「麦と兵隊」「ラバウル小唄」等々をはじめとするポピュラーな
軍歌のほとんどを歌いました。

「海ゆかば」を歌うと必ず、どこからか、すすり泣きが聞こえてきたものです。

戦争の辛い思い出を呼び起こしているようで歌っていて気が引けますが、

それでも高齢者に一番喜ばれるのが
軍歌や懐メロでした。


「討匪行」」「歩兵の本領」などでもそうですが、軍歌には同じメロディーで延々と続く歌が多く、
「討匪行」などは15番まであります。
全編演奏する事は滅多にありませんが、それでも覚えるのが大変です。

歌詞はアタマの中で映像化して覚える
のだとO三曹からアドバイスを受け、
必死で覚えたものです。

軍歌のレパートリーは二年間で相当増え、
私の役目はすっかり「軍歌の歌い手」として定着しました。

ポピュラーな軍歌以外にも、陸将などを退官した偉い方からの要望で、
士官学校OBの式典で歌うこともありましたが、

そこでよく歌ったのが

「嗚呼神風特別攻撃隊」

という曲です。

この歌を生で演奏するのは
恐らく自衛隊音楽隊だけでしょう。

この曲に関しては、歌える隊員がいないのことで、

自衛隊を辞めた後も、
旧陸軍士官学校の卒業生の式典が開かれる長崎まで行き、
陸上自衛隊西方音楽の演奏をバックに歌った事もあります。

国のために命を捧げた若者たちを悼む悲しい歌ですが、

今、私たちが平和に暮らせる事を
彼ら特攻隊員に感謝し、
姿勢を正して唄う究極の軍歌です。


http://m.youtube.com/#/watch?v=tWhPl6RPeHc&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DtWhPl6RPeHc&gl=JP



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かごめかごめ

2013-01-07 17:25:42 | 自衛官時代の想い出
中部方面音楽隊は管轄が広く、
四国や九州の一部までもが含まれます。
そこへ年中、演奏旅行だの、慰問演奏だので出かけるのが仕事なのです。

月の半分が演奏旅行で隊を不在にする場合もあり、生活は極めて不規則です。

移動は専用の大型バスですが、
このバスで音楽祭りが武道館で行われる場合は阪神高速~東名高速と隊員全員で長旅をするのです。

もちろん隊長以下の幹部たちは別の黒塗りの車です。
明らかな差は、幹部の乗る車にはクーラーがついていますが、
私たち隊員の乗る30年前の音楽隊専用バスには、リクライニングもなければ
クーラーもないという劣悪の環境でした。

ある時、WACの私を含む5名だけが別の黒塗りの車で移動したことがありましたが、
その際にはバスの中の男子隊員から野次とブーイングが起こりました。

彼らにとっては、女だから、という特別扱いは許せないのです。

巡回演奏では、屋外でのコンサートも多くありましたが、
そういう時に困るのが着替える場所です。

男子隊員はバスの中で平気で演奏服に着替えますが、
WACは、予め着替えて行くか、着替える場所を作る必要があります。

そこでO三曹が提案してくれたのが、

カゴメカゴメです。(^^;;

WAC4人で1人を囲んでいる間に素早く着替えるという方法です。

もちろん、一般の目があるところでは
できませんが、

人が通らない場所を見つけて着替えた事も何度かあったように記憶しています。

もたついていた私に比べると、
さすがにO三曹は十数秒で着替え完了。

その早業は、見事なものでしたね。


コメント (2)
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マイペースな先輩

2013-01-06 21:47:34 | 自衛官時代の想い出
伊丹駐屯地で暮らした頃の
婦人自衛官管理隊( 通称WAC管理隊)はこじんまりとした鉄筋二階建ての建物でした。

男子禁制で、一般では寮長に当たる管理隊長も女性幹部が務めます。

居室は、それぞれの班で構成され
5人~6人で生活しましたが、

ここも階級で分けられており、
三等陸曹以上は別の部屋で寝泊まりす
ることになっていました。


私が管理隊で生活を始めた当時は、
居室も職場ごとではなく、バラバラで構成されていました。

夕食は隊内に一カ所だけある隊員食堂で取ることになっていて
教育隊と違って強制ではなく、それぞれ自由に食べても良いことになっていました。

食堂のメニューを見て、苦手なものが出る日には、
比較的自由に外出ができる先輩達の中には、業務後に外出して外食して来る人もいて、
私たち新隊員は羨ましかったものです。

そんな時は決まって、お土産の差し入れがあり、
居室の中央にあるテーブルの上には
ミスドやマクドが並ぶ日が多く、
オヤツにはいつも恵まれていました。


当初、私の居室は通信隊の隊員が2名、会計隊が2名、そして音楽隊の私と、
もう1名は業務隊の隊員の6人部屋でしたが、

気前の良い先輩と同室になると
ラッキーですが、そうでない場合もあります。

ある時、同期のD二士がやってきて


「音楽隊のM士長ったら、めちゃ、
がめついねん。」

と愚痴をこぼしました。

WAC管理隊では朝食は、当番制で隊員が食糧班まで取りに行くのですが、

日曜日の朝はパンと牛乳、果物、ヨーグルト、食パンにジャムやバターと
いう学校給食のようなメニューが一般的です。

どうやらM士長は、そのジャムやバターをこっそり集めて自分の名前を書いた袋
に入れて冷蔵庫に保管しておくらしいのです。

うっかり目を離した隙に、ジャムやバターが無くなってしまうのだとD二士は嘆いていました。


M士長は音楽隊のWACの中では珍しいほどマイペースな人で、

私を含め他の4人が、
「一緒にお茶しませんか?」
と訊いても
「私は結構です」
とつれない返事をすることが多い人でした。

きっと一人でいることが好きなのでしょう、友達もいないようでした。

そんな人と居室が一緒になると確かに気を遣いますよね。

D二士も困り果てて、同期の私に相談に来たようでした。

がめついというのは初耳でしたが、
そういえば・・という節もなくは
なかったのです。

音楽隊では、訪問者から差し入れがあることが多いのですが、なぜか
箱入り菓子類は「一列目がない」状態で事務室に入ってくることがありました。

年長のO三曹が、

「あ~ら、M士長のところを通過したと見えて、1列目がごっそりなくなっているわねぇ・・。」

と苦笑いすることも多かったのです。


M士長は、私が音楽隊に配属になった
翌年に退職して四国の実家に帰ったと聞いているので1年だけの付き合いでしたが、
郷里で結婚したと聞いています。

何があってもマイペースを貫く強靭な精神の持ち主だった彼女は、
きっと、しっかり者の主婦になっているはずです。







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ミスコンも広報活動

2013-01-05 16:17:05 | 自衛官時代の想い出
自衛官数の多い伊丹駐屯地には、
献血車や市のイベントなどでの協力要請が多くきます。

伊丹市の夏祭りの「ミスコン」も
その一つでした。

各隊から数名ずつWACを出場させてもらえないか、と音楽隊にも文書で依頼があったらしく

音楽隊WACからは私と、もうひとり
Y士長が出ることになりました。

他の部隊からの参加者も合わせると
WACは最終的に5~6人も参加することになったのです。

出場者の三分の一が自衛官という
珍しいコンテストは、

いかに出場者が集まらないか、ということの現れですが、

「ミスコン」出場も自衛隊広報活動の一環である、というのが駐屯地の大義名分でした。

「命令であっても水着審査があるのはイヤです。」

という私に、
専任と呼ばれていたT准尉が笑いながら

「いやぁ・・ユミちゃんのペチャパイみても誰も喜ばんよ。水着じゃなくて浴衣で出るんだとよ。ほいっ。」

T准尉が見せてくれた参加依頼文書には、ご丁寧に方面総監部の印まで押され、このコンテストが
「自衛官としての品位を損なうことなく行われるように」
などという但し書きまで添えられていました。

伊丹夏祭りのイベント
「ミス伊丹市民祭りコンテスト」は
ABC朝日放送の名物アナウンサー
道上洋三氏の司会で行われました。

審査委員から3~4つ、ありきたりの質問を浴びせられ、

「音楽隊で何をやっているんですか?」

と訊かれると

「歌をうたってます」

「じゃぁ、一曲ここで歌ってみて。」

道上アナに言われるままに私は、
音楽隊でいつも唄っている

『サン・トワ・マミー』を歌いました。

それが、どうやら会場を盛り上げたらしく、準ミスに選ばれ
翌日の新聞に載る事になりました。

自衛官としての品位を損ねたかどうかは??ですが、
道上アナとの掛け合いが楽しく、ペラペラ喋った記憶があります。


賞品は沖縄往復航空券と有名ブランド化粧品のセット、そして鎌倉彫の姿見
という品々でした。

せっかく貰った沖縄への往復航空券は本人以外に使用できない条件付きのため、
仕事の関係で使うタイミングを逃し
そのままゴミ箱行きになってしまいました。(~_~;)

30年以上経った今も、
私は未だに沖縄旅行を果たせないでいますが、
これは、この時に粗末に扱った航空券の祟りではないかと思っています。






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スポーツに学ぶ

2013-01-04 10:55:59 | 自衛官時代の想い出
元日の実業団駅伝に続き、
昨日の箱根駅伝も見どころ満載でしたね。

早稲田の田口くんと帝京の熊崎くんのゴール直前のデッドヒート、

繰り上げスタートまで30秒、タイムリミット直前で必死にタスキを渡そうと走った上武大の平迫くん、

脱水症状で順位を落としフラつきながらも、何とかアンカーにタスキを渡そうと走り続けた明大の松井くん、

こういう時に私がいつも考えるのは

( この瞬間から、私が代わって走ってあげたい )

…です。

勝者も敗者も泣いていましたが
私も、つい貰い泣き…。(。-_-。)

印象に残ったのは
30年ぶりに総合優勝した日体大の別府監督の優勝インタビューの時の言葉です。

「自分は昔、痙攣でタスキを繋げる事が出来なかった、その悔しさが忘れられなかった…。」

挫折感を味わった選手時代の経験があったからこそ、
チームを優勝に導くことができる有能な監督になれるのだろう…、
そう思いながら監督の言葉を聞きました。

スポーツは様々な教訓を与えてくれますね。

私は子供の頃、小児喘息で小学4年生まで体育の授業は見学していたので
スポーツは苦手ですが、
少しでもいいから、何かスポーツをやれば良かったと思う事は過去に多々ありました。

特に自衛官時代は、体力の限界を何度も感じました。

朝霞の体育学校のグランドでは、
毎日オリンピックを目指す体育学校の隊員たちが精進している姿をみることができますが、

このグランドでは、婦人自衛官教育隊の体力試験も行われます。

昨年8月29日のblog
「出世の条件」にも書きましたが、

婦人自衛官教育隊でも期間中にここで体力試験が行われますが、
暑い最中の持久走は地獄でした。

炎天下、グランドを何度も周回するのです。

フラフラしながら

( もうダメだ、もう限界…もうムリ…)

と思いながら走っていると後ろから

「おい、頑張れ!頑張れ!もうちょっとだぞ。」

と声掛けをしてくれたのが東京オリンピック重量挙げの三宅さん(三宅宏美さんの父上)、当時は三等陸佐でした。

意識朦朧とした状態で・・

( どこかで見たことがあるなぁ…)

「あっ!」

と気付いて、停まりそうになった私を彼は笑いながら追い抜いて行きました。

励ましの言葉が、嬉しかった想い出です。

自衛官時代、私は体力不足で何度も
挫折しましたが、

それでも、あの頃身に付いた筋力が
今も随分役立っています。

但し、筋肉は使わないと一年に1mmずつ無くなって行くそうです。
これから、如何に筋力を維持して行くかが課題ですね。



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第二の人生

2013-01-03 17:26:24 | 自衛官時代の想い出
今回は退職後の再就職について、お話しします。

私の周りには同期を含めて、
男女ともに中途で退職して再就職した人の方が多く、
割合では、定年退職まで勤めた人の方が少ないのですが、

かつて所属していた音楽隊で世話になった上官から、この時期になると
年賀状で近況を知らせて来ます。

それをみると
再就職先は、一般職の隊員同様に様々です。

音楽隊員の場合、出世コースからは、やや外れているので ( 汗 )、

昔で言えば下士官に当たる陸曹クラスや准尉で定年を迎える人がほとんどで
定年時の年齢は53~55歳が一般的、

その中で、
警備会社への再就職は人気職種です。
クラリネットを吹いていたK一曹の
再就職先も大手警備会社でした。

現在、私が関わっているラジオ局に来ているガードマンさんも自衛官OBです。
見た目もガッチリしていて逞しい人ほど警備会社では重宝されるようです。

音楽隊バスを運転していたホルンのHさんは、大型特殊免許を持っていたのが
再就職の時、有利だったようで
スクールバスの運転手として再就職。

Hさんのように自衛官時代に取得した
資格が役立つ場合もあるようですが、

この資格も業務に本当に必要と認められた場合のみ取得が可能で、
全ての退職自衛官が資格を持っているわけではありません。


特に女性自衛官の場合は男性に比べて
定年後の再就職は厳しいようで、
既婚の場合は、定年を期に家庭に入る
WACも多いのが現状です。


教育隊時代の教官の中には、尉官で
定年退職した後、一般企業のコールセ
ンターに就職した人もいましたが、
聞くところによれば、
正社員ではなく、派遣社員としてだったようです。

幹部自衛官だったからと言って
優遇される訳ではないのが、民間企業への再就職です。

私が以前、講師として関わった企業の役員からも

「君が幹部自衛官のOBだったら、
絶対に仕事を依頼しなかったよ、幹部じゃぁ、末端の者の気持ちがわからないからね」

と言われた事がありますが、

この言葉は、幹部自衛官の再就職が如何に難しいかを物語っています。

( 注: ここでは陸将、陸将補などの将官クラスは除外しています)

自衛隊には就職援護センターという、退職者の再就職を斡旋してくれる専門
機関があります。

定年退職者の再就職率が、ほぼ100%なのも、援護センターの尽力によるもの
でしょうが、
今の時代ですから、正社員として良い
条件で就職できるケースばかりでは
ありません。

せっかく援護センターの斡旋で再就職できても、
「こんなハズではなかった」と、

続けられずに辞めてしまうOBがいるのは、本当に残念です。

これから退職を控えている現職自衛官
の皆さんには、在職中から民間企業の
現状をしっかり把握しておくことをお勧めします。

また、これは私個人の意見ですが

震災時に多くの自衛官達が、被災者を
背負ったり、救助している姿をみました。

その姿を見ながら、
力持ちの自衛官OBは男女ともに、
介護の分野で活躍できる「人財」に
なれる人が多いのではないかと、考えています。

退職後に資格を取っても、間に合いますし、現職のうちから時間をみて勉強するのもいいでしょう。

介護士をしている実妹から、介護施設では若手の離職率が高く、なかなか続けて貰えないと聞いて、
思いついた事です。

介護現場では、元自衛官のパワーが活かせます。
退職後の選択肢に是非、加えて貰いたいと思っています。



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班長の転身

2013-01-02 10:48:30 | 自衛官時代の想い出
陸上自衛隊では新隊員で入隊して2年目に一任期、4年が二任期という区切りが来ます。

これは、辞めて一般社会に出るか、
それとも、そのまま隊に残るかを
選ぶ制度です。

自分で選択する自由を与えられていることが、次のステップを目指すきっかけになるのだと思っています。

辞めた後の人生も様々です。

私の同期にも警察官や消防署、役所などに再就職した仲間もいて、皆、自衛官の経験をフルに活用し、
防犯や防災の仕事等、それぞれのステージで思う存分、活躍している様子です。

もちろん、結婚して実業家の妻になっている人もいます、
5年前の同期会で、群馬県内にも数人の元WACがいることが判明しましたが、

そのうち二人は伊香保に嫁いで、ご主人の運送会社の社員として一緒に仕事をしていたり、
また、和服姿で出席した元班長のTさんは、若女将として、ご主人の実家の旅館を切り盛りしている
とのことでしたが、

しっかり者の女房になる人が多いのも元WACの特徴です。
(但し私のような例外もいます…)

そういう私も、仲間うちでは、
かなり変わった退職後の人生を送っている部類に入るようですが、

もっと驚いたのは、班長だったK三曹の
転身です。


私が一番会いたいと思っていたWAC教育隊の教官でもあったK三曹は、
現在シンガポール在住とのこと、

彼女には、本当に驚きました!

朝霞の教官時代、

「私は結婚しないの」

と言っていた彼女が国際結婚をしていたのです。
しかもシンガポール人の実業家と…。


ご主人はシンガポール人の元軍人で
噂によれば、二人は幹部学校で知り合ったのだとか…。

あんなに何でもできて、自衛官の模範のような人が、
幹部になるために猛勉強をし幹部を目指していたK三曹が、
そんなにアッサリとキャリアを捨てるなんて…。

同期達のウワサでは
幹部学校で知り合ったご主人は
K三曹が惚れ込む程の超イケメンなのだそうで、
その彼から求婚され、あっさり幹部の夢を捨てて、退職したとか…。(^^;;


今ではシンガポールのレストランチェーンを経営するオーナーの妻として店を切り盛りしている、
とのことでした。

同期会に際し、
参加できなかった詫び状とともに
秋田出身で色白の彼女が、真黒に日焼けした元気そうな写真に添えて、

『シンガポールに来た時には是非,是非、寄ってください!』

とメッセージを寄せていましたが

それを食い入るように見ながら


あの教育隊での悩み多き日々を思い出しました。

組織では班長と新隊員の立場もあり
個人的な事は滅多に話す機会がなかった当時、
班長の居室に呼んでくれた時の


「年下からオマエよばわりは辛いで
しょ?
幹部候補生試験を受けてみたら?
余計なお世話かもしれないけれど
その方があなたにとってもいいんじゃないかしら。区隊長に、相談してごらんなさいよ」

との、彼女の思いやりのある言葉に、私はどれほど救われたでしょう。

本当に会いたい…。

そして、きいてみたいのです。

幹部自衛官の夢を捨てられた本当の理由を…。

シンガポールという見ず知らずの異国に嫁いだ彼女の勇気にも、
アッパレとしか言いようがありません
が、本当に同期達のウワサ通りなら

運命の出会いだった、
それほど素晴らしい旦那様にも、
ぜひぜひ、会ってみたいものです。




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自衛官の結婚

2013-01-01 17:15:15 | 自衛官時代の想い出
年が明けましたが、喪中の我が家では大声で
「おめでとうございます」と言えないのが、例年との違いでしょうか…。(^_^;)

とはいえ、元日の楽しみでもある実業団駅伝観戦では、1時間以上も前から
沿道に並び、
6区を走る注目の柏原選手を間近に見ながら、誰よりも大きな声援を送って帰ってきたところです。

遅ればせながら、いつも
こんな拙いblogを読んでくださっている皆様、ありがとうございます。

今年もよろしくお願いします。



さて、伊丹駐屯地での生活については
12月10日までの、blogに書きましたが

書き記すという作業は記憶の風化と脳の老化を防ぐための作業であることには違いないようです。

その作業中に気づいた事があります。

当時はあれ程「しんどい」と
思っていたのに今は何故か、辛いことよりも、
「あの頃は楽しかったなぁ…」
と思う事の方が圧倒的に多いのです。

特に団体生活は、確かに鬱陶しい
と思う事もありましたが、淋しいと思うことは一度もなく、
とにかく賑やかで、楽しいものでした。
一生の友も、できました。


ユリちゃんは同期ですが、同じ居室で
暮らすようになったのは伊丹駐屯地か
らです。

通信隊勤務の彼女は、山口県出身で
その隣の島根県益田市出身の私とは
方言に共通点が多く、すぐに意気投合しました。

小柄で少しウェーブのかかったショートの髪に、小さめの可愛い口元、
そして大きくてクルクルよく動く目、

白眼が少なく瞳が大きくていつも潤んでいるような眼が魅力的な少女でした。

彼女は現在、「防衛技官」として中部方面総監部に勤務しています。

彼女が普通科連隊に務めるAさんと結婚
したのは私が自衛官を辞めた後でしたが、
しばらくは共稼ぎをしていたように
記憶しています。

この自衛官同志の結婚というのは、
大変な覚悟が必要な事なのです。

同期にも何人か自衛官夫婦がいますが
夫が沖縄で妻が北海道、という別居婚も珍しくはありません。
何かと家庭を犠牲にせざるを得ない事情も出てくるのです。


ユリちゃんが自衛官を辞めて、現地採用で転勤のない技官になったのも、
家庭との両立を考えた事からではないかと思います。

結婚して30年になる彼女には一女一男
があり、
娘さんは看護師、息子さんは自衛官で東日本大震災でも
災害出動任務に携わったそうです。

震災直後は、群馬県の被害状況を気にして何度もメールをくれましたが、
阪神大震災を経験しているだけに、
心配で仕方がなかったのでしょう。

普通科連隊の自衛官だったご主人は
私より1、2歳年下だったかと思いますが、今は定年退職して、
第二の人生を歩まれていると昨年の年賀状で知りました。


結婚して自衛官を辞めた後、
通信隊でそのまま技官として残ったのは、215名のうち彼女くらいでしょうか…。

地に足をしっかりつけて、着実に仕事と家庭を両立させているようです。

彼女の勤務先では、通信隊を対象に行
われる電話応対コンクールがあると聞いた事がありますが
そこでも、常に上位に入る程の実力の持ち主です。

伊丹駐屯地に電話すると、彼女の声は
すぐにわかります。
落ち着いた柔らかい美声で、安心感を与えてくれる対応です。

自衛官を辞めたあとの人生は様々ですが、
次回は退職後の人生についてお話ししますね。





コメント (2)
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前代未聞の珍事

2013-01-01 00:00:00 | 自衛官時代の想い出
陸上自衛隊では、女性隊員を
通称WAC(ワック)と呼びます。
英語でwoman army corpという、婦人自衛官の略です。

陸上自衛隊朝霞駐屯地は
練馬区大泉学園にありますが
隣の埼玉県和光市にもまたがる広大な敷地を持っています。

ここには、オリンピック選手を輩出している自衛隊体育学校や
マーチのCDを何枚も出している陸上自衛隊中央音楽隊、

それにエリザベス女王などVIPの
来日時に栄誉礼で迎える重要な役割を
担う儀状隊、302保安中隊など
有名な部隊もあります。

日本一大きな駐屯地です。

婦人自衛官教育隊は、
それら精鋭部隊の所属する駐屯地の
一番奥に位置していて、

WAC24期の私が入隊した当時は、
木造2階建ての建物は戦時中、
兵舎として使われていたという古い
建物でした。


緑で囲まれた敷地の境界線には
有刺鉄線の柵が張り巡らされ、

その向こうには今は使われていない
元米軍の基地だった広大な敷地と建物が見えます。

車の音も聞こえないほど静かで、
木々には鳩が巣を作り、
一日中クックルクックルと鳴いている
のどかな場所でもあります。

私は今でも鳩の鳴き声を聞くと朝霞駐屯地の夏を思い出しますが、

夏の訓練は、過酷でした。

教育隊に入って1ヶ月が経った頃だったでしょうか、
その日は、とにかく暑くて
水をガブガブ飲んでも、とめどなく汗が出てきます。

誰かが、
「ねえ、シャワー浴びたいね。」と言い出しました。

ねえ、と声をかけられ、

「ほんと!もう限界だよね、」

と意気投合。

同じ区隊の仲間、15~6人でシャワーを浴びて帰ってくると、
班長が顔をこわばらせて立っています。
「お前らっ!
いったい何をしてきたっ!!」

直ちに、その事実が区隊長に報告され
私は仲間たちと一緒に、呼ばれました。

「どいつもこいつも、ここを何だと思ってるっ?!
しかも、成績優秀なものばかりがなんという、不謹慎な事をするんだ。
えっ?お前達は自分のやったことが、
わかっているのか?!」

「ここが戦闘地だったらどうだ?
戦闘中に、シャワーを浴びる馬鹿が
どこにいるっ!!前代未聞だぞ!」

血走った区隊長の目は、一番の年長者である私に注がれていました。

ほとんどが18歳の同期たちの中で
22歳の私は、お姉さん的な存在
だったのです。

私が率先してやったのだろう・・・
と思われたのでした。

率先したわけではないけれど、
やはり年長者の責任は重いという
ことで

その事件以降、
私は区隊長から完全にマークされるようになったのでした。(~_~;)




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