声の仕事とスローライフ

ただ今、仕事と趣味との半スローライフ実践中。遠方の知人友人への近況報告と、忘れっぽい自分のためのWeb忘備録です。

貯金できます

2012-12-31 09:15:36 | 自衛官時代の想い出
伊丹駐屯地に中にある中部方面音楽隊
で自衛官としての私の新たな生活が始まったのが昭和53年7月の事でした。


当時の初任給は11万程度だったかと記憶しています。

高卒の初級公務員の給与とほぼ同じだと思いますが、
それでも充分だと思うほどお金が貯まりました。

 なぜなら使う時間がないのです。

中部方面音楽隊は管轄が広く、
四国や九州の一部までもが含まれます。

そこへ年中、演奏旅行だの、慰問演奏だので出かけるのが仕事で、
月の半分が演奏旅行で隊を不在にする場合もありました。

営内生活の一般隊員( 主に独身者 )は、
衣食住に関しては、国からの支給品
である制服、食事、宿舎が用意されるので、

外出や無駄遣いをしなければ
かなりの額が貯金できるはずです。
ボーナスをそのまま貯金すれば
一年で100万位は貯められるのです。

偉くなって営外で部屋を借りて暮らせば、制服も自己負担ですし、
当然、食事代もかかりますので

貯金ができるのは、営内生活をする
一般隊員の特典でしょう。

そんな訳で、
お金は自然に貯まりました。



そういえば、
配属されて二年目の夏のボーナスの
支給日に関西TVが取材に来てくれた
事がありました。



「ボーナスは何に使いますか?」

と男性インタビュアーから訊かれ、

どうせボツになるんだろうと思って、適当に答えたところ

夕方のニュースで、
そのままON AIR されました。(~_~;)


「田舎の両親にプレゼントします」

とでも、
優等生っぽく答えれば良かったのですが…。

TVに映った私は、
自衛官らしくない、にやけた顔で

「 結婚資金のために貯金します!」

と答えていました。(~_~;)


この頃から、マスメディアに対して
取り分け、
サービス精神が強かったようです。




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ドナドナ♪

2012-12-30 09:19:04 | 自衛官時代の想い出

配属先の伊丹駐屯地に着いた日のことも忘れられません。

新幹線を新大阪で降り、
同じ駐屯地に配属が決った仲間と迎えの車を待っていると…

マイクロバスが来るかと思いきや、

やってきたのは例のモスグリーンの幌をかぶった
トラックでした。(ー ー;)

このトラックの荷台に私達同期の仲間
7~8人が荷物のように積みこまれるの
です。

それは、まるで
(ドナドナド~ナ♪)と
口ずさみたくなるような光景です。

7月の暑さの中、クーラーのない幌つきトラックの荷台は
30℃以上の暑さですが、
自衛官なるもの何をかいわんやです。

目的の伊丹駐屯地に着くと、
到着式が行われ、それぞれの配属先の長へ挨拶に行きますが、

移動の日だって勤務日ですので、
そのまま配属先部隊に入ります。

半日の移動を経て配属先の中部方面音
楽隊へ到着すると4名の先輩、婦人自
衛官たちが迎えてくれました。

「◯◯二士、只今、到着しました!」

と敬礼をすると、4名の中で一番年長者のW3曹が、

「お疲れ様でした」と声をかけてくれました。


 前回、ここへきた時に会ったほっそり美人のS士長が、

こっそりと「別人かと思ったわ!」と笑いながら耳打ちしましたが、

真っ黒に日焼けして、がっちりと筋肉のついた私の姿を見て、
あのか細い女子大生の姿を思い起こすことは困難だったようです。

音楽隊の事務室に行き、
隊の中でも古顔の一等陸曹達と専任幹
部に挨拶をすると

優しい顔のH准尉が笑顔で近づいてき
て、

「朝霞は大変だっただろう、ご苦労さんだったな。」

と言ったとたん、

またハラハラと私の頬を涙が伝ったのでした。



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涙の修了式

2012-12-29 11:02:57 | 自衛官時代の想い出
朝霧駐屯地での前期後期3ヶ月に
及ぶ教育訓練が終わると、7月には

いよいよ、全国の部隊への配属が決まります。

当時は、募集した自衛隊地方連絡部
( 現、自衛隊地方協力本部 )のある地元
に帰るというのが一般的でしたので

最初から音楽隊を希望した私以外の
ほとんどの隊員が郷里に近い駐屯地に配属になりました。

その直前に教育隊では修了式が行われ
ます。

お決まりのパターンですが、皆、この時とばかり、堰を切ったように大泣きをします。

教官達と向かい合っていると
いろいろなモノがこみあげてきて、
何を言おうとしても涙で声にならない
のです。

同じ釜の飯を食い、一緒に泣いて一緒
に笑った教官たちとも仲間とも、
もう二度と会えないかもしれない、

そう思うと、訓練の終わりの嬉しさよ
りも別れの辛さのほうが先立ち、
名残惜しさは尽きません。


でも、そんな新隊員たちを前にしている教官たちの表情は
薄い笑みを浮かべている程度で、ほとんど冷めています。

敬礼をして、感謝の気持ちを伝えるとき号泣するのは、なぜか新隊員たちだけなのです。(^^;;

新隊員はまるで、卒業式のような騒がしさなのに、
傍目から見れば、何とも不思議な光景に違いありません。(^.^)


いや、それよりもっと騒がしいのは、配属先へ向かう新幹線移動の道中です。


配給された真新しいベージュ色の夏
の制服を着て同じ色の制帽をかぶり、

東京駅に着くともうそこから
またまた涙涙の別れの瞬間が近づいて来ます。

ホームで抱き合う者、
言葉が出ずに泣いたまま手を繋いでいるだけの者・・・、

周囲の普通の人が見ればとても不思議な光景に見えるはずですが、

それを見た人達は、どう思ったでしょう。

「あぁ、やっぱり婦人自衛官も普通の
女性なんだなぁ」と思って貰えれば
嬉しいのですが…。

私の乗った下りの"ひかり″車内では、
一番遠いのが熊本の健軍に行く仲間
でした。

途中、静岡、名古屋で降りる仲間たちと
「また、会おうね!」と約束して別れ
ましたが、

「さようなら」は言いません。

この頃には、同じ「国防」というステージで働く仲間という意識がより強くなっているからです。

顔をクシャクシャにして手を降る仲間の顔は今でも忘れません。


215名の同期たちとの別れの日は

教育隊での貴重な時間を共有できた
事への感謝と、

厳しい訓練をやり遂げた満足感、

そして、これから行く配属先への期待感にとで、

生涯、忘れられない日になりました。




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筋肉乙女

2012-12-28 12:18:53 | 自衛官時代の想い出
朝霞駐屯地での教育期間中、
私の体重は8kg増えました。

大学時代は44kgだった体重が
3ヶ月であっと言う間に…です。

原因は食事のカロリー過多と
(一般成人女性が1800に対し3000以上)
訓練による筋肉の増加です。


ただ、通常のブクブク太るというのではなく、

いわゆる「かたぶとり」です。


入隊時の条件の中に
「バランスのとれた体格」
というのがあります。

昭和53年の入隊時、実をいうと、
私は胸囲で合格基準ギリギリでした。

157cmの私の身長では、胸囲が75cmないといけないのですが、
測定の結果は74cmでした。(~_~;)

視力と胸囲は、ゲタをはかせてもらっ
たと今でも思っています。

でも、その理由がわかりました。
入隊後は必ず体重も胸囲も増えることが見込めるからです。

特に一番、サイズが大きくなる場所、
著しく筋肉がつく場所がふくらはぎ
です。

毎日、訓練で走るため、何日かすると
両脚が「凝ったかな?」と感じるくらい硬くなり、

だるく重くなって行き、
それが日増しに痛みに変わって行き
ます。

そして時間の経過と共に、
あっ、と気がついた時には…

筋肉隆々とした、まるで
チカラコブがあるかのような
立派な立派な、ふくらはぎが
できているのです。(ー ー;)


当然、大学時代に履いていた
ブーツは、履けなくなりました。

胸囲と肩幅も大きくなり洋服も
7号サイズが9号サイズへと変化しました。

朝霞の教育期間を終えて伊丹駐屯地に
配属された時に、

大学4年時の9月に訪れて以来、
半年ぶりに私を見た音楽隊の先輩達
は、
「別人かと思った…。
あんなに細い人は、たぶん無理やろう、って皆で話したんやけど…」

と、驚いていましたが、
見た目の変化は、相当なものだった
ようです。

自衛隊に入るとほとんどの人が逞しく
なります。

痩せていた人は太り、太っていた人は
贅肉が筋肉に変わりますが、

美容を気にする女子には辛い日々でも
あります。

日焼けで美肌が損なわれるばかりか
訓練とダイエットとの両立はとても
難しいという事なのです。




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防大卒エリート

2012-12-27 10:56:20 | 自衛官時代の想い出

自衛隊幹部になるのに一番の
近道は、防衛大学校に入る事です。

それは昔も今も同じでしょう。

ただ、試験の難しさは最近のデータをみると、学部
によっては60倍以上という狭き門です。

今は、女子も入校可能ですが、
30年前は男子だけに許されていました。

さて話は、その30年前に遡ります。

朝霞で初めての外出をした時の同行者同期のT子のデートの相手は、
防大卒の幹部候補生でした。

T子と幹部候補生が
池袋の駅構内で待ち合わせをしていた
時の光景は、今でも忘れません。

だんだん近づいて来る一人の若者。

スッキリした切れ長の目、通った鼻筋
角刈りアタマに、ジーンズとTシャツ。
いかにも自衛官です、という雰囲気は
私服姿でも、わかります。
ただ一つ、身長を除いては…。

背の高いT子がヒールの靴を履くと170cm以上になりますが、
幹部候補生は、それより低く、とても小柄に見えました。

( 防大って、背が低くても入れるんだ)

そう思った事を覚えています。

因みに、余談ですが
背が低いと入れない部隊もあります。国賓級のVIPを迎える時の儀仗
を受け持つ、302保安中隊です。

身長は高さを揃えないと綺麗に見えないワケで、太っていてもけない…。
本当か嘘かわかりませんが
容姿も選抜条件だと聞いた事があります。

防大とは別の「容姿端麗」というハードルがあるのですね。

さて、防大卒の幹部候補生と付き合っていたT子から、4つ年上の私は
よく恋愛相談を受けました。

不思議な話ですが、
初デートの時にプロポーズされた
と言うのです。

考えみれば、私とT子の彼は同い年です。

22、23歳の若者が高校を卒業したばかりの18歳の少女に結婚を
申し込んだと聞いて
私はつい笑ってしまいました。

そして、幹部候補生の真面目そうな顔
を思い浮かべ、

( さも、ありなん…)

と思ったのです。

防大に入ると、4年間もの間、
幹部になるための教育を受けます。

一番、遊びたい時期に…規律に固められた抑制生活を送るのです。

防大の卒業式では、一斉に帽子投げ
が行われるのは有名な話ですが、
それと同様で
卒業したと同時に一気に弾けても無理はないでしょう。

「マジメなんだね、彼は…。」

という私に
T子は、言いました。

「お家が貧しくて弟さんの学費を
仕送りしなきゃならないんで、
学びながら、給料を貰える防大に入ったんだって…。」

当時、防大進学を志願する男子は家庭
の経済的事情がある者が多かったのです。

後期にT子とは別々の区隊になって
しまいましたが

確かT子は、教育隊終了後
群馬の地元12師団に配属になったはず
です。

その後、あの防大卒の彼とはどうなったんでしょうか。

来年はWAC24期の35年目の同期会です。

前回の同期会では、都合がつかず不参加だったT子ですが、
ぜひ、聞いてみたいものです。(^-^)




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野営雪隠

2012-12-26 09:16:05 | 自衛官時代の想い出

今回は一番ハードな訓練の話です。

行軍と野営は訓練の中でもメインイベントとあって、そのキツさはかなりのものです。

アーミーグリーンの網付のヘルメットをかぶり、水筒と缶メシ(缶詰の食糧)、寝袋など
それに64式小銃を携えてただひたすら歩く訓練が行軍ですが、

自分の背負っている荷物だけでも相当な重さの上に長時間あるくわけですから、辛いのなんのって…。

そして演習場についてからは、休む間もなく、すぐにテントを張ります。

二人一組になって、まず側溝を掘り、班長の説明を聞きながら組み立ててゆくのです。

二人で寝るのがようやくの狭いテントは、下がゴツゴツして寝袋を使っても寝苦しさ極まりなく、

しかも夏でも夜間はかなり気温が下がるので、寒さとの戦いです。

自衛隊演習場は草茫々とした荒れ地が多いのですが、野営演習を行う場所は
(富士もそうですが、)
地形的にも凸凹が多く、走ったり登ったりだけで体力を消耗します。

夜中の歩伏訓練では、泥の中を這いずり回り、戦場さながらの想定で様々な障害物を
越えなければならないのです。

その内容は自衛官なら誰でも経験したことのある試練でありハードルでもありますが、
何が一番辛かったかといえばトイレです。(ー ー;)

演習場に到着後すぐに寝るためのテントを張ると同時に、各班で自分たちのトイレを
作るのですが、

両足で跨げるだけの溝を掘り、
板を被せその上に目隠し用のテントを張っただけの簡単なものです。

これで準備は万端なのですが
これが、どうもいけないのです。

昔の田舎の浅いトイレを思いうかべると、その理由がわかるというものですが、
はね返りがあるようで怖いのです。
~_~;

しかも前任者の遺物が全部見えていて
そこへ自分の新たな遺物を重ねていくわけですので、
( お食事中の方、ごめんなさい。)


一週間も使っていると結構、満杯になります。

野営訓練中、ずっと便秘に苦しむ隊員のなんと
多いことでしょう。

自衛官はタフでなければできない仕事、
しかしながら、
このタフとは、どんな環境でも耐えられるという強靭な精神力を指すのだと
思い知った経験でした。



コメント (2)
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アナフィラキシーショック

2012-12-25 08:30:36 | Diary
今朝のTVで小学校の給食で
アナフィラキシーショックを起こして
亡くなったお子さんの事を取り上げていました。

本当に痛ましい事です。

実は私にも食物アレルギーを持っている息子がいます。

今は都内在住で、一人暮らしをしていますが、食べ物に関して一番心配なの
がアレルギーを起こす食材をうっかり
食べてしまうことです。


最初に気が付いたのは、息子が三歳くらいの時です。

卵や牛乳を摂ると口の周りが赤くなり
下痢をするので、
病院で調べて貰うと

「卵と乳製品にアレルギーがあるので食べさせないように…」

と言われ、以降は全て乳製品や卵をやめ、それらに替えて
大豆や豆乳を原料に使った食品を
食べさせるようにしました。

すると小学校に入った頃、
今度は豆乳を飲むと、口の周りが腫れてくるように…。

調べて貰うと、今まで現れなかった
大豆にアレルギー反応が出ていたのです。

大学病院のアレルギー外来で言われた
専門医のひとことが忘れられません。

「お母さん、芋だけ食べさせておきゃ、いいんだよ」

20年前は、子供のアレルギーに関しての認識も、専門医さえ、
そんなレベルでした。

息子の小さい頃の写真を見ると
手に持っているのは焼き芋か蒸かし芋ばかり…。
さすがに芋のアレルギーは出ませんでしたが、

今でも息子は
「芋は、みるのもイヤだ」

と言います。


卵、牛乳、大豆がダメとなると、
では、それらだけを摂らなければ安心かというと、
そうではありませんでした。

小学4年の頃でしたか…ある時、
学校から

「お母さん、早くきてください!」

という、担任の先生から
慌てふためいた声の電話がかかってきたことがありました。

駆けつけてみると、

息子の顔はパンパンに腫れて、
唇はタラコのように赤く腫れ上がっていて
「息がくるしい!」
と訴えているではありませんか。

すぐに、かかりつけ医で診てもらうと
「学校給食の中に、何かアレルギーを
起こす食材が入っていましたね」

とのこと。
アレルギー症状を緩和させる点滴をして貰い、事なきを得ましたが

いろいろ調べてみると
原因は、パスタにかかっていたクルミ
のソースでした。

クルミのアレルギー…。

思い当たる節があります。

幼児期に、栄養があるからと言って
同じ敷地内の義父母の家に行くと、
息子はよく
クルミを食べさせられていました。

昔の人には、アレルギーの知識は乏しいので、無理もありません。

何年も前の幼児期に食べていた
食材が、

数年後にアナフィラキシーショックを
起こす原因となる事実を知り、
私は愕然としました。

アレルギーを起こす原因を、
アレルゲンと言いますが、アレルゲンはいつも同じ
食材とは言えないのです。
どんどん変わって行く場合もありうる
という事です。

だからと言って、あれはダメ、これも
ダメ、と言うのでは食べる楽しみが
なくなってしまいますね。

息子は今、26です。
体力もついてきて、卵や乳製品、大豆製品も少しだけなら食べられる
ようになりました。

それでも、クルミなどの木の実の油は怖いと言います。ゴマが入っていても
呼吸が苦しくなるようです。

原材料表示を必ず見て、「危ない」
と思ったら食べないようにしている
とのことですが、


アレルギーは深刻な問題です。
本当に、本当に、切実な問題なのです。













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教官のホンネ

2012-12-23 08:05:04 | 自衛官時代の想い出
婦人自衛官教育隊の教官達は、
とても個性的です。

福島出身の教官でM二等陸尉は、小柄で色白、
目鼻立ちもハッキリしていて
東北弁のイントネーションが強くて
ざっくばらんな、芸能人で言えば、
あき竹城さんのような印象の人です。

産休から復帰してきたばかりという
M二尉の座学を受けている時に、こんなことがありました。

自衛隊法の講義だったように記憶していますが、
有事のことが話題になったのです。

Mニ等陸尉は言いました。

「全員に訊く、お前らはお国の為に死ねるか?!」
…と。

教室がシーンとなり、
答えられるものは一人もいなかったのです。

M二尉は続けました。

「私は死ねる。」

彼女には生まれたばかりの3ヶ月の乳児がいるのです。

私はふと、母親に死なれた乳児がオッパイを欲しがって
泣いている光景を思い浮かべました。

そして
(わが子を守れない親に、国防はできるのか?)
という疑問が湧いたのです。

誰も死にたくはない、
正直なところ、
自衛隊に入ったのは「平和な日本」だからです。
憲法第九条に守られた自衛隊だからこそ、安心して入隊したのです。
そう思う私は、自衛官ではハズレモノに違いないと思いました。

M二尉は、自衛官の鑑です。

彼女の講義は、まるで洗脳に近いものがありました。
高校を卒業したばかりの同期たちは、皆疑う余地もなく彼女の
思想を受け入れているのです。

5年前、市ヶ谷で30年ぶりに会った時のM二尉は、
そんなことはとっくに忘れたとでも
言うように柔和な顔つきに変わってい
ました。

思想教育は自衛隊には必要なことですが、もしかしたら、
あれは建前論にすぎなかったかともと、今になってみれば思えてきます。

拘っていたのは私だけだったのかもしれません。(ー ー;)

なぜなら、当時のM二尉と言えば、「子供の産み方」を思い浮かべる同期もいるのです。

「わたすが生んだとき、えいんせっかいをしてね・・」

と言う話しを別の区隊でM二尉はしたのだとか…。

これは初耳でしたが、案外、面白い人だったのかも知れません。(^^;;



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自衛官ことば

2012-12-22 11:26:45 | 自衛官時代の想い出
自衛隊の中では、特殊な言葉が使われます。

公式なものとスラングがありますが

例えば、
物干し場を→物干場(ぶっかんば)
灰皿→煙管(えんかん)

という風に呼びますが

表現方法も音読みが多いのが特徴です。

帰隊遅延(きたいちえん)→門限を破る事

なども書けばわかりますが、
耳で聞いただけでは理解できない
言葉ですよね。

こういう表現が多い自衛隊ですが

例えば、列を成して歩いている最中に
班長が大声で

「後方車輌! 後方車輌!」

と叫ぶことがあります。

これは、

「後ろから車が来ているよ!」

という意味ですね。
最初は、なんの事だかわからず戸惑い
ました。


余談ですが、私は自衛官退職後に
大阪の自動車学校で自動二輪の教習
に通っているとき、

自動車学校の教官から

「後方確認」と言われて、

またがっていたオートバイを降り、
後ろに回って、ナンバーを読んだこと
があります。(^_^;)

こういう縮めた言葉って、どうも
わかりづらいですよね?


さて、自衛官用語に話を戻しますが、

よくWACの後輩達から

「ダンナさんは官品(カンピン)ですか?」

ときかれます。

これは、官品→自衛官 という意味です。

また、何度かblogにも書きましたが

一般世間の事を自衛官は、シャバ

と言います。

ちなみに、私は現在も現役隊員たちに
自衛官OGとして、年に数回、講演
で話すことがありますが、

「シャバという言葉はもともとは
"檻の中"で生活した人が使う言葉な
ので、めったな所で使わないように」

と伝えています。(^^;;







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UFO

2012-12-21 00:29:16 | 自衛官時代の想い出
自衛隊の駐屯地には行事などで
一般人が自由に出入りできる「駐屯地開放デー」があります。

朝霞駐屯地でも、桜の咲く時期に
「春の駐屯地祭り」が開かれ、一般の見学者たちで賑わいます。

昭和53年の朝霞駐屯地春祭りでは、

その年の新入隊員24期生215名が、なんと駐屯地祭りでピンクレディの
「UFO」を全員で踊ることになったのです。

振り付けの指導はもちろん教官が行います。
30代の体育教官、H二尉は、自衛官とは思えないほど砕けた人柄で
教育隊所属の隊員たちからも人気がありました。

ご主人も自衛官で、あの国賓を迎える際の儀仗部隊302保安中隊の指揮官で、
田宮二郎ばりのハンサムという噂でした。
( 翌年、東京音楽祭りの折に、音楽隊の先輩と自宅マンションを訪ねたが噂は真実でした)

そのH二尉の指導の元、二百人もの婦人自衛官が踊る「UFO」は、
確かに楽しい練習でしたが、私はやや抵抗がありました。

自衛官になったのは、好奇心が80%
とはいえ、
制服の似合うカッコいい女性になりたかったワケで、
しかも18歳の同期たちより4つも年上、
ミーハーなことには抵抗感があったのです。(-_-)
それ以上に見世物的なイベントに出るのが嫌でした。

(なぜ自衛官がピンクレディの真似をして踊らなきゃならないんだ?)

そう思ったら、ますますイヤになり
絶対に出ない方法は、ないものかと
あれこれ策を練ったのです。

仮病を使おうか、どうしようか考えて
いると、
区隊長からの呼び出し、

(やる気がないのがバレたかも。)

…と覚悟を決めて教官室に入ると

「中央音楽隊からバンドをバックに
歌ってくれる隊員はいないかと依頼があったので、出なさい」

とのこと。

「あの、その時間はUFOを踊る
予定ですが、どうしましょうか?」

「あっ、それならUFOの方は出なくて宜しい」

「はい、承知しました!」
( や、やったぁ‼ *(^o^)/* )

こうして、私はただ一人、

同期215名の中でUFOを踊らずに済ん
だのでした。(^_-)



5年前に市ヶ谷で同期会をしましたが、
その時は、私もUFOを皆と一緒に、もちろん
踊りましたよ。(^^;;






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