声の仕事とスローライフ

ただ今、仕事と趣味との半スローライフ実践中。遠方の知人友人への近況報告と、忘れっぽい自分のためのWeb忘備録です。

夜も昼も

2012-11-30 23:24:36 | 自衛官時代の想い出
音楽を仕事にしたくて入隊した自衛隊音楽隊でしたが、自分が想像していた仕事とは、違っている事に悩みました。

ポピュラーを歌うことが多い自衛隊で
は、偉い方たちのパーティーや幹部自衛官の退官行事など酒宴で演奏する事が頻繁にありました。

酒宴ですので課業外、ほとんどが夜です。
男性隊員の中から選抜で数名、コンボバンドを結成して出かけるのです。

その中で私は紅一点でした。

歌うナンバーは「センチメンタル・ジャーニー」「ムーンリバー」「蘇州夜曲」「想い出のソレンツァーラ」など
誰でも知っているスタンダードナンバーばかりです。

酔った幹部自衛官が演歌を歌うから伴奏しろ、「銀恋」をデュエットしろ、というカラオケがわりの仕事もありました。
酒宴ですので、帰隊が深夜2時になることもありました。

それに加えて、管轄する管内の施設などへの慰問演奏、また、演奏のない日には隊員の給与計算の補助や雑用に追われる毎日でした。

給与に関しては、当時は全て手渡しのため、
私は月に一度、給与係りの古参隊員と、私の二年先輩の女性隊員と一緒に3人で駐屯地の一箇所で各部隊に配給される給与を取りに行き、
モスグリーンの大きな布袋に入った現金を部隊に持ち帰り、それぞれの給与袋に入れて行く作業を手伝っていました。

当然、誰がいくらの給与を貰っているかを新米隊員の私も知ることになるのです。

初めて、給与支給の手伝いをした時には、音楽隊の幹部クラスの給与の低さに愕然としたのも事実です。

例えば音大卒の幹部候補生で入隊し
二等陸尉(昔は中尉)で副隊長の職位にある30代半ばの男性自衛官が、30年前当
時、手取り17万でした。

もちろん、賞与は夏が2.5倍、冬が3倍
支給されますが、それにしても少ない
額です。
…小さな官舎に住んでいる理由もうな
づけました。



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夢と現実

2012-11-29 13:24:33 | 自衛官時代の想い出
婦人自衛官教育隊では三ヶ月に及ぶ訓練が終わる頃、配属希望を書いて提出します。

私は入隊前からの約束通り
伊丹駐屯地の「中部方面音楽隊」と書きました。
第二希望、第三希望の欄は空白のまま
提出しました。
何がなんでも、入隊前のK先生との約束、そして、K先生の師匠でもある
A先生の期待に応えたかったからです。

同時に夢もありました。

A先生が勧めてくださった女性として
初めて音楽隊幹部自衛官になる、
いつか将校(幹部)になるという夢です。

その夢は、配属後まもなく、現実とのギャップの大きさに粉々に砕け散ってしまいますが…。

ピアノを弾くように言われて仕方なく
合奏に参加した「白鳥の湖」は、ピアノソロのパートは、何とかごまかせたものの、
アンサンブルのパートでは緊張のあまりテンポがズレてしまいました。(~_~;)

そうなのです、指揮を見ながら弾くなんて初めての経験だったのです。

1~2回、駐屯地内で開かれる隊内演奏会で弾いたでしょうか…
満足の行く演奏ではありませんでした。

音楽を仕事にするには、初見で演奏できること、なにより柔軟性と
即応性が必要である事を思い知らされました。

その後もクラリネットやフルートの隊員たちから
「伴奏してくれへんか」
と頼まれる事もありましたが、
「練習しといてや」
と渡される楽譜を受け取ったものの
満足に練習もできず、自信もなく放置したままという事が多くなりました。

















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将校になりなさい

2012-11-28 21:03:54 | 自衛官時代の想い出
伊丹駐屯地にある中部方面音楽隊を
初めて訪れたのは、大学4年の夏休み
が終わった直後だったかと思います。

大学の管楽器の教官で、自衛隊音楽隊を指導しているK先生から
「どうや?ユミ、自衛隊を受けてみいへんか?」と訊かれたのがきっかけです。
最初は単なる好奇心でした。

「見学に行こう」と言われて、じゃ、とりあえず…という軽い気持ちで出かけたところ、
歌とピアノを部隊で聴いてもらうから伴奏者を同伴するように言われたのです。

総勢78名が集う合奏場で歌ったのは、何の曲だったか…
恐らく、チャイコフスキー歌曲
「ただ憧れを知るもののみが」

ピアノはショパンのワルツ集から
3番、あたりではなかったかと思います。

後になって思えば、これが自衛隊音楽隊に入るための実技試験だったようです。

その後あれよあれよという間に、私の入隊の話は進んで行き、
大阪防衛協会の理事であった著名な指揮者のA先生に挨拶に行った時には、
「君は将校になりなさい」
と、励まされるまで大袈裟になってしまっていたのです。

もう後には引けません。

とはいえ、最初から音楽隊に入るルートはありません。K先生が言うには
まずは、一般の婦人自衛官試験を受けて欲しい、との事でした。

そして、満面の笑みを浮かべた
K先生は私に言ったのです

「音楽隊はええぞ、一日中、音楽だけ
やってられるんやからな!!」

と…。






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認められない存在

2012-11-28 01:04:54 | 自衛官時代の想い出
「白鳥の湖」のピアノソロのイントロを間違えずに弾く…当面の課題は、
それをどうやって練習するか、でした。

当時の私は音楽の練習だけしていればいい男性隊員とは異なり、
雑用(かっこよく言えば庶務)の仕事もしていました。

当然、長時間ピアノ室にこもって練習する事は許して貰えませんでした。
それでも休憩時間を惜しんで時間さえ
あれば練習しました。

東京の中央音楽隊に国立音大卒の女性隊員Hさんが入隊したと知ったのが、
ちょうど、その頃です。

『中央音楽隊所属、初の婦人自衛官』
と自衛隊広報誌だけでなく週刊誌にも
取り上げられていました。

実は、朝霞駐屯地で教育を受けていた
三ヶ月の間に当時の中央音楽隊長だったT三等陸佐から
「どうだ、うちに来ないか?」と
誘われた事がありました。

春の駐屯地祭りの折りでした。
中央音楽隊の練習場に何度か顔を出す機会があり、私の存在を隊員から聞いていたようです。

その前後に一度、「音大卒の珍しい女性隊員」として、マスコミから取材を受けた事もありましたが、
一谷伸江さんがインタビューしてくださった私の記事は全てボツになりました。

何故なら私は、その時点では防衛庁が公に認めていない音楽隊要員だったからです。

T中央音楽隊長の誘いを受ければ、Hさんではなく私が防衛庁が認めた女性の
音楽隊員「第一号」になったはずでした。

なぜ断ったのか...。
それには、私が入隊前に交わされた
中部方面音楽隊との暗黙の了解があったからです。



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歌がダメなら

2012-11-27 08:43:12 | 自衛官時代の想い出
自衛隊音楽隊は後方支援部隊です。

前線に出て行く部隊とは違って、演奏することで一般市民に公報するという使命を持っています。


レパートリーは数限りなく、慰問演奏では童謡唱歌から軍歌、演歌、ポップスやロックまで、ありとあらゆる曲を演奏します。

御堂筋パレードなどでは受けを狙って
「大阪ラプソディー」
老人ホーム慰問演奏では、毎回
「暁に祈る~軍歌メドレー」
子供の施設訪問では
「アニメ主題歌」なども歌いました。

その都度、女性自衛官が唄う珍しさからか、拍手を貰ってはいましたが、
内部の評価は芳しくなく、いつも冷めたものでした。

隊には編曲専門の古参隊員がいて、楽譜係を一手に引き受けて各パートごとにアレンジされたもので演奏していましたが、

歌がダメなら器楽でという事だったのでしょうか…
ある時、なんと私にピアノを弾けという命令が来たのです。

一応、音大を卒業しているんだから弾けるはずだと思われたのでしょう。

でも、何を隠そう、聴くのは大好きでも、弾くのは大の苦手…。

学生時代の副科ピアノの試験では猛練習して臨んだショパンのワルツ14番・遺作で
初っ端からアルペジオを全部外してしまい、追試スレスレの点数しか貰えなかった苦い過去があるのです。(泣)

そんな私に渡された楽譜はピアノソロがイントロの部分に施された美しいアルペジオの曲
「白鳥の湖」でした。(ー ー;)





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音楽のプロ集団

2012-11-26 15:41:22 | Diary
私が配属された中部方面音楽隊は
総勢80名という中央音楽隊に次ぐ規模の大きな部隊でした。

管楽器と打楽器を中心にした構成で
クラシックからポピュラーまで幅広いレパートリーを持っていました。

主な仕事は、管轄する地域での演奏業務です。もちろん、それ以外に一般自衛官と同様の訓練にも参加します。

演奏業務では関西以外にも中部、中四国への巡回演奏で月のうち半分しか駐屯地にいない時もありました。

冷暖房もリクライニングもついていないバスでの長時間移動ですので、かなり疲れます。
一般自衛官は8時~5時までの勤務とされていますが、独身の女性自衛官は皆、管理隊宿舎で共同生活を送ります。当然、職場の同僚と同じ部屋ですので、24時間勤務のような感覚がありました。

入隊前に恩師から「ポピュラーを歌うなら、宝塚音楽学校の先生にレッスンを受けては?」と言われていた事も、現実には叶わない状況でした。

当時の私には、音楽隊長が選んだ三大レパートリーというのがありまして
「恋心」「サントワマミー」
「愛の賛歌」
をよく歌っていましたが
どれも及第点が貰えるレベルではありませんでした。

「お前の歌には色気がない」
「ただ声を張り上げている」
「マイクの使い方も下手」

中堅以上の男性隊員からの評価は厳しいものでした。

無理もありません。
彼らは、私の何倍もの間、音楽を仕事としてきたプロの音楽集団だったのですから。




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歌じゃない

2012-11-26 08:42:01 | Diary
三ヶ月の苦しく辛い教育隊生活を終えて昭和53年7月に配属されたのが

兵庫県伊丹市にある
陸上自衛隊中部方面音楽隊でした。

すでに女性の隊員が4名所属していましたが、たまに歌う程度で普段は庶務の
仕事を担当しているという事でした。

年齢的には、私より歳上が2人、歳下が2人でしたが、階級は私が一番下でした。
その中で歌を指導して欲しいと
音楽隊長から言われた私は悩みました。
自衛隊は縦社会です。
下の階級の者が上官を指導するなんて
できるはずがないのです。
私は難しい立場にいました。

そもそも、その当時は、音大卒の女性自衛官を採用する事自体、前例が無かったのですから…。

実は朝霞の教育隊にいる時に、同い年
の上官(班長)から
「幹部候補生を受けた方がいい」との
アドバイスをされた事がありましたが

その上官の区隊長からは
「音楽隊志望なら受けない方がいい
○○三等陸尉に歌って頂きます、という訳にはいかないから。第一どこに配属されるかわからないし。」

そう言われて、幹部候補生試験を受けるのを諦めた経緯があります。

音楽隊は男性にだけ、幹部になるための昇級制度がある時代だったのです。

伊丹駐屯地では、
婦人自衛官管理隊という宿舎から
音楽隊の練習場に通う毎日でしたが
駐屯地の入口に一番近い宿舎から
一番奥にある練習場に通うには
歩いて15分はかかります。

女子トイレがない練習場から自転車で
宿舎まで用を足しになんていう
事も当たり前の不便な生活でした。

初めて練習場に入って78名の男性隊員
達の前で歌った曲は
ミュージカルの「踊り明かして」

歌い終わった時に
ある古参の男性隊員から言われました。
「お前のは歌じゃない」と…。

吹奏楽をバックに唄うと、つい声を
張り上げてしまいます。

私の歌は、「歌姫」からは程遠いレベルのものでした。






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自衛隊の歌姫

2012-11-25 08:31:37 | Diary
海上自衛隊音楽隊の女性自衛官が歌う
「祈り」という曲がyou tubeで話題に
なっています。

映像を見ると、管楽器や弦楽器のセクションをはじめピアニストとして
女性が入隊している事に驚かされると
同時に、私自身が入隊した三十数年前
を思い出さずにはいられません。

今でも、経歴に興味を持ってくださった方々から、
「どうして自衛隊に入ったの?」
という質問をいただきます。

話すと長くなるので、実はプロフィールには「ひょんな事から…」と記して
いました。
早い話が、私の愛国心と音楽への愛着心、それに最大の原因である好奇心によるものなのですが、それを説明するだけで30分はかかりますので、
いつも以下のような理由付けをします。

「小さい時から男子に負けるのが大嫌いで、木登りと歌が好きな子供でした。
上を目指して頑張れば昇級もあるし(^^;;、好きな歌が仕事にできて、
男女平等に給与が貰える事も魅力
でした。」

とはいえ、
音楽隊の練習場には女子トイレもなく
女性が音楽隊員としての入隊するための枠組ができていない時代だったのです。

それでも、音楽隊員として
ステージに立つ事を夢見て入隊しました。

昭和53年の春の事でした。

入隊したのは、自衛隊朝霞駐屯地に
ある婦人自衛官教育隊。
WAC24期、215名の共同生活…。
厳しく辛い三ヶ月の訓練の始まりでした。

音楽?
そうそう…隊歌コンクールがあって
区隊歌を作りましたよ。
タイトルは「飛び出せ! 1区隊」
中央音楽隊からは
「青い三角定規」風のJ-popという
評価を受け作曲賞を頂きました。

教練、匍匐(ほふく)前進、小銃の扱い方
や行軍。訓練は映画「GIジェーン」を観た事のある方なら想像できるでしょう。
その訓練の合間にみんなで歌う自分たちのための応援歌です。

5年前に市ヶ谷で30年ぶりに同期たちと
再会し、歌った時は感激して涙が出ました。

自衛官が「歌姫」という言葉で、もてはやされる事自体がありえない時代でしたね。









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夢を追いかけて

2012-11-24 22:55:42 | ナレーション ボイストレーニング
かれこれ7~8年前になるでしょうか…。
女子高生ミュージカルに出演する女の子達が私の事務所によく通って来ていました。
その中の1人に、とても表情の豊かな
小さくて可愛らしい女の子がいました。
主役のアイーダを射止めた"UBU"
と、みんなから呼ばれている子でした。

M女子高校音楽部のミュージカル公演
は、群馬県民会館を毎回満席にするほどの盛況ぶりです。

2000人の満席の中で、UBUちゃんは
ステージの中央に立って歌い始めました。
曲は「ローブのダンス」です。

歌い始めた直後、アクシデントが起り
ました。
アイーダ役のUBUちゃんのピンマイクがOFFになっていたのです。

でも、それに気づいたのは関係者と数人の観客だけだったはずです。

なぜなら、UBUちゃんは堂々と生の声
で「ローブのダンス」を歌い切ったの
です。
(この子はタダモノではない…。)
とうのが、その時の印象です。

150cmに満たない小さなUBUちゃんの
身体が、あれほど大きく見えた事は
ありません。

その後、大学生になった彼女はアマチュア劇団の一員として数々のステージに立ちましたが、私の眼から見ると、
充分に実力を出し切れていないようでした。

その彼女から「四季を受けたい」と
相談されたのは2年前の10月の事です。
その瞬間、
「いよいよ本気になったんだね。」

と答えた私の気持ちの中にも、何とも
言いようのない高揚感が湧いてきて彼女のオーディションに全面的に協力する事を約束しました。

四季のオーディションは、大変厳しいものです。
事務所で夫と二人で作った彼女の
オーディションテープは、歌もセリフも一次審査に受かるためには充分な
インパクトを備えた出来栄えでした。

一次審査の合格から二次審査までのごく僅かな時間に次の課題が与えられます。
短期集中レッスンで送り出した
後は、まるで合格発表を待つ母親の
心境で、吉報をソワソワしながら待ちました。
二次審査の後は翌日が最終審査という
ハードスケジュールです。
出た課題を即席で消化しなくてはなりません。
深夜に電話でレッスンをして翌日の審査に備えました。
その最終審査の出来栄えは決して満足の行くものではなかったようで
結果待ちの間に
「歌詞を間違えちゃいました。(T_T)」
と、泣き顔の絵文字が入ったメールが届きました。

でも、私は全く心配していませんでした。「受かる」と確信していたからです。

アイーダをマイク無しで歌い切った瞬間に予感していた事です。

あのオーディションから2年、
昨年9月のストレートプレイ
「思い出を売る男」での花売り娘役デビュー、そしてファミリーミュージカル「桃次郎の冒険」でのお地蔵さん役、それに、今回の
「ウェストサイドストーリー」
ロザリア役と、UBUちゃんは、着実に歩み始めています。

大変な世界だと知りつつも人一倍
努力を積み重ねて、自分の手で掴んだ
チャンスです。

どうかUBUちゃんが、これからも末長く舞台で活躍できますように!
そして、いつかこの故郷、群馬で
凱旋公演ができますように!

そう、祈り続けているのです。








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1…が消えます

2012-11-23 17:07:56 | まちづくり
今、どこへ行っても経済不況のニュースばかり…。
政権の行方も定まらないまま、日本は何処へ行こうとしているのか不安にな
ります。
モノを一つ買おうにも躊躇してしまう
昨今、無駄なものを買わない増やさない、風潮が蔓延し始めています。

そんな中、前橋のケヤキウォークの
一階にある大手宝石店の閉店セールが
始まりました。

来月のクリスマスに備えてアクセサリー好きの実妹に何かプレゼントしようかと思いながら「閉店セール」という
文字に惹かれて立ち寄ってみました。

可愛らしい星が付いているピアスを
包んで貰っていると、私とほぼ同年齢
の店員さんが近づいてきて、
「最高のダイヤモンドをお見せしましょう!」と言いながら私の後ろへまわ
り着けてくれたのが
1カラットのプチネックレス、

値札を見ると、1200000…。

「今なら、この1が消えます」と
「1」を人差し指で隠した店員さん。

心がグラグラッと揺れましたよ。

でもね、明日はどうなるかわからない
我が身ですものね。

やっぱり無駄遣いはできないのですよ。

(多分、次に行った時には売れちゃって
いるだろうな…。)
と思いながら帰ってきました。

こういう客ばかりじゃ、閉店も致し方
ないですよね…。(~_~;)



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