朝9時前の有名観光旅館のロビーは
チェックアウトする団体客でごった返していた。
今時分は、どこでも人手不足のようで
フロントには最低限のスタッフしか置かないためか、
手続きを待つ人たちで正面玄関横のソファーは、
数十人の待つ人たちが立ったり座ったりしながら壁に備え付けられた大画面TVを見ていた。
TVでは、昨夜の再放送の番組「チコちゃんに叱られる」をやっていた。
大画面で観る“チコちゃん”のアップは、予想外の迫力があって、大きなアタマがいっそう大きく見えた。
( 大画面で見ると可愛くないなぁ…)
仕事で来ていることも忘れて、しばらく見入っていると、
その大きな壁掛けTVの辺りから、
突然、大きな声が聞こえてきた…
「お箸、2つください!」
……
ロビーで、お弁当でも食べるつもりだろうか?
声の主を探してみたが、薄暗い灯の下では誰の声なのか、
10m以上離れているラウンジに座っている私には判別できない。
「お箸、2つください」
と、また男性の声が聞こえた。
滑舌が悪く、口の周りの筋肉が緩んでいる声の感じからすると、
男性は、30代半ばで、やや太り気味…そんなイメージが浮かんでくる。
「お箸、2つください!」
「お箸、2つください!」
立て続けに、男性は大声で叫んだ。
紐の緩んだ、だらしない格好の浴衣姿の宿泊客たちが、
疲れた表情で、フロント前の絨毯敷のフロアを行き来していたが、声を気に留める者はいない。
「お箸、2つください!」
答える人もいない中で、声の主は叫び続けていた。
これに似た光景を、どこかで見聞きした事がある…
と、思った。
1ヶ月ほど前、ローカル線の電車に乗った際のことだ。
大きなリュックを背負い、ボーダー柄のTシャツを着た大柄の太った40歳くらいの男性が、乗り込んできて、
私の横の空席にドカンと勢いよく座り、電車が走り始めて2、3分経った頃、
急にソワソワし始め、突然、“ひとり喋り”を始めた。
「あぁ、なんてバカなんだ!」
と叫んで、右手を振り上げて拳を作り、
自分の右側頭部をポカポカ叩きはじめたかと思えば、
「バカだ、バカだ、バカだ!」
と言いながら叩き続け、
「どうしよう、どうしよう、どうしよう!」
と、早口でまくし立てた。
斜め前に立っていた男子高校生たちが会話を中断して、
声の主の方をみながら口の端に薄ら笑いを浮かべている。
急に車内が静かになり、
妙な緊張感を含んだ、それでいて白々しい空気が辺りに漂った。
乗車時間は15分程度だったが、
降車駅に着く直前まで、
「どうしよう、どうしよう、どうしよう…」
「急がないと、急がないと、急がないと…」
…と、泣き声混じりで呟く彼の存在を
多くの乗客は意識しながらも、
見て見ぬ振りをしたり、わざと無関心を装っていた。
もちろん隣に座っている私も、その中の1人だった。
(今、この男性は自虐モードに入っているんだ )
その状況を理解して平然とした態度を装うことは、
よく言えば、“見守り”だが、
同時に、私の中に強い警戒心があったことは否めない…。
あの時の気持ちは、なんだったのか…。
当時の複雑な気持ちを思い起こしていると、
いつの間にか、ロビーの辺りが静かになった。
マイクロバスが旅館の玄関に到着したようだ。
「お箸…」の声の主も、あのバスに乗ったのだろうか…。
公共の場で大声を出す人たちには、つい無関心を装うことが多い…
トラブルに関わりたくない自己防衛本能だと思っていたのだが、
それとも…
これこそ、
最近、耳にするアンコンシャス・バイアス、
“無意識の偏見”なのだろうか…。