声の仕事とスローライフ

ただ今、仕事と趣味との半スローライフ実践中。遠方の知人友人への近況報告と、忘れっぽい自分のためのWeb忘備録です。

同期会で

2013-01-30 19:19:52 | 自衛官時代の想い出
5年前の同期会の席で私は初めて教育隊長と直に話しました。

現役時代は遠くから訓示を聞くだけの存在だった教育隊長です。

喜寿を迎えたI隊長は当時と少しも変わらず穏やかな話し方、
当時のWAC教育隊では唯一の男性でした。


「当時は、どうしようかと思ってね。娘を育てた経験のない自分がいきなり200人の新人WACを育てなければならないんだから・・」

と懐かしそうに笑いながら
話していましたが、

聞けば、その前年に二度、脳溢血で
入院して現在もリハビリ中だとの事でした。

驚いたのは、隊長だけでなく
同期の仲間の中にも、40代で脳血管の病気で、手術をしたという人が数人いた事です。


原因を考えると血栓ができやすいのは

「自衛官の水分を取らない習慣」

もあるのかな、と思いますが

そのかつての習慣で、

やはり、さすが元自衛官と思ったのは
「5分精神」です。

なんでも早い!
食べるのも、歩くのも・・。


二次会ではデザートバイキングのケーキが開宴5分で無くなり幹事さんを慌てさせましたっけ…(^^;;

二次会のあとは、三次会もあったようで、

翌朝は9時半集合で朝霞駐屯地ツアーだという、オマケも付いていましたが

残念ながら私は翌日の仕事のため

後ろ髪を引かれる思いで、帰って来ました。

写真は、同期会の幹事さんたちが踊るピンクレディの「UFO」です。(^.^)



コメント (2)
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24期の再会

2013-01-29 20:57:32 | 自衛官時代の想い出
平成20年6月21日、
グランドヒル市ヶ谷で私たちは30年ぶりに集いました。

2階の宴会場ロビーは場違いな
黄色い歓声が沸き起こっていたためでしょう。

「あの方たちは何の団体ですか?」

隣で結婚披露宴に出席していた初老の女性がホテル従業員に訊いていました。

「はぁ・・元自衛官の方たちのようです。」

この日、陸上自衛隊婦人自衛官教育隊第24期生(通称WAC24期)
総勢215名のうち、108名もの仲間が市ヶ谷に集結したのでした。

その騒々しさと言ったら、他に類を見ないほど…。(^^;;

それもそのはず、30年前の7月、
全国に散らばっていった仲間との再会だったのですから…。


名札を見ては

「あ、あ、あ・・・やっぱりそうだね。」

顔はどことなく覚えていますが
名前が思い出せないのです。

現役の自衛官を娘に持つというある同期が、

「娘が、そんなたったの3ヶ月しか
一緒にいなかったのに同期会なんて変
じゃない?というのよ。」

そう言えばそうなのかも知れません。

当日招待した数々の新入隊員を教育してきた教官たちに訊いてみても、
これほどの大規模な同期会を行うのは珍しいとのこと。

たったの3ヶ月。

以降30年間の人生から比べれば、
わずかな期間には違いないのです。

が、しかし、この期間に経験したことは恐らく誰もが人生の中で一番印象に残った事で、
共通しているのは、朝霞で過ごした日々をみな忘れてはいない、ということなのです。

今年は、そんなWAC24期の現職自衛官達が定年を迎えます。

彼女達にとって、第二の人生が充実したものでありますように…。



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除隊後の生活

2013-01-17 22:23:40 | 自衛官時代の想い出
阪神大震災の追悼番組を見ながら
18年前の今日、TVに映し出された阪神高速の倒壊現場や、

いつも利用していた伊丹駅の一階が完全に潰れてしまった当時の映像を思い出しています。

伊丹駐屯地にいた頃を含めると7年間
暮らしたことになる関西は、
私にとって、忘れる事のできない大切な場所です。


昭和55年春、自衛隊を除隊した私は、
伊丹市内にアパートを借りて、
一人暮らしを始めました。

習慣とは恐ろしいもので、しばらくは、朝になると
起床ラッパが聞こえたような気がして飛び起きたり、

横断歩道で信号待ちをしている時に、いつのまにか、後ろ手を組み
両脚を開いて、
「整列休め」のポーズをしていたり…
(^_^;)

夜10時頃になると、
門限が気になってソワソワしたり…

気がつくと、自分でも驚くほど自衛官の習性が染み付いている事が
可笑しくて、一人でクスクス笑っていましたが、

同時に、二年間の寮生活から解放され、久々に自分の時間が自由に使える事には、
何とも言えない喜びを感じたものです。

契約社員として採用されたH百貨店には
伊丹駅から阪急電車で通う毎日、

生まれて初めてのOL生活にウキウキしたのもこの頃でした。

18年前の震災直後、宝塚の山崩れで家屋が倒壊している現場の映像を見た時、
H百貨店でお世話になった方の自宅近辺だった事を思い出しました。

お世話になった方達が、今でも
元気でいてくださる事を願ってやみません。



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就職援護

2013-01-16 18:03:25 | 自衛官時代の想い出
自衛隊には、任期満了や定年で除隊する隊員のために、
就職先を世話してくれる援護室という専門機関があります。

私も辞めることに決めてから
ここにお世話になりました。

とはいえ、私が直接お願いに行くのではなく、
音楽隊の専任幹部が間に入って
いろいろ世話をやいてくれるのです。

T 准尉がその役目でした。

その頃、
アナウンス教室にも通っていたので、
とりあえず、大阪市内であれば
どこでもいいくらいで、取り立てて
希望する職種はありませんでした。

当時は自衛官というだけで、
けっこう優遇されると聞いていたのですが、
最初に紹介して貰った設計事務所は不採用でした。
経理が出来る女子事務員を希望していたようです。
私のような音楽隊員ではなく
これが会計隊員なら採用されていたかもしれません。

その時、思ったのは男性の音楽隊員が
中途で転職する場合は、
もっと難しいかもしれないという事でした。

私の大学時代の仲間で自衛隊音楽隊に入った男性が2人いましたが、
1人は辞めた後、結婚式場に務め司会者になり
もう1人は郷里に帰って教員になったようです。

私の再就職先は最終的にT 准尉が、
勧めてくれた
大阪のH百貨店の契約社員でした。




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入校の目的

2013-01-15 16:40:02 | 自衛官時代の想い出
中部方面隊では、
当時、男子自衛官の陸曹候補生の教育訓練は、四国の松山で行われていましたが、
女子の場合は、朝霞だと聞いた事があります。

入校すれば、ほぼ三ヶ月間、
昔でいえば下士官( 軍曹クラス)になるための教育を受ける事になります。

私も辞めずに、二任期( 4年間 )くらい経って希望すれば、
陸曹候補生試験を受けて

あの朝霞で、再び教育隊生活を体験する事になったでしょう。


朝霞は古巣のような懐かしい場所では
ありましたが、
また、訓練を受けるのかと思うと、正直、ウンザリ…でした。(~_~;)


それとは逆に同じ「入校」でも
羨ましいと思ったのは、音楽隊の男子隊員の場合は朝霞にある
中央音楽隊への入校制度がある事でした。

これは、音楽の専門教育を受けるための訓練で、演奏レベルを
スキルアップさせるために必要な勉強ができるシステムのようでした。

オリンピックの時に世界の国歌を演奏したり、
国賓級の儀仗で演奏する機会が多い
中央音楽隊は自衛隊音楽隊の最高峰ですので、
入校すれば、音大レベルかそれ以上の教育を受けられるはずです。

私が中央音楽隊の建物の中に入ったのは、後にも先にも、
昭和53年春の朝霞駐屯地まつりの時だけでしたが、

練習室も充実していて、
伊丹駐屯地の中部方面音楽隊とは
比べものにならない程、立派な施設でした。

その折に知り合った幹部候補生に
よれば、
当時は、一般の大学や高校の吹奏楽部などから受験する志願者が多く、

音楽隊員となってから、武蔵野音大などに聴講生として通っている隊員もいるとの事でした。

今は、音大卒が多いと聞いていますので、教育内容やレベルも昔以上に高くなっているはずです。

音楽理論や和声学、編曲法、指揮法などを勉強したいと思っている隊員や、

本格的に演奏技術を磨きたいと思っている隊員にとって、

中央音楽隊への入校は、かなり恵まれた環境だと言えるのではないでしょうか。




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数学コンプレックス

2013-01-14 13:50:55 | 自衛官時代の想い出
自衛官が昇級する際には、
その階級に相応しいスキルを身につけ
るための教育訓練を受けるシステムが義務付けられています。

「入校」と呼んでいましたが、

これは音楽隊員も同様で、その際には一般隊員と同じ教育訓練を受けるために、
一時、音楽隊を離れることになります。

その前に陸士から陸曹候補生になるための試験が行われますが、

音楽隊員であっても、内容は一般自衛官同様に教練等が重視されます。

陸曹候補生の教練の試験は
部隊横のグラウンドで公開で行われていました。

私より一年前に入隊した男子隊員5~6
名 が順番に実技試験を受けていましたが、見ていると、

◯◯士長は受かるかな?
△△士長は危ないかも…。

動作の機敏性や号令をかける時の声の
大きさ等で見ている側でも、合否の判断ができたものです。


ほぼ同時に入隊していても、枠がある
らしく、その時に選ばれた隊員は1名のみで
即日、合否の発表が行われ
不合格だった後の4名は
次のチャンスがくるまで待たなくてはなりません。

この陸曹候補生に選ばれる時期ですが、新隊員課程が同期入隊であっても
ズレる事はよくあります。

私の同期(WAC24期)で一番偉くなった
H二等陸佐は、
同期たちより陸曹候補生の入校が遅か
ったと聞いていますが、

その分、幹部候補生試験を受けるために猛勉強したようで、
尉官へはスピード昇進でした。

彼女は会計隊でしたので、元々数字に強かったようです。


最初に上司から任満退職を慰留された時、実は悩みました。

私の場合は、例え、昇級を希望せずに、ずっと陸士の階級でいたとしても、
音楽隊所属だから音楽だけやっていればいいということはありません。

自衛官としての訓練は自衛官でいる限り必ずあります。

それと、幹部試験を受けるとしても
音大卒の私の場合、ネックなのが、
理数系が苦手だった事です。(^^;;

入隊時の一般教養試験では、数学は因数分解、理科は気象図を見て

「季節はいつかを答えよ」という程度の常識的な問題だったと記憶しています。
高校時代に普通に勉強しておけば
誰でも解るレベルです。

ところが、幹部候補生試験は、そんな簡単な問題ではないようで、

朝霞の教育隊時代に
中央音楽隊の幹部候補生から、

「幹部候補生試験を受けるには数3を勉強しておいた方がいい」

というアドバイスを受けた事があるのです。

私は、高校時代、二年から文科系クラスを希望していたため、
数3は選択しなかったのです。(≧∇≦)

私が幹部になるのを諦め自衛隊を辞めようと思ったのも、

実は、数学が大の苦手という理由があったから、なのです。(~_~;)


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餞のことば

2013-01-13 18:49:05 | 自衛官時代の想い出
上司に「辞めます」と申し出た時は、
最初のうち、慰留されました。

わずか1任期(2年)で、辞められて困るのはでどこの職場でも同様です。

それでも、自分の居場所はここではない、という気持ちの方が強くなっていましたし、
何よりも、自分が将来、希望通り
幹部になったとして音楽隊で何ができ
るのだろう…
という疑問を持ち始めていました。

将来のビジョンが全く思い描けない以上、ここに居ても仕方がない…。

辞めてどうするか、何も決まっていない状態で辞めることに不安は
ありましたが、
「何とかなるだろう」
という甘い考えもありました。

辞めることを報告した時、
面白い事に音楽隊幹部とWAC管理隊長とでは反応が真逆でした。

実名を出しますが、
音楽隊幹部の石田准尉からは

「お前が男だったら、たいした幹部になっていただろう」

という言葉を貰いましたが、


WAC管理隊の首村一尉は、

「お前は命令でも馬糞は踏めない女だ」

…でした。(~_~;)

今でも、この2人からの餞の言葉は
私の大切な宝物です。








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ムーンパワー

2013-01-12 13:38:50 | 自衛官時代の想い出
自衛官を辞めたのはどうして?

という質問は
「なぜ自衛官になったの?」

というのと同じくらい、よく訊かれます。

表向きは、
「体力の限界を感じたので。」

と答えています。


実際に行軍中に意識を失って倒れ、
自衛隊病院に入院した事もあります。

軽い熱中症だったのですが、一週間も入院、
その際に不整脈が見つかりました。

病室では、防衛医科大の学生達が入れ替わり立ち替わり脈を測りに来るのですが、
「あれっ⁉ 脈がない !」と慌てて測り直すという事が何度もあり、
自分が不整脈を持っていることを告げられました。

よほど珍しかったのでしょう、
学生達は、私が眠っている時でさえ、頻繁に脈を測りに来ていましたが、

入院中は不思議な程よく眠りました。
一週間の間、食事と診察以外の時間はほとんど眠っていました。

身体的な問題も確かにありましたが
精神面でも、疲れていたのかもしれません。


自衛官を辞めようと決めた日のことは
今でもはっきり覚えています。

そのころ管理隊では、
音楽隊のように不規則な勤務を考慮して、
各所属部隊ごとの居室編成に変わっていました。

先輩が2人任期満了で辞めて、
後輩が2人入ってきた頃、私は
先輩のY士長と同じ階級の陸士長になっていました。

後輩達は入り口に近いスペース、
私とY士長は窓際のスペースを陣取りました。

いつものように就寝ラッパが鳴って、自分の鉄パイプのベッドに横になっていた時、

カーテンの隙間から差し込んできた月の明かりが
あまりにも青くて、私の中の何かを刺激し始めたのです。

そして、
潜在意識が次々にと明確な意識となって訴えかけてきたのです。


満月には 感情が表面化しやすく、
テンションが上げるパワーがあるそうですね。

( このままでは、いけない…もしかしたら、何か別の生き方があるのではないか。)


任期満了まで、あと三ヶ月という時でした。



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缶メシbest 3

2013-01-10 21:39:21 | 自衛官時代の想い出
演習などの時の携行食として
缶メシと呼ばれる非常用食糧があるのをご存知でしょうか?

実は、これが今思えば如何にユニークな物だったかという事に
辞めてから気付きました。

何がユニークって、
一般のスーパーの食料品コーナーなどでは、なかなか
お目にかかれないシロモノなのです。

特に珍しいのが、タクアンの缶詰。
ぶつ切りにしただけのタクアンが5~6
個入っているだけのモノです。

同じくウィンナーの缶詰めも、ボイルして少しスープを加えた
長さ5cmくらいのソーセージが7~8本は入っていたでしょうか、

一番人気があったのが
御赤飯の缶詰…大きめの缶にギッシリと詰まった赤飯…
これだけでお茶碗3杯位の量がありそうなモノです。

以上の3種が頻繁に配られた缶メシの
Best 3 ですが、

味は…と言うと、見た目以上に美味しいと言っておきましょう。

特にタクアンは、けっこうイケます。

缶メシは、本来、外部の人に渡したりは出来ないのですが、
休暇中に、こっそり家族にお土産として持ち帰る事がありました。

一度、従姉妹に缶メシbest 3 のどれが気に入ったかを訊くと、

すぐに「タクアン」と言う答えが帰って来たくらいですから、
一般人が食べても、そこそこ美味しいようです。


因みに、自衛官の食事ですが一日幾らと決まっています。

ここ数年毎年のように、自衛隊駐屯地の中の幹部食堂で
昼食を頂く機会がありますが、

一食380円位だったと記憶しています。

その割には美味しくて、驚きますが

それもそのはず、

私が在籍した当時は隊員達が調理を担当していましたが、

今では外部業者に委託しているところが多いのですね。(^^;;




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嫌われもの

2013-01-10 20:04:05 | 自衛官時代の想い出
自衛官だった話をすると

「自衛隊ではモテたでしょ?」
と笑いながら訊く人がいます。

確かに、男女比で言えば圧倒的に
男性が多いワケですので、外から見れば、そんなイメージもあるでしょう。

でも、極端に男性の数が多いという事が、「嫌な部分」
を見てしまう機会を多くしていると
言うのも事実です。

管理隊で暮らす女性隊員の陸曹クラスに独身者が多いのも、頷けます。


私の所属していた音楽隊は吹奏楽ですから、
歌う時はマイクが必需品です。

ミキサーは、
バックの演奏と歌のバランスや音質を調整する大切な役割を担っています。

当時のミキサーは、
Tニ曹という30代半ばの
男性隊員が担当していましたが、

残念ながら私は、この隊員とは特に
相性が悪かったようです。


どこの世界でもそうですが、
最初に「生意気なヤツだ」と思われてしまうと、
徹底的に無視されるか、いじめられるか…というパターンが多いですね。

調整をお願いしようと、

「あのう、お願いがあるんですが…」
とTニ曹に話しかけても、

目をそらし、顔も見ないどころか、
何も応えずに、後ろにいる隊員の方
を振り向き、全く別の話を始めたり、

私が挨拶をしても、答えないのに
他の女性隊員には、
「Mちゃ~ん」と猫なで声で呼んで
親しそうに話しかけるのも、

何だか、とてもわざとらしく感じられる事もありました。

Tニ曹には、二年間、徹底的に無視され続けました。(~_~;)

直接、悪口を言われるのは、まだいいほうで、
無視する行為は陰湿なイジメだと私は受け取りました。

もちろん、親切な隊員達もいましたが
私には、T二曹と親しい隊員は全員が敵
に思えたものです。

30年経った今でも、
その事が心の奥にシコリとなって残っていて、
思い出すと辛くなります。 (-。-;


最近のNHK朝の連ドラ「純と愛」を見ていると、
主人公の純が勤務先で無視され続けているシーンがあります。


若い頃の私は、純と同じように
言いたいことをズバズバ言うところが
ありました。

気の合わない人からみれば、
身の程知らずの生意気で目障りな存在だと思われていたに違いありません。


しかもKYで、やたらと正義感が強いというのも主人公の純と一緒です。(~_~;)


そこが、Tニ曹にとって、
きっと、我慢できなかったんでしょうね…。

今になってみると、
嫌われた理由に納得できる部分もあるのですよね。



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