遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   仕事に追われ「感性と理性」「芸能・アート・芸・芸術」についてなかなか書けずもどかしい日々です。春に酩酊しつつ 日常に忙殺されつつ...今日は井の頭公園で野外ライブします。...たぶんお昼ころないとうさん まつもとさんとごいっしょします。

12時に集合し、まずは内藤さんとライブの場所を物色しました。...時あたかも林をバックに幼稚園や保育園の先生のたまごさんたちが実習していたのを見つけ 声をかけ コカのカメをいっしょにしていただきました。盛り上がって楽しかったです。お昼休みが終わってういういしいたまごさんたちが引き上げ つぎに内藤さんが語り..わたしが語り...6つ終わったところで、松本さん 竹内さんが合流しました。

  場所を移動して..池のまえでそれぞれが弐話ずつ語りました。3時間で13のものがたり...野外での語りについて気づいたことを述べてみます。

  日本でも西洋でも中世の語り手・ストーリィテラーは楽器を携えて語りました。弦楽器が多かったのですが ささらなどもありました。また歌うと語るが不可分でした。それがなぜだかこのたびのライブでよくわかりました。以前 弦楽器の起源は弓であり ブルンブルンと震わせることで語り手の意識を飛ばしカラにする必要があった...と書きましたが 中世においては楽器の響きそのものがたいせつな役割を果たすようになっていったのではないか と推察しました。道行くひとの足を止めさせ 聞き入らせるために語り手たちは技巧の粋を尽くしたことと思います。そうしなければ今日のやど 今日の食事にありつくこともできず あるいは親方にこっぴどく叱られることもあったことでしょう。

  ジョングルールもそうでしたが 楽器や歌はリズム メリハリを生みます。聴き手を飽きさせないことは 語り手にとって生きてゆくためにどうしてもしなければならないことだったのです。ものがたりも笑わせ また泣かせなくてはなりませんでした。庶民の感情に直に訴える喜怒哀楽のはっきりしたものでなくてはならなかったのです。長いものがたりも一節一節の起承転結のはっきりした骨太のものである必要があったのではないでしょうか?...すなわちニュアンスではなくいろあいのはっきりしたものがいいように思いました。

  現代において 語り愛好者でなく不特定多数のひとにむかってライブをするとしたら短いくっきりはっきりしたものがたりが適するでしょう...まずおおかたのひとびとはテレビと不可分の生活をしていますから CMに分断された10分前後しか集中できないということもあります。高齢者に語るとどうようの配慮が必要です。ましてなにかしら別の目的できているのですから 短時間で結果のわかる場面展開の早いものがたり 5分からながくても7.8分がよい加減でしょうか。

  人形や道具をつかうとか 楽器などがあるといいと思います。もっともむつかしいのは語り手の集中 そして力のぬき具合です。 アクシデントもあって わたしは三つめの芦刈の途中で集中が途切れてしまいました。...また  聴き手を引き寄せよう逃すまいとしてかえっていつものように間がとれませんでした。聴き手の反応より1.2秒(もっとかな)早くなってしまったのです。これは路上ライブを重ねれば落ち着くかとも思いますが....そして発声 拡散しやすいので通常の発声ではとおりにくい..日本の芸能は能にしても戸外ないし半戸外.. 神社の境内の舞台やよしずで仕切るなど..が多かったので声をとおらせるため独特の発声をしましたが、発声についてもっと考える必要があるかもしれません。

  場所のとり方も重要です。結界・場をつくりやすい場所 また聴き手が立ち止まりやすい場所が必要です。たのしい話 清清しい話が無難でしょう。その他聴き手を参加させる...即興で対応できる...などふだんの活動での語りにもつながる課題が山積でした。参加者一同 次回の野外ライブに向けた課題を確認しあいました。

  終わったあと 4人で それから櫻井先生が最後の30分飛び入りで参加され3時間にわたるディスカッションをしました。 実りあるものでしたがそれについては後日書くこともあると思います。二時間かかって地元に帰りつきましたが この徒労感 疲労困憊 チリチリとした不安のようなもの...はなんだろうと考えてみてもよくわからないのです。身体のなかに発散されない余熱が残っている感じといったらいいでしょうか。(...これは夜になってわかりました...)

  井の頭公園でのライブわたしは今回が最初で最後になると思います。個人的には井の頭公園のような場所で ライブをするのはわたしのように感覚をひらいて語る語り手には大きなリスクがあると感じました。刑場のあとのようななにかの気配があります。野外ライブの可能性はさまざまですが 清浄な場 大自然の気のなかで太古の語りのように焚き火を囲んでまるくなって おなじ想い価値観を共有する 少なくともおなじベースを持つひとたちと祈りにちかい語りをしてみたいという望みがこころの底に生まれました。オファーがふたつきているので ちかぢか実現するかもしれません。

  やってみなくてはわからないのでした。 ...いままでしてきた語りにとらわれず 呼ばれているほうに行ってみようと思います。...ほんとうにたいせつなものはどこにあるのでしょう...これからのことを根本からかんがえなおすきっかけになるかもしれません...。過去や未来に恋々とすることなく より良い選択ができますように...

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )