遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 






   きのう「北京バイオリン」という中国製ドラマを観た。リビングのテレビが壊れてwowowしか写らないという状況がなければ観なかったと思うのだが、これが考えるきっかけになった。隣人である中国人の国民性が見えてくるのは興味深かったがドラマとしてはあまりおもしろくはなかった。...and ...and  ただずらずらとものがたりが続いてゆくのである。

.....なぜ主人公の天才的バイオリニストの少年の気持ちに同化しないのかなぁと考えるうちにカメラワークが単調であること 客観的に外から見た背景と登場人物込みの画面と顔のアップが順番に用いられるだけで 主観...主人公の視点から見た映像が乏しいことに気づいた。ストーリーを台詞だけでつなぐのはちょっと苦しい。

   日本のドラマではナレーションによる物語の客観的な説明(いはば地の文)があり..主人公のモノローグがあり台詞があり...カットバックがあり...追想シーンがあり それもひとりの視点だけではなく他の登場人物がらみの視点もあって 立体的にものがたりが進んでゆく。ドラマを観るひとはそれぞれの立場に応じて登場人物に同化する。ドラマのなかで主観と客観が交互にあらわれ 視聴者の主観と客観も入り混じる。

   語りの場合は たいてい地の文と台詞で構成される。地の文のみもあるだろうし わたしの場合はたまに一人称の語りもある。語り手によって地の文や台詞をどのように語るかさまざまであろうが...わたしは地の文は自分のイメージを客観的に伝えることにポイントを置いていたつもりだった...日本の自然の原風景とか..降る雪とかそれぞれのものがたりの背景を聴き手に伝えたかった。....台詞についてはその人物に極力寄り添った。台詞にいのちをかけていたかもしれない。つまり主観で語っていた。

.....ところでここでいう客観とは名称であって主観の延長上のものである。客観といいながらほんとうの客観...他者の目から見ることなどできるはずがない。....雪のしまく音を聞きながらながいこと寝付かれずにいた...しまく音を想像するのはあくまで語っている自分の主観によるからだ。他者の目から見ようとする語り手の立場があるのみである。...やがて聴き手は語り手の語るものがたりとひとつになる...蓑吉とともに小屋を見つけてほっとし 吹雪の吹きすさぶ音に言い知れぬ恐怖を感じ...小屋のなかに立つ蒼白のゆきおんなの姿を見る...蓑吉がゆきおんなとの約束を違わすのでは...と恐れ...おゆきの子を思う真情に同化する....語り手と聞き手はものがたりを介してひとつになる。...それぞれが自分のものがたり..を生きている。ここでの聴き手のものがたりもまた聴き手の主観であって 客観と主観とはわかちがたく渾然としている...この状態そのものがカタルシスでもあるのだ。...ここで語り手に客観を越えた超客観というようなものが生まれることがある。世阿弥のいう”離見の見””高見の見”である。それはすこし上のほうから見た視点であって 語る自分...聴き手を一望にし 吟味さえしている状態である....いつもそうなるわけではない。

   このように語ってきたのが 最近立ち位置に変化が生じた。地の文を客観的に語ろうとする立場からより自分の目線で語るようになったのである。どこがちがうかといえば 「むかしは空しかありませんでした....」というとき青い青いそらを想像して語っていたのが 今青い空をたしかに見ている自分の目で語るようになった。.....冷たい水を感じている手 粗い粗末な麻の布に触れている手 自分の身体で感じているままを語るようになった...より主観的になった。....ことばから離れた。...これが進化なのかそれとも陥罠なのかわからないのだが ことばから離れることが目標のひとつなのだから よしとしよう。

   主観と客観が複雑にからみあう語りの場で そのものがたりの特性によってからみあうパターンは当然変わってくるだろう...たとえばパーソナルストーリーでは主観からダイレクトに聴き手の主観に重なりやすい。パーソナルストーリーは聴き手の人生と響きあうからである。どうように感情を介するものがたりにもそのような傾向があるだろう。また..人類共通の歴史というものがあるからそこに触れた一瞬ものがたりが眠っていたものを呼び起こすこともあるのではないか...わたしがネイティブのひとたちの神話を語りたい理由はそこにあるのだが...。

    また語り手と聴き手の位置によっても変わってくる....たとえば古代の語り..は今のような語り手・聴き手の対面するかたちの場ではなかったはずだ。仲立ちとしての語り手の位置がもっと明確だったと思われる。すなわち 神また霊の意....をひとびとにつなぐ....大いなる主観と客観の一体化があったのではないか...とわたしは推量する。

   今もその痕跡は残っているが 語りや芝居はその起源に天地とつらなることや呪術的な要素を持っていたことをわすれてはならないと思う。近代の視点、科学的視点...というものが必ずしも正しいとはいえないかもしれない..良い結果を生むとは限らないかもしれない....とわたしたちはひそかに感じはじめている。...それらが正しければ 人類はこのように行き詰ってはいないだろう...地球温暖化もなかったであろう..。


   語りについてそれぞれの語り手の思いはさまざまでよい。読書への橋渡し、昔話の伝承、芸術的語り 目標を持って歩いてゆくのはたいせつなことである。わたしは私自身は語りの起源 本質を見据えていきたいと思う。..なにを語るか...どう語るかではない。語り手としての自分をどこに投げかけるか...である。うまく言葉でいえないが主観を極限まで突き詰めることからそれははじまる。そして投げかけることで それぞれの主観が個々の明晰を保ちながら根源とまじわりひとつになるような磁場をつくり得るか...それが語り手としてのわたしの目標であり...日々の暗中模索すら楽しみにさえなる理由である。
   
      

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