遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 

三好達治は昭和を代表する国民詩人です。 生涯にわたり 名詩を残しました。...

.先日「汝の薪をはこべ」をご紹介しましたが 優れた詩人の詩は時代を超えるのだなぁとしみじみ想います。

「汝の薪をはこべ」  まさに 今 わたしたちに投げかえられたうたです。

わたしは また 砂の砦もすきです。

日々 ブログを書くこと 語りをすること .... それは わたしの ささやかな砂の砦... です。

 

「砂の砦」 三好達治

私のうたは砂の砦だ
海が来て
やさしい波の一打でくづしてしまふ

私のうたは砂の砦だ
海が来て
やさしい波の一打でくづしてしまふ

こりずにそれでもまた私は築く
私は築く
私のうたは砂の砦だ

無限の海にむかって築く
この砦は崩れ易い
もとより崩れ易い砦だ

青空の下
太陽の燃える下で
その上私の砦は孤独だ

援軍無用
孤立無援の
砂の砦だ

私はここで指揮官だ
私は士官で兵卒だ
砲手だ旗手だ伝令だ

鷗が舞ふ
鳶が啼く
私はここで戦った

私はここで戦った
無限の海
無限の波

波が来て白い腕(かいな)の
一打ちで崩してしまふ
私の歌は砂の砦だ

この砦は砂の砦だ
崩れるにはやく
築くにはやい

これははかない戦場だ
波がきてさらつたあとに
あとかたもない砂の砦だ

私のうたは砂の砦だ--


 

三好達治は陸軍幼年学校から士官学校に進みましたが 北海道にまで及ぶ大脱走をしました。

同窓に西田税 という親友がいました。彼は 2.26事件の若手将校のひとりとして刑死しました。

三好達治は戦中は やむなく 戦争に協力しました。けれども  旧制高校の学徒出陣前の学生へ

の餞としてで講演会に講師として呼ばれた達治は

「なぜ、君たちのような若者が戦場に行かなければならないのか」と言って号泣して、しばらくの間

話すことが出来なかったそうです。

これも先日ユーチューブを紹介しました。鷗 とともにうつっていたのが 満蒙青少年義勇軍と思しき

少年たち....そして 予科練 特攻の少年たち.... 白いかもめは旧制高校の夏の制服....

ついに自由は彼らのものだ
彼ら自身が彼らの故郷 彼ら自身が彼らの墳墓(ふんぼ)

私は....いつも ここで 泣いてしまいます。

三好達治は 敗戦後 天皇の敗戦責任追及をして昭和天皇に退位を公然と勧めました。

そこにはやむにやまれぬ想いがあったと思います。

三好達治は 詩を書くsだけの詩人ではなかった。 生きることと 詩が 血のなかに

わかちがたく とけあっていた。.....だから時は過ぎても そのことばが心を穿つのだと

思います。


 

「 鷗」

ついに自由は彼らのものだ
彼ら空で恋をして 雲を彼らの伏床(ふしど)とする
ついに自由は彼らのものだ

太陽を東の壁にかけ 海は夜明けの食堂だ
ついに自由は彼らのものだ

ついに自由は彼らのものだ
彼ら自身が彼らの故郷 彼ら自身が彼らの墳墓(ふんぼ)
ついに自由は彼らのものだ

太陽を西の窓にかけ 海は日暮れの舞踏室だ
ついに自由は彼らのものだ

ついに自由は彼らのものだ
ひとつの星を住処とし ひとつの言葉で事足りる
ついに自由は彼らのものだ

朝焼けを明日の歌とし
夕焼けを夕べの歌とす

 

ついに自由は彼らのものだ

 

 

 

 



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