20日 日光の滝尾神社に詣でました。東照宮を左に見て 曲がりくねった道をゆきます。照宮が建立されるまでは 滝尾神社こそがご参拝の地でした。といいますか 滝尾神社があった この場所だから 東照宮が建立され徳川300年の平和があったのだと思い当たりました。ご祭神は 田心姫 たごりひめ すなわち 瀬織津姫です。
太古の息吹があり 足元 地の底からの脈動を感じました。天と地の交差するところでした。
杉の古木 日のひかり 水の瀬音 いつまでもいたい場所でした。
なかでも 元はなにがあったのか 草地に 参道の入り口の杉の巨木のかたわらにいたとき 強烈に 天と地のあいだにつながらせていただいている至福を感じました。
熊野の 大斎原 に似ていました。熊野三社もほんとうのご祭神は瀬織津姫です。
不思議なことにご参拝者の2/3くらいが 外国人でした。国内より 国外に知られた聖地のようです。
近くに輪王寺があります。
幕末・明治 天皇がふたり立たれたときがございました。田布施の明治天皇 奥羽越列藩同盟の擁立する東武天皇です。一時は東武天皇のほうが旗色がよかったといいます。
公現法親王=輪王寺宮=東武天皇=
北白川能久親王は同一人物....
弘化4年(1847)2月16日に、伏見宮邦家親王の弟9子として御誕生あそばされ、満宮と号された。嘉永元年(1848)に仁孝天皇の養子となり、安政5年(1858)
10月に親王宣下があり、能久の名を賜っている。その11月23日に、12歳で輪王寺に入り得度した。法名は弘現である。
2年後の万延元年(1860)9月7日、初めて
日光山に登ったが、その後は
上野に居て、仏典修行の日を送り、慶應3年(1867)5月24日、日光山第66世、輪王寺門跡第12代慈性法親王の跡を継いで門跡となり、天台座主に就任した。
翌慶應4年(1868)4月には、22歳で旧幕軍「彰義隊」に担ぎ出されるが、敗戦の色濃く、榎本武明の艦隊で江戸を脱出した。その頃、奥羽越列藩同盟の擁立する天皇、東武天皇と号する。
余談だが、日光宮門跡は天皇の親王が就任し、天台座主を兼ねる。比叡山・東叡山(上野寛永寺)・日光山を統治する。徳川幕府有事においては、幕府が擁立する為の天皇としての役割が大きい。その仕掛けを作り上げた天海大僧正は天才的だ。
その後、會津を経て
仙台に滞在したが、11月(慶應4・明治元)には、新政府軍により、
京都伏見宮邸にて謹慎させられる。伏見宮複籍後、明治3年(1891)
ドイツに
留学し、その後、北白川宮家を相続する。軍籍においては、少佐→大佐→中将→近衛師団長となる。日清戦争が勃発すると、満州に出陣した。明治28年5月22日には
台湾に駐在するも、10月28日、台南にて48歳にて戦死された。その波乱に富んだ人生は、高い志と民への想いを、只一筋に捧げられたものだと言えよう。
その後、會津を経て
仙台に滞在したが、11月(慶應4・明治元)には、新政府軍により、
京都伏見宮邸にて謹慎させられる。伏見宮複籍後、明治3年(1891)
ドイツに
留学し、その後、北白川宮家を相続する。軍籍においては、少佐→大佐→中将→近衛師団長となる。
日清戦争が勃発すると、満州に出陣した。明治28年5月22日には
台湾に駐在するも、10月28日、台南にて48歳にて戦死された。その波乱に富んだ人生は、高い志と民への想いを、只一筋に捧げられたものだと言えよう。
公現法親王は、孝明天皇の大御心(おほみごころ)に倣い、徳川家を支持し幕府存続の為に御心を砕かれたという。又、維新後も徳川家との交流も絶やさなかった。
能久親王 のあとを継いだ 子の成久王 孫の永久王 ともに 若くして 事故で亡くなった。能久親王は靖国神社の元宮に別格で祀られている。永久王も合祀された。
靖国神社は 東照宮の氣 が 東京に流れ込むのを防ぐために立てられたと書いているひとがいる。
北白川能久親王
大正天皇
似ておいでです。
北白川成久王
北白川永久王 祥子妃
三島由紀夫は 祥子妃の弟と学友だったことから 若き日の祥子妃に片思いしていたという。
春の雪 の聡子は 祥子妃がモデルだそうだ。