1月3日 浦和の蔦屋で ポーの一族 が平台にあって つい 買ってしまいました。オムニバス連作って あまり好きではありません。なぜなら 漫画家の方向性を規定してしまうような感じがあるからです。1972年 すきとおった銀の髪ではじまったポーの一族 は第二期でフィーバーしました。繊細なうつくしいバムパネラの少年たちの耽美なファンタジーとして読者に支持されたのではないかと思います。1978年に始まった 大島弓子の綿の国星も 大きな支持を得て 連作されましたが 以降 大島さんの作風も変わりました。
残酷な天使のテーゼ の作詞家は 萩尾望都の 残酷な神が支配する に触発されて詩を書いたそうです。わたしのカラオケレパートリーのひとつです。少女漫画にもテーゼがあります。それは 欠落 うしなわれたものの回復。主人公たちは失われたなにかを求めつづけます。エドガーの場合は 失われた人間らしさ 人間としてのよすが その象徴がメリーベルであり 代理としてのアラン です。「ひとりでは 寂しすぎる」エドガーの自己愛にほかなりません。
春の夢 は グレンスミスと ランプトンの間くらいの時代設定でしょうか? 耽美なバムパネラの世界から 萩尾さんは 歴史家としての 視点を持とうとし 第二次大戦の時代を選んだのでしょうか? それとも 創作するものとしてのカナリアの直感から 第三次世界大戦前夜とも思しき今 戦時のものがたりを選んだのでしょうか?
少女漫画のテーゼとさきほど申しましたが 文学や芸能の永遠のテーマは ひとはなぜ生きるかであり 失われたものの回復 すなわち 再生 蘇りです。そこに介在する エッセンスが 愛 であり献身です。
わたしの ポーの一族 という作品への思い入れは エドガーが 自己愛から脱して 真実に気がつくこと 愛を知ること それがいつなのかということ。若さやいのちに拘泥し 他者のエナジーを求める ファルカやクロエというバムパネラがいて 対して老いた姿のままで居ることを選んだ老ハンナがいます。弟のために生きる少女ブランカを エドガーが見初めるのは エドガーの魂の成長への予兆のようにわたしには思えます。
エドガーにとって不死とは 賜物ではなく 業です。エドガーは ひとの生死を握るいわば残酷な神.....エドガーが 愛を知ったとき なにものかに捧げ得たとき その業が 終わるような気がします。失われたものの回復 すなわち トラウマの解消 、愛の成就。以前に書きましたが 萩尾作品のうち 好きなのは 秋の旅 スターレッド そして柳の木。魂のイニシエーション。
トラウマの解消 よみがえりについて わたしはきのう 素晴らしいアニメを見ました。それは クレヨンしんちゃんの 獏 の話でした。わたしは腹を抱えて笑い 幾度か泣きました。ひとりの少女の悪夢からの救済 をしんちゃんや 仲間や みさえやヒロシやひまわりがシロが懸命にする。戦う これこそ愛です。 春日部バンザイ さいたまバンザイ!!
絵柄が変わった それは瑣末のことのように思えます。ひとは変わってゆくのです。40年 年を経て 変わらないひとがありましょうか? 萩尾さんの絵は 山岸さんや大島さんと比べて 枯れていません。線はかそけき揺らぎを失い 自信に満ち 確かな筆致となったにしても。透明性は 如何せん 喪われたとしても 萩尾望都さんは 40年の間に人生で受け取ったものを見せてくれることでしょう。
このところいくつか 記事をUPしました。なぜかというと 体調がわるく 思うように身体が動かせないのです。それでベッドでブログを書き あとは無料スカパーの日だったのでクレヨンしんちゃんをみていました。 ブログのUPがないときって 行動を起こしてるとき バリバリ 働いている時なんですね。あすは 森は生きている 第二回 公演のはずだったのですが 残念 メンバーが揃わないので 語りの会になりそうだし 一年のスタートはイマイチというところ。
でも あしたから 戦いがはじまる。