二つ星の空

(旧「風からの返信」-11.21.09/「モーニングコール」/「夢見る灯台」/「海岸線物語」)

時の翼よ、もう少し待って

2009-05-30 14:30:25 | Weblog
いい天気です。
いろいろな面で体力の低下を感じる、そんな週末。年は取りたくないものです。

栗本薫さんが逝去されました。まだ50代だった。「グインサーガ」はまだまだ勢いをそのままに、続いていたのに。

栗本薫、という稀有な存在については、また、改めて書いてみたいです。エキセントリックな部分もあったけど、それも含めて、本当に「真の作家」だった。物語という表現世界の継承者としても、文学・文化を語る評論家としても、葛藤する現代女性としても、時代を支えた大きな存在だったんだ。(おいらは、女性作家の中でも、今の時代の中での彼女の創作をとても尊敬していた。彼女の生きてきた時代とか志向する文化とか、とても興味深かったんだ。)

なんだか、栗本(中島)さんに任せておけば、世の中は大丈夫、みたいに安心していた部分がおいらにはあって、その彼女が、この日本にもういない、という現実が、まだうまく受け止められない。でも、今は、せめて。

栗本薫さん、中島梓さん、どうぞ安らかに。ご冥福をお祈りいたします。

さて。

やりたいこといろいろ。間に合ってません。ブログ整理してたら、昔の原稿が出てきたので、ここで虫干し。どうも昨年の10月12日頃に書いたみたいです。何でこんなこと書いたのか覚えてませんが、殺菌?のために、一度晒してみます。

ここ数日、おいらの不安を少し払拭してくれるような電波(笑)を受信し始めている。世の中の良識が、動き始めている予感。テレビ番組のあちこちや新聞の片隅で知ったところでは、ちょっと元気が出る感じ。

だからこそ、半年前の不安を、ここに曝して、供養したいと思います。
ちょいわかりにくい文なので「ちょー暇」という人だけ用。忙しい人、わけわからんのは嫌な人、情報を求めてる人、等はスルーしてください(そんな人、このブログ覗かへんか(笑))

では、また。

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全然改善のない状況で。

わずかばかりのひっかかりを、ここに刻んでみよう。(以下、偽悪的駄文が続きます。気分悪くなるかもしれんから、生意気な文章嫌いな人は見ないでね。)



(1)ぼくらは、人に傾倒する。

日本人の多く(と言っては語弊があるだろうか)は、敗戦によってそれまでの価値観を粉砕され、道徳規範の拠り所としての宗教から切り離されてしまった。宗教は世界観であり、道徳律であり、目に見えず僕らを縛り、規制してくれるもの。今の僕らを見てみよう。それまでの価値観を失って、自由という言葉の元に、手に余る道徳律を自ら作り出すことなどかなわぬ僕らは、どこに信仰心、すなわち精神的な拠り所を求めている?それは、「世間」という漠然とした教典で、でも、どこにそれが書かれているかって、、、結局は、どこかの「個人」が表明した壁の落書きやうわさ話を選んでは、それに絶対的な信頼を置いていないか?そして、自分が自信をもって「正しい」と思えることなど、もうない、と信じて、沈黙しつづけていないか?
子供たちは、口をつぐんだ大人たちから学べない。雑誌やメディアが様々な商業的しがらみや憶測から提案する「刺激的でポップな」最先端を、「常識」だと考える。大人になっても同じだ。どこまでも五里霧中な生活の中で、巷にあふれる「情報通」の言うことを、ありがたく信奉して真似ている。その「情報通」の信念やセンスがどこから来るかなんて、疑いもせずに。そして、発信者も受信者も、決して悪意はないのだ。どこまでもつかまえられない「世間」を求めているだけで。




ぼくらは、人に傾倒する。神様も教えてくれない、親も教えてくれない、素敵な生き方を、ポップスターやアスリートの中に見つけようとする。

ぼくらは、人に傾倒する。相手を、食いつぶすまで神格化し、相手が人故に間違ったり試行錯誤するのを、許さない。十分に他罰的な子供の無邪気さで、相手を罰して押しつぶそうとする。

神格化し、追い詰め、崖から突き落とす。それは、原始社会から続く、人類の遺伝子に組み込まれた性質なのか。

ぼくらは、人に傾倒する。時の人に。偉大な人に。クールな人に。そして、その人を応援するだけでなく、その人の無謬性を追い求め、当人以上に誤謬を罰しようとする。神に成り代わって。ぼくらは、神を持たずに、神になったかのように、人を裁こうとするのだろうか。


(2)どこまでも優しくなれる。その一方で、どこまでも孤独は埋まらない。

ぼくらは、愛を学ぶことができる。笑顔をもらえば、赤ん坊でも笑顔を返せる。でも、いつのころからか、僕らは、自らは変わらぬまま、相手が変わることを望むようになる。それは、愛から離れてはいないか。僕らは時の中で生きている。僕らは時の流れを感じることができるはずだ。でも、僕らは待つことが苦手だ。相手が自分の思うとおりでないと、裏切られたと思う。そう思う心が、自分の裏切りかもしれないのに。

他方、「優しさ」とは何だろう。自分を律することで、ぼくらは、どこまでも「優しく」なれる錯覚を起こす。でも、ぼくらが優しさに挑戦するとき、自己満足に終わっていないか。「優しい自分」に酔っているだけなら、そこにはどうしても孤独と欺瞞が生まれるような気がする。その2つは、光が生み出す影のように、優しさと連れ添って、僕らの隣にいつの間にか立っている。



ぼくらは、どれだけ決意すれば、本当に優しく、強くなれるのだろう。愛という言葉を本当に実感するために、どれだけの自己欺瞞と、どれだけの無関心と、どれだけの誤解と戦わねばならないのだろう。繰り返し「愛」を練習する、果てしないその戦いは、どこまでいってもだれに褒められるわけでなく、結局のところ自己満足でしかない、という冷ややかな心の声が、僕らの体温を下げ続ける。



1つ分かっているのは、行動しなければならない、ということ。優しくなって、強くなって、手を伸ばさなかったら、何も変わらない、ということ。冬の極寒の中で、動物も植物も生き続けるように。春は、必ずやってくる。春を、沈黙させないために、ぼくらは、もっともっと、強く優しくなりたい。熱を保ち続けたいんだ。


(初稿2008.10.12.改稿12.20.掲載2009.05.30.)
コメント (2)
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