昨日のクローズアップ現代
「映画「ザ・コーヴ」問われる“表現”」(7月6日放送)
「ドキュメンタリー」と称される(あるいは、ドキュメンタリーの「ふりをする」)映画の中に、実は、「主張と結論のためのシナリオ」を補強するために、事実をねつ造したり、映像を編集し、本来それが撮られた現実とは違う意味づけをして、視聴者を誘導するものがある、という話。
その危険性について、どこまでが「表現の自由」と言えるのか、を、実際に物議をかもしている「ザ・コーヴ」の「映画作り」がいかに偏った(製作者にとって都合の良い)編集をされているかを検証しながら、解説されていた。
どんな優秀な「ドキュメンタリー」にも、視聴者にメッセージを伝えるための演出性はもちろん存在すると思うが、誠実な製作者なら、主張したいことはあきらかにしつつも、取材や映像の編集において、できるだけ視聴者が「先入観無く」その世界を理解できるように努力するだろう。(と信じたい。)
いくら「この世は主観だ」と言ったって、実際に起きなかった事件を、映像をつぎはぎして「あたかも起きたかのように」見せ、事実でないことまで堂々と実名入りで「創作」してしまう「ザ・コーヴ」の監督・製作者スタッフの神経に唖然としてしまった。
しかも、それについて問われても「我々の映画を見て気に入らないなら、そんなこと(イルカ漁)など、やめればいい」と言い放つ、その姿勢。
彼らは「力」を持っている。「金」と「メディア」というとてつもない力を。
ノンフィクション作家の吉岡忍氏(言論の自由に関して積極的に発言している人らしいが、おいらにとっては、尾崎豊氏の死に関する著作が記憶に強いな。。。)は、「この映画は「ドキュメンタリー」には見えない。和歌山県太地町の人達が、「ザ・コーヴ」に対抗できるよう、自分たちの主張を世界に発信すればいい」と言っていたが、何とも歯切れが悪い感じがした。(資本や技術、支持者の数が圧倒的に違うんじゃないか、と。。。)
「イルカ漁」に限って言えば、何十年も前の「カルチャー戦争」という作品(豊田有恒作だったかな?FM番組で聴いた)で、似たような話(フィクションだけど)を聴いたことがある。(古い話で恐縮です)
その中で印象に残っている台詞がある。
「イルカ漁が野蛮だ」と言って漁の網を切ってしまったアメリカ人青年に対して、主人公(おっさんサラリーマン?)が諭す場面だ。
「いいか、日本人は遙か昔からイルカを食ってきた。それを君は、「イルカはかわいいから」という理由で否定する。もし、日本人が「牛や豚が可哀想だ」と言って、アメリカで牛や豚を逃がしたらどうなる?リンチされるだろう?君は同じことをしたんだぞ。」
(30年以上も前の記憶なんで、細かいところは違ってるかも。。。)
そんで、このアメリカ青年がどうなったかというと、最初は敵対していた漁師の娘さんと恋に落ちて、お互いに「イルカのことはどーでもいい。あなたが好き」ということになってしまった、というオチだったような。。。
この番組は別に何の解決も示してはいなかったけれど、少なくとも「自分の価値観だけを是とする」ことの危険性を伝えていたと思う。(当時の「ティーンエージャー」にね(苦笑))
「多数派の論理」で言えば、「今の時代に、世界中から批判を浴びてまでイルカを捕らなくても、、、」という評論家は多いだろう。
しかし、「他国の文化であろうとも、批判・主張した者の勝ち」という構図があまりにあからさまなこの事態を黙認することは、イルカにとどまらず、あらゆる文化を攻撃することを許してしまうことにならないか。
あまりに一方的に世界的に好奇の目にさらされ、「ある思想を持った人達」から弾劾された太地町の人達。
おいらが「きな臭い」と感じるのは、その、一方的な構図だ。
製作者の価値観は、アメリカでの受賞という「世論の支持」を受けて、揺るぎないのかもしれない。だが、「真実でない映像」で人の支持を得る、という行為自体が、視聴者への背信行為とは言えないんだろうか。(「視聴者はそんなこと、見たくないさ。彼らが観たいものを、見せてるんだ」という、何かの映画のシニカルな台詞が頭の中でこだましつつも。)
本当に「イルカ漁の是非」を世に問うつもりだったら、あんな作り方はプライドが許さないだろう、とか思っちゃうおいらは、甘ちゃんでしょうか。
いや、「イルカ漁」についても「鯨漁」についても、色んな意見があるだろうし、それが悪いとは思わない。
でもね。
実際に、次は「マグロを食べるなんて」「エビを食べるなんて」「たこを食べるなんて」になってるんすよ。(流れとしては、今後そうなると思われ。これは、「文化」だけの問題ではなく環境的な問題も孕んでるから、たとえに出すのは筋違いかもしれないが。。。)
絶滅してしまうのは困るから、もちろん、闇雲に反対する気はないけどね。
(もっとも、寿司や刺身はもともと「高級品」で滅多に口に入らないものだったはず。廻る寿司とかスーパーで安値で流通してること自体が、人間という生き物にとって「分不相応」なのかもしれない。)
流通の管理は良いだろう。でも、ある民族の「食文化」そのものを、他民族の「そんなもの食べるなんて、グロ」とか言ってる人達の価値観に基づいて、そこまで否定される筋合いはあるのか、とか思ってしまったです。
う~ん、まとまらん。長いばかりですんません。
ま、いわばね。
いきなり、夕餉を囲む我が家に外国人カメラマンが土足で入り込んできて「この家の生活はなっとらん!」とか言われたような、そんな「上から目線の他文化蔑視」を感じてしまったんだよな。多分に感覚的で、すんません。
頭冷やしてもう少し考えてみたいです。
ともあれ。一番感じたこと。
太地町の皆さん、風評被害とご心労に心よりお見舞い申し上げます。
元気出してほしい。そして、自分に誇りを持って、でも、クールに、賢く、平和的に逆襲してほしい。
あ、おいらも結局は無力な「評論家」か?!。。。すんません。(反省)
「映画「ザ・コーヴ」問われる“表現”」(7月6日放送)
「ドキュメンタリー」と称される(あるいは、ドキュメンタリーの「ふりをする」)映画の中に、実は、「主張と結論のためのシナリオ」を補強するために、事実をねつ造したり、映像を編集し、本来それが撮られた現実とは違う意味づけをして、視聴者を誘導するものがある、という話。
その危険性について、どこまでが「表現の自由」と言えるのか、を、実際に物議をかもしている「ザ・コーヴ」の「映画作り」がいかに偏った(製作者にとって都合の良い)編集をされているかを検証しながら、解説されていた。
どんな優秀な「ドキュメンタリー」にも、視聴者にメッセージを伝えるための演出性はもちろん存在すると思うが、誠実な製作者なら、主張したいことはあきらかにしつつも、取材や映像の編集において、できるだけ視聴者が「先入観無く」その世界を理解できるように努力するだろう。(と信じたい。)
いくら「この世は主観だ」と言ったって、実際に起きなかった事件を、映像をつぎはぎして「あたかも起きたかのように」見せ、事実でないことまで堂々と実名入りで「創作」してしまう「ザ・コーヴ」の監督・製作者スタッフの神経に唖然としてしまった。
しかも、それについて問われても「我々の映画を見て気に入らないなら、そんなこと(イルカ漁)など、やめればいい」と言い放つ、その姿勢。
彼らは「力」を持っている。「金」と「メディア」というとてつもない力を。
ノンフィクション作家の吉岡忍氏(言論の自由に関して積極的に発言している人らしいが、おいらにとっては、尾崎豊氏の死に関する著作が記憶に強いな。。。)は、「この映画は「ドキュメンタリー」には見えない。和歌山県太地町の人達が、「ザ・コーヴ」に対抗できるよう、自分たちの主張を世界に発信すればいい」と言っていたが、何とも歯切れが悪い感じがした。(資本や技術、支持者の数が圧倒的に違うんじゃないか、と。。。)
「イルカ漁」に限って言えば、何十年も前の「カルチャー戦争」という作品(豊田有恒作だったかな?FM番組で聴いた)で、似たような話(フィクションだけど)を聴いたことがある。(古い話で恐縮です)
その中で印象に残っている台詞がある。
「イルカ漁が野蛮だ」と言って漁の網を切ってしまったアメリカ人青年に対して、主人公(おっさんサラリーマン?)が諭す場面だ。
「いいか、日本人は遙か昔からイルカを食ってきた。それを君は、「イルカはかわいいから」という理由で否定する。もし、日本人が「牛や豚が可哀想だ」と言って、アメリカで牛や豚を逃がしたらどうなる?リンチされるだろう?君は同じことをしたんだぞ。」
(30年以上も前の記憶なんで、細かいところは違ってるかも。。。)
そんで、このアメリカ青年がどうなったかというと、最初は敵対していた漁師の娘さんと恋に落ちて、お互いに「イルカのことはどーでもいい。あなたが好き」ということになってしまった、というオチだったような。。。
この番組は別に何の解決も示してはいなかったけれど、少なくとも「自分の価値観だけを是とする」ことの危険性を伝えていたと思う。(当時の「ティーンエージャー」にね(苦笑))
「多数派の論理」で言えば、「今の時代に、世界中から批判を浴びてまでイルカを捕らなくても、、、」という評論家は多いだろう。
しかし、「他国の文化であろうとも、批判・主張した者の勝ち」という構図があまりにあからさまなこの事態を黙認することは、イルカにとどまらず、あらゆる文化を攻撃することを許してしまうことにならないか。
あまりに一方的に世界的に好奇の目にさらされ、「ある思想を持った人達」から弾劾された太地町の人達。
おいらが「きな臭い」と感じるのは、その、一方的な構図だ。
製作者の価値観は、アメリカでの受賞という「世論の支持」を受けて、揺るぎないのかもしれない。だが、「真実でない映像」で人の支持を得る、という行為自体が、視聴者への背信行為とは言えないんだろうか。(「視聴者はそんなこと、見たくないさ。彼らが観たいものを、見せてるんだ」という、何かの映画のシニカルな台詞が頭の中でこだましつつも。)
本当に「イルカ漁の是非」を世に問うつもりだったら、あんな作り方はプライドが許さないだろう、とか思っちゃうおいらは、甘ちゃんでしょうか。
いや、「イルカ漁」についても「鯨漁」についても、色んな意見があるだろうし、それが悪いとは思わない。
でもね。
実際に、次は「マグロを食べるなんて」「エビを食べるなんて」「たこを食べるなんて」になってるんすよ。(流れとしては、今後そうなると思われ。これは、「文化」だけの問題ではなく環境的な問題も孕んでるから、たとえに出すのは筋違いかもしれないが。。。)
絶滅してしまうのは困るから、もちろん、闇雲に反対する気はないけどね。
(もっとも、寿司や刺身はもともと「高級品」で滅多に口に入らないものだったはず。廻る寿司とかスーパーで安値で流通してること自体が、人間という生き物にとって「分不相応」なのかもしれない。)
流通の管理は良いだろう。でも、ある民族の「食文化」そのものを、他民族の「そんなもの食べるなんて、グロ」とか言ってる人達の価値観に基づいて、そこまで否定される筋合いはあるのか、とか思ってしまったです。
う~ん、まとまらん。長いばかりですんません。
ま、いわばね。
いきなり、夕餉を囲む我が家に外国人カメラマンが土足で入り込んできて「この家の生活はなっとらん!」とか言われたような、そんな「上から目線の他文化蔑視」を感じてしまったんだよな。多分に感覚的で、すんません。
頭冷やしてもう少し考えてみたいです。
ともあれ。一番感じたこと。
太地町の皆さん、風評被害とご心労に心よりお見舞い申し上げます。
元気出してほしい。そして、自分に誇りを持って、でも、クールに、賢く、平和的に逆襲してほしい。
あ、おいらも結局は無力な「評論家」か?!。。。すんません。(反省)