浦沢直樹「PLUTO」を米イルミネーションが実写化 - goo 映画
感慨深いです。できればアニメで見たかったけどな。実写化は楽しみではあるけど、どんなできになるかは、正直怖い^-^;
浦沢直樹は稀代の天才。画力も物語る力も演出力も、そして、究極の達観、すなわち、いろいろなこだわりから自由である、というところも。
以上はおいらの勝手な浦沢直樹観です。でも、ほんと、あの人の強さが好きだなぁ。(ご本人は「いろいろあるんだ!知らんだろうが!」と叫んでるかもしれないですね。すんません。でも、いろいろあっても、それと格闘しつつ、視点はしがらみ越えちゃってる、という雰囲気を感じて、その武士のように端然とした風情がかっこいいのです。)
PLUTOで描かれていたのは、手塚治虫が創り出した「鉄腕アトム」の世界。
でも、その世界は、浦沢直樹の中を通ることで、現代という時代を映し出していました。
今の我々がニュースを見たり新聞を読んだりして、殺伐とした「現代人の心の闇」を感じる時、溜息をつきたくなるような気分の反動として「人間って、もっとマシじゃなかったか?」という疑問が、頭をよぎることが多いと思います。
浦沢直樹の作品に出てくる人間は、とても心が綺麗な人が多い。
ちょっと「こんな人いないだろ?」と、表面上は斜に構えてしまいたくなるぐらい、高潔な人格が描かれていることが多いのです。
おそらく、彼は意識してそういう人物を生み出しているのだと思う。「善人」のそばには、必ずといって良いほど「我欲の固まり」のような利己的な人間が出てくるから。
PLUTOでもその浦沢的人物造型は健在なのですが、皮肉なことに(多分、狙ったんだろうけど(笑))、ロボットこそがとても「人間らしく」描かれている、という潔い演出がすごくて、読んでいて唸ったのでした。
PLUTOの中のヒーロー達は、「ロボット」です。そして、彼らは、人間としての温かさ、知性と理性と情緒を美しいバランスで持ち合わせている。その一方で、生きた人間である我々は「本当の人間達の姿」を忘れかけていないか、と、問いかけられているように感じるのです。
PLUTOの中のロボットは、「涙」を流します。その意味とは・・・?と考えると、果てしない気持ちになります。
気持ちって何だろう。感情って何だろう。(我々の感情が、微細な脳内物質や神経伝達物質によって支配されていることを、我々はとうに知るようになってしまっているのですから、「人間だけがものを感じられる」と言い張ることは難しいと思うのです。そして、人間と生まれても、他人に共感のできない人間は山ほどいるのも事実です。)
そんなこんなを考えると、「涙を流せるって素晴らしいなぁ」としみじみ感じたのです。
以前、こんな詩を書きました。PLUTOを読んで、2007年の2月にアップしたのですが、この詩自体はとても古いもので、最初に書いたのは10代の終わりか20才ぐらいの頃(つまり、当時の20年前!)でした。
この頃、なぜか「情緒のスイッチ」がOFFっていて、どうしても哀しいとか嬉しいとかの気持ちがわきあがらず、「おいら、ロボット?」と自問しながら生活していました。
哀しい時に、涙も出ないし、怒ることもできない。とにかく感情の起伏がなさ過ぎる。
周囲に合わせて笑ったり哀しそうな顔をすることくらいはできますが、一歩間違えれば「人でなし」です。(脊髄反射的な感情反応がないんですから(汗)。)
いろいろ悩んだあげく、「自分をロボットだと思って、感情のプログラム組んで『学習』すれば、何とかなるか?」なんてアホなことを(けっこう真剣に)考えていました。周囲の人達は「人間」だなぁ、と、良い面も困った面も含めて、何だか羨ましく見ていました。
その頃に見た夢が、これです。
生々しい感情に、ためらいもなく染まっている自分がいました。
笑ったり怒ったり泣いたりしながら、その状態にとまどいつつ、どこかで「超気持ちいい!」と感じている自分がいました。
幸せな気分で目が覚めて「あんな風になれたらいいなぁ」と、思った朝。
その10年後には、人一倍涙もろく情緒的になっていました(^-^;)。
まぁ、カミングアウトするような武勇伝ではないのですが(苦笑)、PLUTOのロボット達を見ていて、そんな頃の気持ちを急に思いだした、ということです。
昔、読んだ本にあった。「愛は、学んで得る技術である」(by木田恵子)
あらゆるものが、遺伝子の記憶だったり、幼少期の記憶だったり、習慣だったり、ドーパミンの問題だったり、、、
だとしたら、ぼくらは、学ばなければ。アトムらができるように。
心から愛せるように。悲しめるように。共感できるように。喜べるように。怒れるように。後悔できるように。
無駄に長くてわけわからん今日の記事。いつにも増してすんません。
では、また^-^
(10月22日改訂)
感慨深いです。できればアニメで見たかったけどな。実写化は楽しみではあるけど、どんなできになるかは、正直怖い^-^;
浦沢直樹は稀代の天才。画力も物語る力も演出力も、そして、究極の達観、すなわち、いろいろなこだわりから自由である、というところも。
以上はおいらの勝手な浦沢直樹観です。でも、ほんと、あの人の強さが好きだなぁ。(ご本人は「いろいろあるんだ!知らんだろうが!」と叫んでるかもしれないですね。すんません。でも、いろいろあっても、それと格闘しつつ、視点はしがらみ越えちゃってる、という雰囲気を感じて、その武士のように端然とした風情がかっこいいのです。)
PLUTOで描かれていたのは、手塚治虫が創り出した「鉄腕アトム」の世界。
でも、その世界は、浦沢直樹の中を通ることで、現代という時代を映し出していました。
今の我々がニュースを見たり新聞を読んだりして、殺伐とした「現代人の心の闇」を感じる時、溜息をつきたくなるような気分の反動として「人間って、もっとマシじゃなかったか?」という疑問が、頭をよぎることが多いと思います。
浦沢直樹の作品に出てくる人間は、とても心が綺麗な人が多い。
ちょっと「こんな人いないだろ?」と、表面上は斜に構えてしまいたくなるぐらい、高潔な人格が描かれていることが多いのです。
おそらく、彼は意識してそういう人物を生み出しているのだと思う。「善人」のそばには、必ずといって良いほど「我欲の固まり」のような利己的な人間が出てくるから。
PLUTOでもその浦沢的人物造型は健在なのですが、皮肉なことに(多分、狙ったんだろうけど(笑))、ロボットこそがとても「人間らしく」描かれている、という潔い演出がすごくて、読んでいて唸ったのでした。
PLUTOの中のヒーロー達は、「ロボット」です。そして、彼らは、人間としての温かさ、知性と理性と情緒を美しいバランスで持ち合わせている。その一方で、生きた人間である我々は「本当の人間達の姿」を忘れかけていないか、と、問いかけられているように感じるのです。
PLUTOの中のロボットは、「涙」を流します。その意味とは・・・?と考えると、果てしない気持ちになります。
気持ちって何だろう。感情って何だろう。(我々の感情が、微細な脳内物質や神経伝達物質によって支配されていることを、我々はとうに知るようになってしまっているのですから、「人間だけがものを感じられる」と言い張ることは難しいと思うのです。そして、人間と生まれても、他人に共感のできない人間は山ほどいるのも事実です。)
そんなこんなを考えると、「涙を流せるって素晴らしいなぁ」としみじみ感じたのです。
以前、こんな詩を書きました。PLUTOを読んで、2007年の2月にアップしたのですが、この詩自体はとても古いもので、最初に書いたのは10代の終わりか20才ぐらいの頃(つまり、当時の20年前!)でした。
この頃、なぜか「情緒のスイッチ」がOFFっていて、どうしても哀しいとか嬉しいとかの気持ちがわきあがらず、「おいら、ロボット?」と自問しながら生活していました。
哀しい時に、涙も出ないし、怒ることもできない。とにかく感情の起伏がなさ過ぎる。
周囲に合わせて笑ったり哀しそうな顔をすることくらいはできますが、一歩間違えれば「人でなし」です。(脊髄反射的な感情反応がないんですから(汗)。)
いろいろ悩んだあげく、「自分をロボットだと思って、感情のプログラム組んで『学習』すれば、何とかなるか?」なんてアホなことを(けっこう真剣に)考えていました。周囲の人達は「人間」だなぁ、と、良い面も困った面も含めて、何だか羨ましく見ていました。
その頃に見た夢が、これです。
生々しい感情に、ためらいもなく染まっている自分がいました。
笑ったり怒ったり泣いたりしながら、その状態にとまどいつつ、どこかで「超気持ちいい!」と感じている自分がいました。
幸せな気分で目が覚めて「あんな風になれたらいいなぁ」と、思った朝。
その10年後には、人一倍涙もろく情緒的になっていました(^-^;)。
まぁ、カミングアウトするような武勇伝ではないのですが(苦笑)、PLUTOのロボット達を見ていて、そんな頃の気持ちを急に思いだした、ということです。
昔、読んだ本にあった。「愛は、学んで得る技術である」(by木田恵子)
あらゆるものが、遺伝子の記憶だったり、幼少期の記憶だったり、習慣だったり、ドーパミンの問題だったり、、、
だとしたら、ぼくらは、学ばなければ。アトムらができるように。
心から愛せるように。悲しめるように。共感できるように。喜べるように。怒れるように。後悔できるように。
無駄に長くてわけわからん今日の記事。いつにも増してすんません。
では、また^-^
(10月22日改訂)