ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

日本から離れて

2009年03月26日 | ひとりごと
ロンドン在住のKYOさんのブログに、『海外に住むということ』についての彼女の思いがつづられています。
ロンドンで最初に通った英語学校で知り合った14年来の友人が脳卒中で倒れ、たまたまウィーンに旅行中だった友人のご両親を呼び寄せ、
病院まで付き添ったり通訳のお手伝いをしたり、手術後の友人のお見舞いにおにぎりを持参したりと、とても適切で温かな心のこもった世話を続けているKYOさん。
KYOさんはその記事の中で、海外に住むということは、日本人同士としての共同体の中にいる自分を強く意識することでもあると締めくくっています。

わたしはその記事を読みながら、自分の友人Sの泣き顔を思い出していました。
Sとわたしは、わたしがこちらに引っ越してから初めて逢い、逢ったその日からとても馴染み深い想いがして、すぐに大の仲良しになりました。
ただ、彼女もわたしも、同じような悪い癖があり、連絡下手というか無精というか、自分からなかなか動かないので、
結構近くに住んでいながら、最も逢う機会が少ない最も仲良しな友達として、もう9年もの歳月が過ぎてしまいました。
そんなある日のこと、「まうみ、あかん、腰やってしもた」と、いつもの元気百倍の声とは程遠い彼女の声が、受話器の向こうから聞こえてきました。
様子を聞いているうちに、これはかなりひどいというのが分かってきたので、「今から行こか?」と言うと、「甘えてもいい?」というS。
なに言うてんの、当たり前や!と心の中で叱りながら、頭の中では準備する物を考えていました。
Sは体育会系元気印、食べることがだぁ~い好き。けれども今は、一歩も動けず、座ることもできず、椅子に寄りかかって立ったまま独りで苦しんでいます。
彼女の家までは車で30分かかるので、とにかく行って、彼女をベッドまで動けるよう補助し、できればベッドの上に寝かせてあげようと思いました。
家にあった牛蒡とご飯、それからメロンをビニール袋に入れ、彼女の家に急ぎました。
ドアを開けると、椅子のもたれに両手を突き、少しだけ前のめりになった彼女が、青ざめた顔で立っていました。
彼女の脇に肩を入れ、2センチ、3センチと足の裏をズルズルと前に進め、寝室までの、あんなに遠いと思ったことが無かった距離を移動しました。
長い時間がかかったけれど、とりあえずベッドの上に座ることができたので、わたしは彼女を置いて台所に行き、おにぎりと金平牛蒡を作る間、水分補給にとメロンを一口サイズに切って彼女の所に持っていきました。
金平がほぼ出来上がり、温めたおにぎりを寝室に持って行くと、Sがメロンを食べながら、ポロポロと涙をこぼしていました。
その姿を見た途端、彼女がどんなに恐い思いをしていたか、痛い思いを堪えていたかを思い知り、わたしも思わずもらい泣きをしてしまいました。
「嬉しかってん。まうみに来てもろてほんまに嬉しかってん」と、Sはそれからもしばらく泣いていました。
「あほやな、そんなん当たり前やんか」そう言いながら(お互い日本から離れて頑張ってる仲間やんか!)と、胸の中で叫んでいる自分に気がつきました。

日本を離れなかったら多分、一生感じることもなかったかもしれない共同体意識。このちょっぴり切なくも柔軟で張りのある意識は、今やわたしの心の支えになっています。
それを再認識させてくれたKYOさん、ありがとう。


そしてもうひとつは、わたしは日本人であるという意識。
このことについて、ここ数日間、わたしはじっくり考え込んでいます。
先日のWBCでの、日本チームへの思いは、選手の方々の日本を背負って戦う姿を自分に照らし合わせているからこその熱さだったのかもしれません。
わたしがこちらに暮らしていることなど、彼らに比べたら屁でもないのだろうけど、わたしらしい規模の中で、たとえそれがとても些細なことであっても、日本を背負っていることを感じます。
例えば、出張レッスンに行っている生徒の親から、「まうみはすごい。レッスンに遅れて来ないし、遅れる場合は必ず連絡を入れてくれる」なんてとんちんかんなことで褒められたりすると、心の中で(日本じゃこんなこと当たり前だ)と思いながら顔で笑ってたり、
伴奏バイトの初回合わせの日までに、どれだけ曲数が多くても、とりあえず仕上げて行くこと、譜めくりし易いように楽譜をアレンジしていくこと、遅刻をしないことなどについて、アメリカンはとてもびっくりするのだけれど、そんなのは自分にとって当たり前だと思う時もやっぱり(だってわたしは日本人だもの)と思ってたりします。
でも、これって全く根拠の無い思いとも言えます。だって、日本人にもだらしのない人やきちんとすることなんてバカらしいと思っている人がいるだろうし、
当たり前だと思っているわたしも、時には遅刻したり、適当に誤摩化しながらその場を取り繕ったりすることもありますもんね。

人から褒められたり、自分で誇りに思ったりする時の心の背中に、(わたしは日本人だもの)、と胸を張っている自分が見えるのです。
結局のところそれは、日本人ってなかなかいいでしょ、すごいでしょ、と他の国の人達に伝えたい、見せたい自分がいるっていうことなんでしょうか。

日本から離れて生きるのはいろんな面で大変だったりするけれど、その分得たものも多く、その栄養が心を育てているような気がします。
日本人であるということはきっと、いくつになっても、この先ずっと日本に住むことが無くても、わたしにとって誇りであり続けると思います。
コメント (5)
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