ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

雪が教えてくれたこと

2014年02月17日 | ひとりごと
ネットがようやく使えるようになりました。
降り積もった雪と氷の下で、ケーブルの回線がちょん切れていたようです。
旦那が見つけて、なんとかしようと頑張ってくれましたが叶わず、今朝、ケーブル会社の修理人さんがやって来てくれて、無事直りました。
こちらでは、こういう修理などの際に、むこうが「朝の9時から11時までの間に来るから~」などと言ってもほぼ来ない、ひどい時には全く来ないということもあるので、
かなり期待せずにいましたが、なんと、時間内にちゃんと来てくれたばかりか、きっちり直してくれたので、大大感謝です!

この間、情報源は、携帯で見るツィッターのみに限られていましたが、その間、日本も雪の被害がとても酷かったので、とても心配していました。
そしているうちに、高速で取り残されていた方が車の中で亡くなられたというニュースを読み、大きなショックを受けました。
それと同時に、他人事ではない、忘れられない思い出が、強烈に蘇ってきました。

それは、今から4年前の、長男の誕生日に起こりました。
その日は、長男の大学の卒業式でもありました。
彼が1年生の時、わたしの50才の誕生日の翌日に、大勢の学生が射殺された事件があった大学です。
彼はこちらに強制?移住させられてから、わずか4年とちょっとで、大学受験をしなければならないという過酷な状況を乗り越え、
途中でとても落ち込んだり、混乱したりして、卒業がかなり危ぶまれたこともありましたが、なんとか踏ん張って立ち直り、4年半で晴れの卒業を迎えたのがこの日なのでした。

その日の詳しい様子は、↓この記事に書きました。
『地獄と天国』

卒業式が終わり、天気予報が大雪警報を出していたのですが、なんとなくいけそう(←この考え方が災いを呼ぶのですね)だと思い、昼食を食べた後、帰宅の準備をのんびりとしてしまいました。
予報通りに、みるみる空の様子がおかしくなり、気がついた時にはもう大雪!
1時間も経たないうちに、10センチ以上も積もってしまいました。

慌てて道路に出ましたが、もう道はスケートリンク状態。
バージニア州のその地域では、雪そのものが珍しいというか、降っても積もるようなことはあまりありません。
なので、道路では、ツル~ツル~と、あらぬ方向に滑って行く車が後を絶たず、ひどい渋滞となってしまいました。
やっとの思いで、ニュージャージーへと続く高速に上れた時にはもう夕暮れ。
そして道路には雪が降り積もり、いったいどこがどの線なのかわからなくなっていましたが、それでも車は、ゆっくりではありましたが、滞ることなく動いていました。
わたしは、日本でいる間に、何度か、大雪の中の高速で運転をしたことがあったので、これなら行けるかもしれない、などと考えていました。
ところが、冬には極寒になるペンシルバニア州で育った旦那は、それとは正反対の意見を持っていました。

とにかく、いったんここで考えをまとめよう。
その時、そのまま突っ走る気まんまんで渋っていたわたしを説得して、入ったのがこのガソリンスタンドでした。


そこには、たくさんのドライバーと家族が、同じように、どうすべきかを決めかねていました。
最寄りの町で宿泊ができないものかと、あちこちに電話をかけても、どこも満室。
うーん、どうしたものか……と、1時間ぐらい居たかもしれません。

その日の翌日は、旦那母の70才の誕生日祝いのパーティがあり、わたしはそのパーティでピアノを弾くことになっていて、どうしても家に戻って練習をしたかったのでした。
なので、帰ることしか考えていなかったのです。
そして、帰れると思い込んでいました。多分大丈夫だろうと。

渋る旦那を説得して、高速に戻りました。
戻ってほんの10分ほど経った時、急に車が止まってしまいました。


始めは原因が分からず、事故なら1時間から数時間はかかるかもしれないと、誰もが思いながら、ただただ車の中で待っていました。
ところが、1時間経っても2時間経っても、3時間経っても、全くなんの変わりも動きもありません。
これはおかしいのではないか?と、そろりそろりと、車の外に人が出始めました。

ガソリンは、寄ったスタンドで満タンにしてあったので、とにかくエンジンだけは切らないでおくことにしました。
前の車からの排気ガスが入らないよう、室内循環にして、時々窓を開けて空気を入れ替えたりしました。
近くに止まっていたトラックの運転手さんが、無線で聞いた情報を教えてくれました。
あともう少ししたら、助けが来てくれるらしい。
真っ暗な中、真っ白な雪だけが降り続く、とても静かな夜でした。

携帯の電波状態がとても悪かったので、頼りはカーラジオ。
地元局のニュースで、渋滞で取り残されている場所の名前が次々に伝えられているのですが、なぜか我々の場所だけアナウンスされないまま、時間だけが過ぎていきました。
一睡もしないで待つだけの時間というのは、本当に長い。
その長さと苛立ちと恐さ。
今回の、日本の雪のニュースを読みながら、しみじみと思い出したのです。

長い長い夜がようやく明けて、周りの様子がやっと見えてきました。




ワンちゃんもいたんです。それも何匹も。


そして運が良かったことに、歩いて行ける距離の所に、トイレ休憩所があることがわかり、皆が順番に使うことができました。
その時にわかったことですが、中には赤ちゃんやお年寄り、持病が悪化しかけている人、薬の補給をしなければならない人などがいて、
とにかく、一刻も早い救援を必要としている人が少なくないことを知りました。

そして実に、車が止まってしまってから12時間後に、トラックの運転手が窓から大きく手を振り、出発の合図の警笛を鳴らしてくれました。

動き始めたことは本当に本当に嬉しかったけれども、この道は恐かった!本当の本当に恐かった!






道路のあちらこちらに、見事にひっくり返っている車が何台も。


延々と続く、恐ろしい道。


この除雪車で、徹夜で除雪し続けてくれてたのです。それでも12時間かかった、ということなのですね。


途中で、やっとやっとここで、食べ物と飲み物にありつけました。
食べたり飲んだりすると、トイレに行きたくなるからと、ずっと何も口にしなかったのでした。


と、こんなふうに我々は、今回、日本で被害に遭われた方々と比べたらわずか12時間で、なんとか帰途につけたのですが、
それでももう二度と、雪や雨を安易に考えてはいけないという、とても貴重な教訓になりました。
わたしはそれまでやっぱり、心のどこかで、大丈夫だから、という気持ちを持ってしまいがちなところがありました。
それとは反対に、旦那はまず、大丈夫ではないかもしれない、という考えがまず先にあるのだと思います。

でもわたしは、今回被害に遭われた方が、わたしのような考え方だったから、などと言っているのではありません。
そういう方もおられたかもしれませんが、そうではなく、たまたまタイミングが悪かったり、他の事情があった方もおられたと思います。

そして、これはわたし自身に限って言えることですが、
やはりわたしは、周りの状況を自分の目でよく観察したり、自分の頭で考えたり、情報を集めたり調べたり、その上でどうすべきかを決めたりする、
そういう一連の、大人ならば当然できなければならない作業を、怠ってきたのだと思います。
生きていく上で、それはそれはいろんな辛い経験をしてきたのに、どちらかというと、しっかり見据えると余計に辛くなると感じていたからか、
見なかったことにする、なかったことにする、そういう妙な癖がついていたのかもしれません。

アメリカの東海岸の慣習や文化、それから考え方が、自分の人生に加わって初めて、目を覚まされることがたくさんありました。
そしてあの11日。

わたしたちはもう、自分の身は自分で守る。
自分の子や家族も、それぞれ彼ら自身が守る。
そんなふうにしっかりしないと、生き残れないような社会に生きているのかもしれません。