このブログは、友人かおりちゃんのおかげ?で、始まりました。
それは今から5年半前、2008年の8月のことでした。
それからはぼちぼちと、はじめは日記のつもりで書いていましたが、2011年の3月以降は、ちょっと様変わりしてしまいました。
それでもやっぱり基本は、自分がどういうことを考えたり見たり、そして行動したりしていたかを、書き残しておきたいと思って書いています。
なので、中には、そんなことまで公に?というような内容を、書いていることがあります。
特に、身内のことについては、本当は、こういう場で話すべきではないのではないか?と、注意を受ける時もあります。
けれども、それがわたしなのです。
こうやって書いたり話したりすることできっと、まだもやもやとしている気持ちを整理しているのだと思います。
なので、読み辛いとお感じの方はどうぞ、読み飛ばしてください。
先日10日は、父の命日でした。
命の日と書いて、亡くなった日。
なんだか不思議な気もします。
先々週の金曜日に、家猫の容態がとても危くなり、死というものが急に間近に感じられたので、
気功瞑想の後の対話の時間に、身内の死ということについての話になりました。
クラスメイトのマリアンが、ホスピスに入院していた父親の最期の話をしてくれました。
「父がホスピスに入院する際に、茶色の箱を渡された。
その中身は見ないようにと言われた。
父がいよいよ危ないという時になって、伯母と看護士が目配せをして、茶色の箱が看護士に手渡された。
それはきっと、父の死期を早めるためのものだったに違いない、と自分は感じ取っていたのに、それを止めることができなかった。
それを今もすごく悔やんでいる」
その話を聞いているうちに、わたしの脳裏に、あの3日間がまた、とても鮮明に蘇ってきました。
たまらなくなって、気がつくと、話し始めていました。
「マリアンはいいよ、わたしなんかより全然いいよ。
わたしは、たったの2日間、モルヒネの投与が増えて朦朧としていた父が、夜中にとても暴れて手に負えなかった、
ただそれだけで、その夜の担当だった、父がとても嫌っていた看護士が、モルヒネをさらに増やしましょうか?という問いを目でされて、つい頷いてしまった。
父はただ、部屋から出たかっただけなのに。
部屋から出て、家に帰りたかっただけなのに。
家に帰る途中で、上六の近鉄百貨店の天ぷら屋で、天ぷらを食べたかっただけなのに。
だから、体につながってる管を全部引っこ抜いて、自由になりたかっただけなのに。
それをわたしは、ただ自分が辛かったからって、父の死を早めることを知ってて頷いた」
もうこういうふうには考えない。
わたしが父を殺したのではなく、癌という病に襲われて死んだのだ。
父の死期を早めたのは事実だけども、それはまた、彼を苦しみや痛みから開放したとも考えられる。
そんなふうに考えられるようになり、思い出しても泣かなくなり、自分なりに整理できてきたのかなと思っていたのに、
涙がバアッと溢れ出てきて、自分でもびっくりしてしまいました。
でも、ミリアムがこんなふうに言ってくれました。
「わたしも、分身のような、親友のような母を亡くした時、3年間ずっと、大泣きしていた。
それだけ泣かないと、納得できなかったのだと思う。
人も動物も、そうやって、思い出してくれる人の中で生きている。
いろんな感情といっしょに思い出すことは、その人の命がうんとカラフルになる。
泣きながら、笑いながら、怒りながら、どんどん思い出して」
今年の命日は、ショーティの退院の日と重なりました。
父がきっと、連れて帰ってきてくれたのだと思います。
なのに、今年に限って、美味しいものを作ってあげることができませんでした。
今週末に、好きだった日本酒と、弟からリクエストされた『白菜と豆腐だけの湯豆腐』⇒絹ごしで、を作ってお供えしようと思います。
弟はほんとに、家族思いの、情の深い男だと思います。
父はいい息子を、そしてわたしはいい弟に恵まれました。
↓下記は、これまでの『父の命日』の記録です。
2009年2月10日
2010年2月10日
2011年2月10日
2012年2月10日
2013年2月10日
それは今から5年半前、2008年の8月のことでした。
それからはぼちぼちと、はじめは日記のつもりで書いていましたが、2011年の3月以降は、ちょっと様変わりしてしまいました。
それでもやっぱり基本は、自分がどういうことを考えたり見たり、そして行動したりしていたかを、書き残しておきたいと思って書いています。
なので、中には、そんなことまで公に?というような内容を、書いていることがあります。
特に、身内のことについては、本当は、こういう場で話すべきではないのではないか?と、注意を受ける時もあります。
けれども、それがわたしなのです。
こうやって書いたり話したりすることできっと、まだもやもやとしている気持ちを整理しているのだと思います。
なので、読み辛いとお感じの方はどうぞ、読み飛ばしてください。
先日10日は、父の命日でした。
命の日と書いて、亡くなった日。
なんだか不思議な気もします。
先々週の金曜日に、家猫の容態がとても危くなり、死というものが急に間近に感じられたので、
気功瞑想の後の対話の時間に、身内の死ということについての話になりました。
クラスメイトのマリアンが、ホスピスに入院していた父親の最期の話をしてくれました。
「父がホスピスに入院する際に、茶色の箱を渡された。
その中身は見ないようにと言われた。
父がいよいよ危ないという時になって、伯母と看護士が目配せをして、茶色の箱が看護士に手渡された。
それはきっと、父の死期を早めるためのものだったに違いない、と自分は感じ取っていたのに、それを止めることができなかった。
それを今もすごく悔やんでいる」
その話を聞いているうちに、わたしの脳裏に、あの3日間がまた、とても鮮明に蘇ってきました。
たまらなくなって、気がつくと、話し始めていました。
「マリアンはいいよ、わたしなんかより全然いいよ。
わたしは、たったの2日間、モルヒネの投与が増えて朦朧としていた父が、夜中にとても暴れて手に負えなかった、
ただそれだけで、その夜の担当だった、父がとても嫌っていた看護士が、モルヒネをさらに増やしましょうか?という問いを目でされて、つい頷いてしまった。
父はただ、部屋から出たかっただけなのに。
部屋から出て、家に帰りたかっただけなのに。
家に帰る途中で、上六の近鉄百貨店の天ぷら屋で、天ぷらを食べたかっただけなのに。
だから、体につながってる管を全部引っこ抜いて、自由になりたかっただけなのに。
それをわたしは、ただ自分が辛かったからって、父の死を早めることを知ってて頷いた」
もうこういうふうには考えない。
わたしが父を殺したのではなく、癌という病に襲われて死んだのだ。
父の死期を早めたのは事実だけども、それはまた、彼を苦しみや痛みから開放したとも考えられる。
そんなふうに考えられるようになり、思い出しても泣かなくなり、自分なりに整理できてきたのかなと思っていたのに、
涙がバアッと溢れ出てきて、自分でもびっくりしてしまいました。
でも、ミリアムがこんなふうに言ってくれました。
「わたしも、分身のような、親友のような母を亡くした時、3年間ずっと、大泣きしていた。
それだけ泣かないと、納得できなかったのだと思う。
人も動物も、そうやって、思い出してくれる人の中で生きている。
いろんな感情といっしょに思い出すことは、その人の命がうんとカラフルになる。
泣きながら、笑いながら、怒りながら、どんどん思い出して」
今年の命日は、ショーティの退院の日と重なりました。
父がきっと、連れて帰ってきてくれたのだと思います。
なのに、今年に限って、美味しいものを作ってあげることができませんでした。
今週末に、好きだった日本酒と、弟からリクエストされた『白菜と豆腐だけの湯豆腐』⇒絹ごしで、を作ってお供えしようと思います。
弟はほんとに、家族思いの、情の深い男だと思います。
父はいい息子を、そしてわたしはいい弟に恵まれました。
↓下記は、これまでの『父の命日』の記録です。
2009年2月10日
2010年2月10日
2011年2月10日
2012年2月10日
2013年2月10日