まだそんなことをうだうだと考えてんのか?
などと言わんといてください。
ずっと考えてるんです。
なんでかっていうと、あの数週間、ほんまのほんまに悩ましかったからです。
なんであんなことになったんか、なんであんなことにしかならんかったんか……。
けども、もう終ってしもたんやから、もう気持ちを入れ替えて前に進まなあかんねんな。
いったい、こういうパターンを、これまでの3年近く、何回繰り返してきたのやら……。
これって、どないしたら、もうちょっとマシな結果を出せるようになるんやろ。
それを悶々と考えてるうちにまた……バタバタと慌てて必死でなんとかしようとしても間に合わず……気を取り直して……の堂々巡り。
あかんでこれでは。
どないもこないも、前に進んでる実感がわいてけえへんのです。
『一本化』の次は『ノーサイド』……。
どっちの言葉にも、めっちゃ違和感ありまくりで、全然腑に落ちんかったんです。
けど今夜、監督の見解とアイディアを読んで納得しました。
『徹底的な対話と意見の擦り合わせ』
そうや!これや!と思いました。
またまた私事で申し訳ないんですけども、米国人の旦那と暮らし始めて、一番はじめに言われたことが、
「あんたは、適当にしゃべってる時はええけれども、シリアスなことで話し合うのは下手やね」でした。
話してる件を、その時その場で、とにかくまとめようとする。
まとまらんかったら、どんどん気分を害する。
気分が悪なったら、捨て鉢な台詞を吐いて(例えば「もうええわ!」みたいな)その場から去ろうとする。
人の意見を聞いてるようなふりしてるけど、聞いてる間にやってることは、自分は次に何を言うて相手を負かそうか考えてる。
まったくその通り!やったので、反論できませんでした。
相手の考えを聞き、それを自分の中で十分に咀嚼し、どう思うかを自身に問う。
その場その時に、結論が出なくても、話せてよかったと思える。
また後で、何度も何度も、互いに擦り合せられるまで、同じ件について話す。
そういう練習を、無意識のうちに、旦那はわたしにさせてくれてると思います。
まだまだ上手になった、とは到底言えないけれども、20年前よりはマシになったんとちゃうかな、と思てます。
前置きが長なってしまいました。
映画作家・想田和弘の『観察する日々』より、想田監督の、今回の都知事選についての見解を紹介します。
転載にあたり、文字の強調はわたし個人の意思で行いました。
↓以下、転載はじめ
第13回 都知事選を終えて:脱原発派・リベラル派の共闘のために
相田和弘
都知事選が終わった。
宇都宮健児氏に加えて、細川護煕氏が立候補したことにより、脱原発派の一本化論の是非が、激しく論じられた選挙だった。
それを巡る議論や諍いは、選挙が終わった後でも、依然として続いている。
そこで交わされている刺々しい言葉を眺めるかぎり、その有様は、「ノーサイド」という状況にはほど遠く、
宇都宮氏を支援した人々と、細川氏を支援した人々の亀裂は、修復していないようにみえる。
僕は当初から、本連載(第12回)やポリタスなどで、今回の一本化の動きに対する違和感を表明してきた。
だから、僕が一本化というアイデアそのものに否定的なのではないか、と誤解されることも多い。
しかし、はっきりと申し上げておく。
選挙で勝つためには、主張の似ている候補者の一本化は、絶対に必要なのだ、と。
だが、今回はどう考えても、時間的にも技術的にも土台無理だったのだ、と。
よく考えてみて欲しい。
宇都宮氏も、細川氏も、それぞれユニークな人生を生きてきた、強烈な個性を持つ大人だ。
それぞれ、人生史も、考え方も、人脈も異なる。
彼らが一本化という、いわば「結婚」をするためには、
まずは当然、お二人が顔を合わせ、それぞれの考えや目指すところを知り、話し合い、意見を摺り合わせるという作業が必要になる。
よく考えれば当然ではないか?
それなのに、今回は、周りの親戚やら同僚やらが勝手に、二人へお見合い写真を押し付けて、
「脱原発のためには、この人と明日結婚してくれ、結婚しないと勝てない」と迫ったようなものだ。
特に宇都宮氏からしたら、「お前が細川家の籍へ入れ」と、一方的に告げられたようなもので、
とても「はい、そうですか」と納得できるようなものではなかった。
アメリカの大統領選挙では、民主党と共和党は、それぞれの党内で、予備選挙というのを行う。
党としての候補者を「一本化」するために、まずは党内で選挙をするのだ。
その予備選挙にかける手間と、時間とお金のかけ方が半端ではない。
少なくとも、日本の政党の総裁や代表の、選挙の比ではない。
4年に1回の大統領選がある年に入ると、1月くらいから6月くらいまで、実に半年という時間をかけて、各州で、順次、予備選挙や党員集会を行っていく。
そのたびに候補者は、現地入りして選挙運動をし、テレビ討論会で、侃々諤々の議論をする。
メディアもその様子を盛んに報じる。
各州での投票結果が出るたびに、脱落していく候補者が出るから、州を移動し、選挙戦が深まるにつれて、だんだんと候補者は絞られていく。
最終的には、20回以上討論会を重ねて、その死闘をようやく勝ち抜いた者が、晴れて本選の候補者となる。
「一本化」には、凄まじい政治的エネルギーと、時間とコストがかかっているのである。
まあ、都知事選と大統領選を比べるのは無理があるかもしれないが、日本人も少しは見習った方がよいのではないか。
ところが、一本化論者の中心的存在だった鎌田慧氏は、選挙が終わった後、朝日新聞への寄稿でこう綴った。
「せっかく、二人の元首相が、「原発を認めたのは無知だった。間違いだった」と、公衆の面前で重大な告白をしても、
宇都宮氏を推す共産、社民の陣営は、かつての小泉政治を批判して聞く耳をもたず、共倒れとなった。
日本の政治の未成熟さだった」
(2月11日、朝日新聞デジタル)
しかし、「日本の政治の未成熟さ」を示していたのは、本当に宇都宮陣営の態度だったのだろうか?
民主的手続きや、対話のプロセスを素っ飛ばしても、「一本化」が簡単にできるはずだと思い込んでいたことこそが、未成熟さを示しているのではないか?
僕はこう書きながら、劇作家の平田オリザ氏が常々、
「日本には、会話はあるけど対話がない」と言っているのを思い出した。
平田氏の定義では、
対話は、自分とは異なる価値観を持つ「他者」との話し合いを指し、
会話は、内輪で行うおしゃべりを指す。
平田氏いわく、
日本人の多くは お互いを「分かり合える存在」だと考え、
「人間はそれぞれ、違う考え方を持っている」という前提に立たないので、
良くも悪くも、「対話」を通じて他者と向き合おうという、姿勢や習慣が弱いというのである。
今回の一本化論議では、日本人の癖が、悪い方に出たように思う。
つまり、「同じ脱原発派同士なんだから、分かり合えるでしょ?」という前提のもと、
分かり合おうとする努力や、手続きや対話を怠ったのではないか。
いや、そもそも、分かり合うための作業をする時間など、物理的になかったのにもかかわらず、
「今は非常時だから」という、火事場泥棒のような論理を持ち出して、無理矢理「分かってくれよ」と、結婚を強要しようとしたのではないか。
とはいえ、本稿の目的は、一本化論者を責めることではない。
僕は、将来の選挙に向けて、みなさんに提案をしたいのだ。
脱原発派・リベラル派が勝つために、今度こそ、候補者の一本化を目指そう、と。
そしてそのために、脱原発派・リベラル派といえども、最初からは分かり合えないのだということを前提に、
時間をかけて対話し、手続きを踏み、みんなが納得できるような候補者を立てよう、と。
具体的にはそれをどう実現するのか?
一番望ましいのは、小さな党の合併を進めて、大きな脱原発・リベラル政党を作り上げ、その中で予備選挙をすることであろう。
しかし、党の「結婚」を進めていくには、それこそ気の遠くなるような対話と、摺り合わせのプロセスが必要だし、時間がかかることも承知している。
本来ならば、喫緊の課題だが、残念ながら、すぐに実現するとは考えにくい。
では、政党間ではどうか?
これまでにも、政党間での「選挙協力」はなされてきたが、それをもっとオープンに進めるのはどうか。
例えば、選挙で共闘できそうな政党が、それぞれの候補者を立て、その候補者間でディベートをし、議論を深め、超党派的な予備選挙をする。
その予備選挙の結果には、参加した政党はしたがい、本選挙では、みんなで一人の候補者を支援する。
どうだろう。
難しいだろうか?
「脱原発のため」というわけではないが、大阪では、なかなか興味深い試みが立ち上がっている。
ジャーナリストの今井一さん、市民グループ「見張り番」代表の松浦米子さん、弁護士の辻公雄さんら市民有志が、
「真っ当な大阪市長候補を立てる会」を立ち上げたのである。
ただし、今度の「出直し選」に、慌てて候補を立てるのではなく、2015年秋の選挙に向けて、「真っ当な候補者」を準備していこう、という趣旨だ。
会では、次のような手続きで、候補者の選定を進めていくという。
1)さまざまな個人、グループに参加を呼びかけた上で、各人が「この人を立てたい」というプレゼンを行う。
2)3/2(日)13時~大阪市中央会館にてプレゼン。
3)今回の市長選挙投票日(3月23日か30日)に、プレゼンで支持された人に、みんなで直接会ってやりとりする場を設ける。
4)できれば4月中に、担ぐべき人物を決める。
5)顔と名前を売り込むための活動を、早々に展開。
こうした市民の試みが、今後成果を出せるのかどうかは、もちろん未知数だ。
だが、選挙の直前になって、「これじゃ分裂する!一本化しろ!」と慌てることを避けるためには、
これまでとは違うやり方を、腰を据えて試してみなければなるまい。
いずれにせよ、脱原発派・リベラル派が、分裂せずに共闘するためには、
「一本化せよ」「ノーサイドだ」と叫ぶだけでは、全く不十分である。
私たちには、徹底的な対話と、意見の摺り合わせが必要なのだ。
そういうプロセスを経て初めて、私たちはようやく「小異を捨てて大同につく」ことができるし、
本当の意味での「ノーサイド」を宣言できるのである。
などと言わんといてください。
ずっと考えてるんです。
なんでかっていうと、あの数週間、ほんまのほんまに悩ましかったからです。
なんであんなことになったんか、なんであんなことにしかならんかったんか……。
けども、もう終ってしもたんやから、もう気持ちを入れ替えて前に進まなあかんねんな。
いったい、こういうパターンを、これまでの3年近く、何回繰り返してきたのやら……。
これって、どないしたら、もうちょっとマシな結果を出せるようになるんやろ。
それを悶々と考えてるうちにまた……バタバタと慌てて必死でなんとかしようとしても間に合わず……気を取り直して……の堂々巡り。
あかんでこれでは。
どないもこないも、前に進んでる実感がわいてけえへんのです。
『一本化』の次は『ノーサイド』……。
どっちの言葉にも、めっちゃ違和感ありまくりで、全然腑に落ちんかったんです。
けど今夜、監督の見解とアイディアを読んで納得しました。
『徹底的な対話と意見の擦り合わせ』
そうや!これや!と思いました。
またまた私事で申し訳ないんですけども、米国人の旦那と暮らし始めて、一番はじめに言われたことが、
「あんたは、適当にしゃべってる時はええけれども、シリアスなことで話し合うのは下手やね」でした。
話してる件を、その時その場で、とにかくまとめようとする。
まとまらんかったら、どんどん気分を害する。
気分が悪なったら、捨て鉢な台詞を吐いて(例えば「もうええわ!」みたいな)その場から去ろうとする。
人の意見を聞いてるようなふりしてるけど、聞いてる間にやってることは、自分は次に何を言うて相手を負かそうか考えてる。
まったくその通り!やったので、反論できませんでした。
相手の考えを聞き、それを自分の中で十分に咀嚼し、どう思うかを自身に問う。
その場その時に、結論が出なくても、話せてよかったと思える。
また後で、何度も何度も、互いに擦り合せられるまで、同じ件について話す。
そういう練習を、無意識のうちに、旦那はわたしにさせてくれてると思います。
まだまだ上手になった、とは到底言えないけれども、20年前よりはマシになったんとちゃうかな、と思てます。
前置きが長なってしまいました。
映画作家・想田和弘の『観察する日々』より、想田監督の、今回の都知事選についての見解を紹介します。
転載にあたり、文字の強調はわたし個人の意思で行いました。
↓以下、転載はじめ
第13回 都知事選を終えて:脱原発派・リベラル派の共闘のために
相田和弘
都知事選が終わった。
宇都宮健児氏に加えて、細川護煕氏が立候補したことにより、脱原発派の一本化論の是非が、激しく論じられた選挙だった。
それを巡る議論や諍いは、選挙が終わった後でも、依然として続いている。
そこで交わされている刺々しい言葉を眺めるかぎり、その有様は、「ノーサイド」という状況にはほど遠く、
宇都宮氏を支援した人々と、細川氏を支援した人々の亀裂は、修復していないようにみえる。
僕は当初から、本連載(第12回)やポリタスなどで、今回の一本化の動きに対する違和感を表明してきた。
だから、僕が一本化というアイデアそのものに否定的なのではないか、と誤解されることも多い。
しかし、はっきりと申し上げておく。
選挙で勝つためには、主張の似ている候補者の一本化は、絶対に必要なのだ、と。
だが、今回はどう考えても、時間的にも技術的にも土台無理だったのだ、と。
よく考えてみて欲しい。
宇都宮氏も、細川氏も、それぞれユニークな人生を生きてきた、強烈な個性を持つ大人だ。
それぞれ、人生史も、考え方も、人脈も異なる。
彼らが一本化という、いわば「結婚」をするためには、
まずは当然、お二人が顔を合わせ、それぞれの考えや目指すところを知り、話し合い、意見を摺り合わせるという作業が必要になる。
よく考えれば当然ではないか?
それなのに、今回は、周りの親戚やら同僚やらが勝手に、二人へお見合い写真を押し付けて、
「脱原発のためには、この人と明日結婚してくれ、結婚しないと勝てない」と迫ったようなものだ。
特に宇都宮氏からしたら、「お前が細川家の籍へ入れ」と、一方的に告げられたようなもので、
とても「はい、そうですか」と納得できるようなものではなかった。
アメリカの大統領選挙では、民主党と共和党は、それぞれの党内で、予備選挙というのを行う。
党としての候補者を「一本化」するために、まずは党内で選挙をするのだ。
その予備選挙にかける手間と、時間とお金のかけ方が半端ではない。
少なくとも、日本の政党の総裁や代表の、選挙の比ではない。
4年に1回の大統領選がある年に入ると、1月くらいから6月くらいまで、実に半年という時間をかけて、各州で、順次、予備選挙や党員集会を行っていく。
そのたびに候補者は、現地入りして選挙運動をし、テレビ討論会で、侃々諤々の議論をする。
メディアもその様子を盛んに報じる。
各州での投票結果が出るたびに、脱落していく候補者が出るから、州を移動し、選挙戦が深まるにつれて、だんだんと候補者は絞られていく。
最終的には、20回以上討論会を重ねて、その死闘をようやく勝ち抜いた者が、晴れて本選の候補者となる。
「一本化」には、凄まじい政治的エネルギーと、時間とコストがかかっているのである。
まあ、都知事選と大統領選を比べるのは無理があるかもしれないが、日本人も少しは見習った方がよいのではないか。
ところが、一本化論者の中心的存在だった鎌田慧氏は、選挙が終わった後、朝日新聞への寄稿でこう綴った。
「せっかく、二人の元首相が、「原発を認めたのは無知だった。間違いだった」と、公衆の面前で重大な告白をしても、
宇都宮氏を推す共産、社民の陣営は、かつての小泉政治を批判して聞く耳をもたず、共倒れとなった。
日本の政治の未成熟さだった」
(2月11日、朝日新聞デジタル)
しかし、「日本の政治の未成熟さ」を示していたのは、本当に宇都宮陣営の態度だったのだろうか?
民主的手続きや、対話のプロセスを素っ飛ばしても、「一本化」が簡単にできるはずだと思い込んでいたことこそが、未成熟さを示しているのではないか?
僕はこう書きながら、劇作家の平田オリザ氏が常々、
「日本には、会話はあるけど対話がない」と言っているのを思い出した。
平田氏の定義では、
対話は、自分とは異なる価値観を持つ「他者」との話し合いを指し、
会話は、内輪で行うおしゃべりを指す。
平田氏いわく、
日本人の多くは お互いを「分かり合える存在」だと考え、
「人間はそれぞれ、違う考え方を持っている」という前提に立たないので、
良くも悪くも、「対話」を通じて他者と向き合おうという、姿勢や習慣が弱いというのである。
今回の一本化論議では、日本人の癖が、悪い方に出たように思う。
つまり、「同じ脱原発派同士なんだから、分かり合えるでしょ?」という前提のもと、
分かり合おうとする努力や、手続きや対話を怠ったのではないか。
いや、そもそも、分かり合うための作業をする時間など、物理的になかったのにもかかわらず、
「今は非常時だから」という、火事場泥棒のような論理を持ち出して、無理矢理「分かってくれよ」と、結婚を強要しようとしたのではないか。
とはいえ、本稿の目的は、一本化論者を責めることではない。
僕は、将来の選挙に向けて、みなさんに提案をしたいのだ。
脱原発派・リベラル派が勝つために、今度こそ、候補者の一本化を目指そう、と。
そしてそのために、脱原発派・リベラル派といえども、最初からは分かり合えないのだということを前提に、
時間をかけて対話し、手続きを踏み、みんなが納得できるような候補者を立てよう、と。
具体的にはそれをどう実現するのか?
一番望ましいのは、小さな党の合併を進めて、大きな脱原発・リベラル政党を作り上げ、その中で予備選挙をすることであろう。
しかし、党の「結婚」を進めていくには、それこそ気の遠くなるような対話と、摺り合わせのプロセスが必要だし、時間がかかることも承知している。
本来ならば、喫緊の課題だが、残念ながら、すぐに実現するとは考えにくい。
では、政党間ではどうか?
これまでにも、政党間での「選挙協力」はなされてきたが、それをもっとオープンに進めるのはどうか。
例えば、選挙で共闘できそうな政党が、それぞれの候補者を立て、その候補者間でディベートをし、議論を深め、超党派的な予備選挙をする。
その予備選挙の結果には、参加した政党はしたがい、本選挙では、みんなで一人の候補者を支援する。
どうだろう。
難しいだろうか?
「脱原発のため」というわけではないが、大阪では、なかなか興味深い試みが立ち上がっている。
ジャーナリストの今井一さん、市民グループ「見張り番」代表の松浦米子さん、弁護士の辻公雄さんら市民有志が、
「真っ当な大阪市長候補を立てる会」を立ち上げたのである。
ただし、今度の「出直し選」に、慌てて候補を立てるのではなく、2015年秋の選挙に向けて、「真っ当な候補者」を準備していこう、という趣旨だ。
会では、次のような手続きで、候補者の選定を進めていくという。
1)さまざまな個人、グループに参加を呼びかけた上で、各人が「この人を立てたい」というプレゼンを行う。
2)3/2(日)13時~大阪市中央会館にてプレゼン。
3)今回の市長選挙投票日(3月23日か30日)に、プレゼンで支持された人に、みんなで直接会ってやりとりする場を設ける。
4)できれば4月中に、担ぐべき人物を決める。
5)顔と名前を売り込むための活動を、早々に展開。
こうした市民の試みが、今後成果を出せるのかどうかは、もちろん未知数だ。
だが、選挙の直前になって、「これじゃ分裂する!一本化しろ!」と慌てることを避けるためには、
これまでとは違うやり方を、腰を据えて試してみなければなるまい。
いずれにせよ、脱原発派・リベラル派が、分裂せずに共闘するためには、
「一本化せよ」「ノーサイドだ」と叫ぶだけでは、全く不十分である。
私たちには、徹底的な対話と、意見の摺り合わせが必要なのだ。
そういうプロセスを経て初めて、私たちはようやく「小異を捨てて大同につく」ことができるし、
本当の意味での「ノーサイド」を宣言できるのである。