フェイスブックで知った『ホルトの木の下で』という本。
著者は堀文子氏。
彼女の甥である内海氏が、その本の一部を書き起こしてくださっていました。
ぜひ、ひとりでも多くの方に読んでいただきたいと思います。
転載を快諾してくださいましたので、ここに紹介させていただきます。
我が家と二・二六事件 堀文子『ホルトの木の下で』より
March 1, 2015
2015年2月26日
1945年5月25日の東京大空襲で全焼した我が家は、1936年のニ・ニ六事件の、反乱軍占拠区域内にありました。
私の叔母が、ニ・ニ六事件当時のことを本に書いておりますので、長文になりますが、その件を私が書き起こしてみました。
叔母は今年96歳になりましたが、軍が増長し、クーデタ未遂まで起きた日中戦争前夜の当時と、今日の急速に右傾化する日本が全く同じだと、
毎日のように、長生きしたことを慨嘆しております。
若い皆さんには、ぜひお読みいただきたいと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
府立第五高女の卒業試験の日、その日は昭和11年2月26日のことで、前日から雪が降り続いていました。
実は卒業試験と同時に、女子美に願書を出しに行くことにもなっていた。
ようやく両親に女子美への入学が許されて、「いよいよ私は絵を描いて生きていくのだ」と、ロマンチックに興奮した朝でもあったのです。
三宅坂からいつものように都電に乗って、新宿の学校まで行こうとしていたところ、
近所が騒然としていて、何やら妙なことになっているようだとの知らせが入ってきました。
外の様子を見に行くと、街の通りの至るところにバリケードが張られ、拳銃を持った兵隊が家々の角に立っているのです。
五族協和を旗印に、満州国が建国されたのが、昭和7年でした。
その満蒙の国策映画を撮影しているとか、逃亡したテロリストを軍隊が包囲しているとか、
様々なウワサが飛びかい、人々は右往左往しているばかりで、実体はわからない。
それでもまだ電車は動いていたので、とにかく学校へ出かけました。
ところが、半蔵門から四谷にかけて、どこを見ても、街におかしなことは起きていない。
私の家の近所のような騒ぎは嘘のようで、いつもの朝と同じ平穏な風景なのです。
「今朝の騒ぎは一体なんだったのだろう」
と思いつつ、学校に着いて試験を受けていると、急に中止という命令が出ました。
卒業試験なのにおかしいなと思っていると、
「全校生徒はただちに家に帰ること。麹町方面からの通学の者は集団で帰りなさい」と、校内放送が鳴った。
ざわつく教室の中で、
「今朝、街の様子がおかしくなかった?」
と友達に聞くと、誰もそんなことなど何もなかった、と答える。
どうやらあれは、私の家の周辺だけの出来事だと気付きました。
麹町方面に住む人たちと連れ立って、学校を出ましたが、帰りの電車は四谷見附で止まっていて、そこからは先に入れない。
それでも何とか、四谷から歩いて帰りました。
麹町3丁目まで来ると、今朝方に見た道路を塞ぐバリケードは数が増え、銃剣を付けた兵隊が30メートル置きくらいに立ち、通行人を止めて尋問している物々しさです。
その頃は、すでに、軍人の横暴が巷でささやかれていましたし、自分が尋問されたときは、文句を言おうと思っていました。
父の教育もあり、軍の行動に対して、私も憤慨していたのです。
今思うと無謀というか、恐いもの知らずの娘でした。
私が近づくと、
「何処に行く!」
と、銃剣を喉に付きつけられた。
今しがたまで何か言ってやろうと思っていたのに、その途端、恐怖で腰が抜けそうになりました。
「そこの先の角を曲がった家の者です」
と言うだけが精一杯で、武器の前では何も言えなくなる情けなさを、身体で知った瞬間でした。
「行け!」
と道を開けられ、ようやくの思いで家に帰り着くと、
「まあ、よく無事で帰ってきましたね!」
と母が抱きつくばかりに喜びました。
私の弟は、決起した軍人の一部が立てこもっている山王ホテルの傍らの、府立一中に通っていたので、帰ってくる途中に、市民が殺されているのを見たというのです。
筵(むしろ)がかけられ、そこから人の足が見えていたと。
兵隊に歯向かった市民が殺されたのだろう、という話でした。
街の噂では、
「この兵隊たちは、高橋是清を殺した人たちらしい」
と言っていたそうですが、国家は事件を秘密にしていましたし、むろん報道もされていなかったので、一般市民たちは、本当のことなど何も知らされていなかったのです。
私の家の一角、議事堂周辺500メートルぐらいの中の出来事でしたから、おそらく全国の人は、その騒ぎすら全く知らなかったでしょう。
私自身も何も分からないまま、その大動乱の渦中に巻き込まれていたのです。
そのうち、決起した将校やその部下の兵隊たちは、天皇に背いたというので、賊軍にされて追いやられ、家の周りの守りは官軍に変わりました。
そして官軍の兵隊が、家々を回り、「女子供は即刻退去せよ」との命令を出しました。
状況がよく掴めないながら、私の勘は、歴史的大事件が起きているらしいことを察知したのです。
父は日頃から、噂ではなく、自分の目で見たことを信じなさいと言っていました。
その父が、退去命令を無視して、この事件の実体を写真に撮っておくと言いだしたのです。
父だけを残して行けないので、私も家に残りました。
そんな大事件が起きているなら、私も歴史に立ち会ってこの目で見なくては…と。
だいたい、私が未だに好奇心を持って行動するのは、この頃から変わっていません。
母や弟たちは、親戚の家に逃しました。
そして、いよいよ戦闘状態に入るから一切家を出るな、という憲兵の指示に従って、畳や家具を積み上げて、その中に隠れました。
砲弾を防ぐためです。
私は死を覚悟しましたが、生き残った場合のことも考えました。
スケッチブック、絵の具などを全部まとめて風呂敷に包み、飼っていたジュウシマツやカナリアの鳥かごと一緒に、乳母車の中に入れて、荷造りしました。
銃撃の弾がどこから飛んで来るかわからないため、身体をできるだけ伏せて、畳の塹壕の中に息をつめて潜んでいました。
たとえ一人になっても生きるんだと覚悟した、あの切迫した瞬間を忘れません。
その時でした。
私の家の庭を、堀や裏木戸を壊して、銃剣を付けた軍隊が進んで行くのを見たのです。
表通りを避け、私の家と隣の家との境の塀を壊して進む軍隊を目の当たりにして、ぞっとしました。
非常時のときの秘密裏の抜け道が、計画されていたに違いないと思ったからです。
家の敷地内を、何百人もの軍隊が、粛々と進んでいきました。
もう声も出ないほどの恐ろしさで、息をつめて見つめていたのを、今もまざまざと思い出します。
やがて、「兵に告ぐ」
という重々しい声が鳴り響き、
「一切の武器を捨てて出て来い!」
と叫ぶ声が聞こえてきた。
反乱軍は白いはちまきをしていて、白旗を掲げて出てくるのを、父はもの影に隠れて、写真を何枚も撮っていました。
よく見つかってフィルムを取り上げられたり、脅かされたりしなかったものです。
その生々しい写真をあとで見ましたが、その時の情景はよく覚えているのです。
あの騒ぎは、何日も続いたように長く感じました。
こうして二・二六事件は終わりました。
その事件の大体のことは、あとから次第に知らされました。
あれは、陸軍の上層部の人が、決起した将校を煽ったんだとか。
実行犯の若い将校は銃殺され、将校を煽った陸軍の上層部の軍人たちは、何のおとがめもなく、無罪になったとか…。
不可解な謎を多く残す、無残な出来事でした。
私は何故か、反乱軍にされた兵隊たちが、可哀想に思えてならなかった。
どうやら、その兵隊たちは、その後、満州の前線へと駆り出されたと聞きました。
あの朝、私の家の前に立っていた、まだ十代の、少年のような兵隊たちの姿を忘れません。
世の中は不況で、農村の貧しい家では、私ぐらいの年齢の娘が、家のために売られていく話も耳にしました。
日本の不可解な動きは、それからというもの急速になっていき、やがて悲惨な戦争へと突入してゆくのです。
私は関東大震災といい、二・二六事件といい、乱世を生きる運命を抱いているのかもしれません。
あれは、日本の曲がり角となる事件でした。
関東大震災で、奇妙な感受性を植え付けられた女の子が、十余年経ったのち、
二・二六事件によって、死への予感と、目前に迫り来る戦争の気配を、強く感じたのです。
この二つの事件は、その後の私の生き方にも、大きな影響を与えたように思われてなりません。
《堀文子『ホルトの木の下で』より》
書き起こしをされた内海氏は、早稲田大学で『内海先生のドロップアウト塾』という講義をなさっておられます。
その中から、↓下記の講座を紹介させていただきます。
わたしはこの講座内容を何回も読んで、今までモヤモヤとしていたものが、少しすっきりと見えてきたような気がします。
ぜひ、時間を見つけて、読んでください。
早稲田大学「内海先生のドロップアウト塾」 『226事件と今日の極右日本-安倍晋三は国家社会主義者か?!』
(2015/02/23)
March 1, 2015 at 9:41am
講義まとめ(文=大久保貴裕)
Ⅰ
1936年2月26日、「昭和維新・尊皇討奸」を掲げ決起した陸軍青年将校らは、歩兵第1連隊・第3連隊をはじめとした各部隊を指揮して、
首相官邸や大臣・官僚らの邸宅、警視庁、陸軍省、参謀本部、朝日新聞社などを次々と襲撃し、永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂の一帯を掌握する。
麹町にあった内海の実家は、決起軍による首都中枢占拠の渦中にあった。
当時女学生だった叔母の堀文子さんは、阻止線の内側にある自宅に帰ろうとして、バリケードで兵士に、着剣した三八式歩兵銃を突き付けられた体験を語っている。
翌27日に戒厳令が布かれると、陸軍の戦車部隊や海軍陸戦隊が、鎮圧のため現場に投入され、台場沖に集結した40隻もの海軍艦隊は、永田町一帯に砲口を向けた。
市街での銃撃戦に備え、家族で部屋の畳を立てて身を伏していた堀さんは、
鎮圧部隊が往来する表通りを避けて、決起兵士たちが塀や垣根を壊しながら、家々の敷地内を行軍するのを目撃したという。
軍同士が銃火を交える「皇軍相撃」の一歩手前にまで、事態は進行していた。
国が、明治以降、最大の内戦の危機に直面したのが、この226事件である。
翌37年7月の盧溝橋事件を皮切りに、日本軍は、日中間の衝突を一気に全面戦争へと発展させ、12月には首都南京を陥落させている。
日中戦争の長期化を受け、総力戦体制を布いた日本は、41年の真珠湾攻撃によって、泥沼の太平洋戦争に突入していくわけだが、
こうした事後の経過から見ても、36年の226事件が、昭和日本史のメルクマールとして、いかに重要な意味をもっていたかが分かるだろう。
226事件が起きた背景としてよく言われるのは、統制派と皇道派の対立、
すなわち、統制経済による高度国防国家建設を唱える軍の中央幕僚らと、特権階級の解体による天皇親政を謳う青年将校らとの、派閥対立である。
統制派幕僚の圧迫に不満を強めていた皇道派将校らが、クーデターを断行したことで、
結果的に、軍部が政治的影響力を強め、その後の統制派主導による軍事台頭を準備したというのが、おおかた一般的な226事件の認識だろう。
主犯の過激派将校たちこそ、極右ファシストの最たるものであり、彼らは自ら望んで世界戦争参画への道を切り開いたのだと、イメージしている学生や高校生も少なくないかもしれない。
しかし、実際に事件を起こした青年将校らの証言に目を通してみると、彼らの主張は必ずしも一概に、皇道派という派閥の下に括れるものではなく、
そこには、海外進出を謀る軍上層部に対する、侵略戦争阻止の立場において決起した趣意を、読み取ることもできる。
226事件で決起した青年将校、すなわち士官学校卒の隊付将校が、自らの隊に抱えていた兵卒の部下たちは、その多くが農村出身者である。
昭和初期の不況によって、当時の農村部は壊滅的な貧困に陥っており、小作農家の多くは、子どもの都市部への出稼ぎや身売りによって、辛うじて小作料を埋め合わせている状況だった。
とりわけ、大凶作に見舞われていた東北の農村では、村役場が、公然と身売りの仲介を担い、多くの女性が、都市部の遊郭に売られていった。
小作農家の悲劇的な惨状とは裏腹に、こうした農村部からの労働力搾取、そして人身売買における中間搾取によって、国や財閥は大きな利益を得ていた。
実家の姉妹が売られたことを苦に、初年兵が消灯後に、隠し持っていた実包を銃に込め自殺する。
あるいは、演習中に銃を持って脱走し、身売りされた姉妹のいる遊郭に駆けつけて、心中を図る。
農村出身兵士のこうした痛ましいエピソードは、当時決して珍しいことではなかった。
部下たちの苦悶する姿を、目の当たりにしていた青年将校らは、貧困にあえぐ民衆から容赦なく搾取し、富を占有する財閥支配や、財界に癒着し党利党略に明け暮れる政党政治の腐敗、
そして、農村部の疲弊を傍目に、侵略戦争によって強引に不況を解消しようと画策する軍上層部に対し、不信感と危機感を強めていた。
明治維新以後、年貢に小作料が取って代わり、士農工商の身分制は、華族制や貴族院に引き継がれ、大財閥の資本独占によって、経済格差は拡大する一方にあった。
彼らが、国家革新として希求した、地主制の解体、華族制・貴族院の解体、財閥支配の解体は、
明治維新という不徹底な改革により、依然として引き継がれている江戸時代の封建体制を、解体することを意味していた。
Ⅱ
こうした青年将校らの革命構想に、決定的な影響を与えているのが、
226事件を思想的に煽動したとして逮捕され、事件に直接関わっているわけではないにも関わらず、将校らとともに死刑となった、国家社会主義者の北一輝である。
23歳で刊行した大著『国体論及び純正社会主義』で、北は、明治維新の革命性について、
君主が主権を独占する「君主国家」から、君主・国民を一体とした国家自体が主権を有する「公民国家」への移行と位置付けた上で、
天皇を「万世一系」の統治者として、国家の頂点に君臨させる帝国憲法は、天皇と議会の協同による国家運営を旨とする、公民国家の理念に矛盾すると指摘する。
帝国憲法下の天皇制を厳しく批判し、労働者や農民の政治参画や、生産手段の国有化といった、社会主義革命を唱えた『国体論』は発禁処分を受け、
北は、社会主義の「危険分子」として、当局に認知されることになった。
中国に渡り、辛亥革命に参加した北は、日本における国家変革の方策として、『国体論』において批判した天皇制を逆手にとり、憲法の効力を超えた、天皇の大権に基づく革命の断行を提唱する。
『日本改造法案大綱』には、天皇・国民の一体化を阻む財閥や官僚を打倒すべく、天皇の権力によって憲法を3年間停止させ、
全国に戒厳令を布いて両院を解散、一定期間政治権力を凍結させることで、普通選挙による新たな議会・内閣を設置し、国家改造を果たす革命の方法が説かれている。
北が記した国家改造策には、農地解放、華族制・貴族院の廃止、普通選挙、財閥解体、私有財産の制限などが盛り込まれており、
GHQの戦後政策を先取りしているとも言えるこうした改革のヴィジョンに、明治以来の体制に矛盾を感じていた青年将校らは、強く感化された。
将校らのあいだに高まる改革の気運に、危機感を強めた軍上層部は、先手を打つかたちで、彼らの多くが属していた第1師団の、満州派遣を決める。
これを受け、北が示した革命の方策を実行に移す機会は、渡満前しかないと判断した将校らは、遂に自らの部隊を率いて決起することになる。
天皇親政を妨げる「君側の奸」を一掃し、決起の真意を天皇に訴えかければ、
君主と国民の結束による「一君万民」体制を実現すべく、天皇自身が動いてくれるに違いない、このような錦旗による革命を、彼らは目論んでいた。
が、当の天皇裕仁は、決起将校らの行動に激昂、決起部隊を「賊軍」と呼び、早期鎮圧にあたるよう軍部に強く求めている。
事件発生の報を受けた時点で、天皇が決起軍鎮圧を明確に決意し意思表示したのは、
フランス革命から19、20世紀に至る、歴史上の様々な革命について熟知していた彼が、
北一輝のような当時の革命思想家の影響力をふまえ、社会主義や共産主義が天皇制に接近することで、日本型の国家社会主義が生まれる危険性について、重々承知していたからだろう。
天皇の恩情に賭けた「昭和維新・尊皇討奸」の希望は打ち砕かれ、決起部隊は不服にも、天皇に背いた叛乱軍として、鎮圧されることになる。
226事件を描いた文学や映画は数多くあるが、中でも『英霊の聲』や『憂国』、『十日の菊』など、226事件を題材とする作品を書き続けた三島由紀夫は、
遂には、自ら決起将校のそれを思わせるような、破滅的な最期を遂げるに至る。
226事件で処刑された青年将校と、神風特攻隊員たちの降霊を描いた『英霊の聲』では、
君主を信じて決起した兵を賊軍として退け、戦後は人間宣言によって現人神を否定したことに対する、兵士たちの屈辱と憤りが、天皇裕仁への呪詛として吐露される。
君主への狂おしいほどの愛と、それが翻って牙をむいた深い怨念は、三島自身の、天皇へのフェティッシュな欲望を露わにしていると言える。
226事件を起こした将校らも、自衛隊に決起を呼びかけた三島も、本気でクーデターを成功させることができるとは決して思っていなかっただろう。
が、マゾヒズム的とも言える悲劇的な最期を演じ切り、その死にざまを芸術的なイリュージョンに転生させることで、今なお彼らは、自らの声を、昭和史上に反響させている。
己の無念な死をもって、世代を超えて、この国が孕む天皇へのフェティシズムに訴えかけることが、ある意味での彼らの美学であり、戦略であったと言えるかもしれない。
Ⅲ
北一輝の唱えた国体変革を、青年将校らが、クーデターによって破滅的に断行する一方、
同じく、北の国家社会主義的な国家改造論に強い影響を受け、それをしたたかに政策路線に反映させていったのが、安倍晋三現総理の祖父・岸信介である。
秀才として知られた学生時代、岸は、国家主義の立場に身を置きながらも、『資本論』をはじめとしたマルクス的共産主義や、社会主義の著作も熟読し、
特に帝大入学後は、統制経済型の社会主義を提唱していた、大アジア主義者の大川周明、そして大川とともに国家改造を唱えた北一輝の思想に強く傾倒、
上海から帰国した北を、訪ねたりもしていた。
岸は後年、このころをふりかえって、
「『資本論』にはやられなかった」ものの、北は「最も深い印象を受けた思想家の一人」だったと語っており、
国家社会主義思想の強い影響下にあったことを明かしている。
帝大卒業後、農商務官僚時代を経て、226事件が起きた36年に、岸は満州国国務院実業部総務司長に就任、
39年までの3年間にわたり、産業部部長や総務庁次長を務めながら、ソ連の5カ年計画をはじめとする計画経済・統制経済の政策をモデルに、満州「産業開発5カ年計画」を実施する。
更に岸は、関東軍参謀長の東條英機、国務院総務長官の星野直樹らとともに、大規模なアヘン密造・密売事業を行い、莫大な利益を生み出すことに成功している。
満州国が、熱河省や内蒙古に広げられていく動機のひとつには、アヘンの原料となるケシの栽培地域の拡大に加え、アヘン市場、およびそれに付帯する売買春市場の拡大があり、
麻薬産業による満州社会・経済の半植民地化が、大きな成果をあげていたことがわかる。
こうした軍・官・財の協同による麻薬の製造販売は、戦費調達の手段として、その後の日中戦争や太平洋戦争の戦線拡大にも、大きく関係していくことになる。
いわば、満州を一国社会主義の実験場として、「植民地」経営に辣腕をふるった岸は、
あたかも、満州で行ったことを本土で実践するかの如く、帰国後は、統制計画経済による総力戦体制の整備に奉じ、
戦後は、安保条約下における低武装・経済重視の高度成長路線を、築いていくことになる。
つまり、北一輝の国家社会主義の影響、そして、満州経営における植民地的支配の経験に基づく岸の本土「満州国化」が、
現在に至る戦後日本の社会体制に、色濃く反映されているということである。
祖父・岸信介の政治思想からの強大な影響と、その継承を公言しているのが、現総理の安倍晋三である。
第二次内閣組閣以来、安倍が押し進めている統制的な国家再編政策に対し、一部右派からは、社会主義的だという批判が出てきていることは、過去の講義においても取り上げている。
ステレオタイプな左翼対右翼の二元論で解釈しようとすると、極右路線とされる安倍政治が、なぜ社会主義路線と称されるのか分かりにくいかもしれないが、
日本においては、北一輝らが提唱し、岸信介が政策に取り入れた国家社会主義が、紛れもない社会主義の一形態であり、
日本型のファシズムが、マルクス的共産主義やソ連統制計画経済と天皇制国家主義との接合によって生まれてきていることをふまえれば、
安倍による国家再編の指針に、一国社会主義的な極右体制の建設を読み取ることも、難しいことではないだろう。
自民党が政権を奪還し、安倍が総理大臣の座に返り咲いたとき、多くの自称左派リベラリストは、
俊英だった岸とは比ぶべくもない安倍の低学歴を笑い、第一次内閣退陣時には無様な醜態を晒した、無能な世襲三代目の政権の行く末について、長続きはしないだろうとたかを括っていた。
が、現状を見れば、第二次内閣はここまでしぶとく権力体制を維持し、支持率低下の危機を巧妙に回避しながら、着々と改革を進めて、今や憲法改正の目前にまで迫る勢いにある。
左派的な立場から、極右ファシストと野次をとばす典型的な安倍批判は、この2年余りの政権の猛威に対して、全く無力であった。
批判するものの主体が問われることがないまま、左翼対右翼という、形骸化したイデオロギー対立を自明のものとし、無内容な善悪二元論を振り回すだけでは、
左右のレッテルによって議論の場を住み分け、同じ立場やイデオロギーの相手と同じ意見を復唱し合うだけの、内輪のコミュニティーを築くことしかできない。
左派インテリが小馬鹿にするネトウヨや在特会支持者と、面と向かって話をしてみれば、
彼らの多くは、今日の経済格差・教育格差の前に敗れ、将来の希望を見失っている若者たちであり、
彼らがやっていることが単なる右翼活動とは異なる、いわば、時代に対する反体制的な違和感の表明であることが見えてくる。
無論、ネトウヨに同調したり、右派的な言説を支持したりする必要はないが、
むしろ重要なのは、226事件でクーデターを起こした将校や兵士らに、皇道派という派閥の枠組みでは語り切れない動機があったように、
今日右翼的な思想に走る彼らが、どのような動機によって突き動かされているのかを、読み解くことである。
かつて、社会格差に苦しむ若者は、共産主義や社会主義の思想に憧れ、それを天皇制に接合させていくことで、国家社会主義的な改革を夢見た。
多くの共産主義者や社会主義者が、共産主義・社会主義革命のスローガンを、天皇制とのアマルガムにされることで、積極的にファシストへ転向していった。
日本に古くから根付く一方的な左翼信仰は、こうした社会主義と国家社会主義との密接な関係から、目を背けようとする。
しかし、今日ここまで進行したファッショ化を前に、左翼と右翼をめぐる善悪二元論が、ますます空転するばかりである以上、
教条的な共産主義・社会主義性善説を、一度ここで捨て去り、左右の思想的・政治的な「違い」をめぐる議論を終わらせて、
むしろ、あらゆる政治思想の「なにが限界だったか」を、歴史的に顧みる必要に、時代は迫られている。
かつて、戦後日本の経済体制などを指して、日本を「最も成功した社会主義国家」だと揶揄する言い方があった。
無論、日本を社会主義国家だと論証することができるかと言えば、それには多くの時間を議論に費やされなければならないだろう。
が、226事件に象徴されるような、30年代における国家変革の気運の高揚、
岸信介に象徴される、戦中戦後の国家社会主義的な体制整備、
そして岸の継承者として、国家再編を押し進める安倍政治の、今後の動向を見据えるなかで、
昭和から現代にかけての歴史を追い、日本における社会主義・国家社会主義とはなんだったのか、
そして、そうした革命思想と天皇制が、どのように接近し接合されてきたのか、時間をかけて議論する価値は大いにある。
著者は堀文子氏。
彼女の甥である内海氏が、その本の一部を書き起こしてくださっていました。
ぜひ、ひとりでも多くの方に読んでいただきたいと思います。
転載を快諾してくださいましたので、ここに紹介させていただきます。
我が家と二・二六事件 堀文子『ホルトの木の下で』より
March 1, 2015
2015年2月26日
1945年5月25日の東京大空襲で全焼した我が家は、1936年のニ・ニ六事件の、反乱軍占拠区域内にありました。
私の叔母が、ニ・ニ六事件当時のことを本に書いておりますので、長文になりますが、その件を私が書き起こしてみました。
叔母は今年96歳になりましたが、軍が増長し、クーデタ未遂まで起きた日中戦争前夜の当時と、今日の急速に右傾化する日本が全く同じだと、
毎日のように、長生きしたことを慨嘆しております。
若い皆さんには、ぜひお読みいただきたいと思います。
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府立第五高女の卒業試験の日、その日は昭和11年2月26日のことで、前日から雪が降り続いていました。
実は卒業試験と同時に、女子美に願書を出しに行くことにもなっていた。
ようやく両親に女子美への入学が許されて、「いよいよ私は絵を描いて生きていくのだ」と、ロマンチックに興奮した朝でもあったのです。
三宅坂からいつものように都電に乗って、新宿の学校まで行こうとしていたところ、
近所が騒然としていて、何やら妙なことになっているようだとの知らせが入ってきました。
外の様子を見に行くと、街の通りの至るところにバリケードが張られ、拳銃を持った兵隊が家々の角に立っているのです。
五族協和を旗印に、満州国が建国されたのが、昭和7年でした。
その満蒙の国策映画を撮影しているとか、逃亡したテロリストを軍隊が包囲しているとか、
様々なウワサが飛びかい、人々は右往左往しているばかりで、実体はわからない。
それでもまだ電車は動いていたので、とにかく学校へ出かけました。
ところが、半蔵門から四谷にかけて、どこを見ても、街におかしなことは起きていない。
私の家の近所のような騒ぎは嘘のようで、いつもの朝と同じ平穏な風景なのです。
「今朝の騒ぎは一体なんだったのだろう」
と思いつつ、学校に着いて試験を受けていると、急に中止という命令が出ました。
卒業試験なのにおかしいなと思っていると、
「全校生徒はただちに家に帰ること。麹町方面からの通学の者は集団で帰りなさい」と、校内放送が鳴った。
ざわつく教室の中で、
「今朝、街の様子がおかしくなかった?」
と友達に聞くと、誰もそんなことなど何もなかった、と答える。
どうやらあれは、私の家の周辺だけの出来事だと気付きました。
麹町方面に住む人たちと連れ立って、学校を出ましたが、帰りの電車は四谷見附で止まっていて、そこからは先に入れない。
それでも何とか、四谷から歩いて帰りました。
麹町3丁目まで来ると、今朝方に見た道路を塞ぐバリケードは数が増え、銃剣を付けた兵隊が30メートル置きくらいに立ち、通行人を止めて尋問している物々しさです。
その頃は、すでに、軍人の横暴が巷でささやかれていましたし、自分が尋問されたときは、文句を言おうと思っていました。
父の教育もあり、軍の行動に対して、私も憤慨していたのです。
今思うと無謀というか、恐いもの知らずの娘でした。
私が近づくと、
「何処に行く!」
と、銃剣を喉に付きつけられた。
今しがたまで何か言ってやろうと思っていたのに、その途端、恐怖で腰が抜けそうになりました。
「そこの先の角を曲がった家の者です」
と言うだけが精一杯で、武器の前では何も言えなくなる情けなさを、身体で知った瞬間でした。
「行け!」
と道を開けられ、ようやくの思いで家に帰り着くと、
「まあ、よく無事で帰ってきましたね!」
と母が抱きつくばかりに喜びました。
私の弟は、決起した軍人の一部が立てこもっている山王ホテルの傍らの、府立一中に通っていたので、帰ってくる途中に、市民が殺されているのを見たというのです。
筵(むしろ)がかけられ、そこから人の足が見えていたと。
兵隊に歯向かった市民が殺されたのだろう、という話でした。
街の噂では、
「この兵隊たちは、高橋是清を殺した人たちらしい」
と言っていたそうですが、国家は事件を秘密にしていましたし、むろん報道もされていなかったので、一般市民たちは、本当のことなど何も知らされていなかったのです。
私の家の一角、議事堂周辺500メートルぐらいの中の出来事でしたから、おそらく全国の人は、その騒ぎすら全く知らなかったでしょう。
私自身も何も分からないまま、その大動乱の渦中に巻き込まれていたのです。
そのうち、決起した将校やその部下の兵隊たちは、天皇に背いたというので、賊軍にされて追いやられ、家の周りの守りは官軍に変わりました。
そして官軍の兵隊が、家々を回り、「女子供は即刻退去せよ」との命令を出しました。
状況がよく掴めないながら、私の勘は、歴史的大事件が起きているらしいことを察知したのです。
父は日頃から、噂ではなく、自分の目で見たことを信じなさいと言っていました。
その父が、退去命令を無視して、この事件の実体を写真に撮っておくと言いだしたのです。
父だけを残して行けないので、私も家に残りました。
そんな大事件が起きているなら、私も歴史に立ち会ってこの目で見なくては…と。
だいたい、私が未だに好奇心を持って行動するのは、この頃から変わっていません。
母や弟たちは、親戚の家に逃しました。
そして、いよいよ戦闘状態に入るから一切家を出るな、という憲兵の指示に従って、畳や家具を積み上げて、その中に隠れました。
砲弾を防ぐためです。
私は死を覚悟しましたが、生き残った場合のことも考えました。
スケッチブック、絵の具などを全部まとめて風呂敷に包み、飼っていたジュウシマツやカナリアの鳥かごと一緒に、乳母車の中に入れて、荷造りしました。
銃撃の弾がどこから飛んで来るかわからないため、身体をできるだけ伏せて、畳の塹壕の中に息をつめて潜んでいました。
たとえ一人になっても生きるんだと覚悟した、あの切迫した瞬間を忘れません。
その時でした。
私の家の庭を、堀や裏木戸を壊して、銃剣を付けた軍隊が進んで行くのを見たのです。
表通りを避け、私の家と隣の家との境の塀を壊して進む軍隊を目の当たりにして、ぞっとしました。
非常時のときの秘密裏の抜け道が、計画されていたに違いないと思ったからです。
家の敷地内を、何百人もの軍隊が、粛々と進んでいきました。
もう声も出ないほどの恐ろしさで、息をつめて見つめていたのを、今もまざまざと思い出します。
やがて、「兵に告ぐ」
という重々しい声が鳴り響き、
「一切の武器を捨てて出て来い!」
と叫ぶ声が聞こえてきた。
反乱軍は白いはちまきをしていて、白旗を掲げて出てくるのを、父はもの影に隠れて、写真を何枚も撮っていました。
よく見つかってフィルムを取り上げられたり、脅かされたりしなかったものです。
その生々しい写真をあとで見ましたが、その時の情景はよく覚えているのです。
あの騒ぎは、何日も続いたように長く感じました。
こうして二・二六事件は終わりました。
その事件の大体のことは、あとから次第に知らされました。
あれは、陸軍の上層部の人が、決起した将校を煽ったんだとか。
実行犯の若い将校は銃殺され、将校を煽った陸軍の上層部の軍人たちは、何のおとがめもなく、無罪になったとか…。
不可解な謎を多く残す、無残な出来事でした。
私は何故か、反乱軍にされた兵隊たちが、可哀想に思えてならなかった。
どうやら、その兵隊たちは、その後、満州の前線へと駆り出されたと聞きました。
あの朝、私の家の前に立っていた、まだ十代の、少年のような兵隊たちの姿を忘れません。
世の中は不況で、農村の貧しい家では、私ぐらいの年齢の娘が、家のために売られていく話も耳にしました。
日本の不可解な動きは、それからというもの急速になっていき、やがて悲惨な戦争へと突入してゆくのです。
私は関東大震災といい、二・二六事件といい、乱世を生きる運命を抱いているのかもしれません。
あれは、日本の曲がり角となる事件でした。
関東大震災で、奇妙な感受性を植え付けられた女の子が、十余年経ったのち、
二・二六事件によって、死への予感と、目前に迫り来る戦争の気配を、強く感じたのです。
この二つの事件は、その後の私の生き方にも、大きな影響を与えたように思われてなりません。
《堀文子『ホルトの木の下で』より》
書き起こしをされた内海氏は、早稲田大学で『内海先生のドロップアウト塾』という講義をなさっておられます。
その中から、↓下記の講座を紹介させていただきます。
わたしはこの講座内容を何回も読んで、今までモヤモヤとしていたものが、少しすっきりと見えてきたような気がします。
ぜひ、時間を見つけて、読んでください。
早稲田大学「内海先生のドロップアウト塾」 『226事件と今日の極右日本-安倍晋三は国家社会主義者か?!』
(2015/02/23)
March 1, 2015 at 9:41am
講義まとめ(文=大久保貴裕)
Ⅰ
1936年2月26日、「昭和維新・尊皇討奸」を掲げ決起した陸軍青年将校らは、歩兵第1連隊・第3連隊をはじめとした各部隊を指揮して、
首相官邸や大臣・官僚らの邸宅、警視庁、陸軍省、参謀本部、朝日新聞社などを次々と襲撃し、永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂の一帯を掌握する。
麹町にあった内海の実家は、決起軍による首都中枢占拠の渦中にあった。
当時女学生だった叔母の堀文子さんは、阻止線の内側にある自宅に帰ろうとして、バリケードで兵士に、着剣した三八式歩兵銃を突き付けられた体験を語っている。
翌27日に戒厳令が布かれると、陸軍の戦車部隊や海軍陸戦隊が、鎮圧のため現場に投入され、台場沖に集結した40隻もの海軍艦隊は、永田町一帯に砲口を向けた。
市街での銃撃戦に備え、家族で部屋の畳を立てて身を伏していた堀さんは、
鎮圧部隊が往来する表通りを避けて、決起兵士たちが塀や垣根を壊しながら、家々の敷地内を行軍するのを目撃したという。
軍同士が銃火を交える「皇軍相撃」の一歩手前にまで、事態は進行していた。
国が、明治以降、最大の内戦の危機に直面したのが、この226事件である。
翌37年7月の盧溝橋事件を皮切りに、日本軍は、日中間の衝突を一気に全面戦争へと発展させ、12月には首都南京を陥落させている。
日中戦争の長期化を受け、総力戦体制を布いた日本は、41年の真珠湾攻撃によって、泥沼の太平洋戦争に突入していくわけだが、
こうした事後の経過から見ても、36年の226事件が、昭和日本史のメルクマールとして、いかに重要な意味をもっていたかが分かるだろう。
226事件が起きた背景としてよく言われるのは、統制派と皇道派の対立、
すなわち、統制経済による高度国防国家建設を唱える軍の中央幕僚らと、特権階級の解体による天皇親政を謳う青年将校らとの、派閥対立である。
統制派幕僚の圧迫に不満を強めていた皇道派将校らが、クーデターを断行したことで、
結果的に、軍部が政治的影響力を強め、その後の統制派主導による軍事台頭を準備したというのが、おおかた一般的な226事件の認識だろう。
主犯の過激派将校たちこそ、極右ファシストの最たるものであり、彼らは自ら望んで世界戦争参画への道を切り開いたのだと、イメージしている学生や高校生も少なくないかもしれない。
しかし、実際に事件を起こした青年将校らの証言に目を通してみると、彼らの主張は必ずしも一概に、皇道派という派閥の下に括れるものではなく、
そこには、海外進出を謀る軍上層部に対する、侵略戦争阻止の立場において決起した趣意を、読み取ることもできる。
226事件で決起した青年将校、すなわち士官学校卒の隊付将校が、自らの隊に抱えていた兵卒の部下たちは、その多くが農村出身者である。
昭和初期の不況によって、当時の農村部は壊滅的な貧困に陥っており、小作農家の多くは、子どもの都市部への出稼ぎや身売りによって、辛うじて小作料を埋め合わせている状況だった。
とりわけ、大凶作に見舞われていた東北の農村では、村役場が、公然と身売りの仲介を担い、多くの女性が、都市部の遊郭に売られていった。
小作農家の悲劇的な惨状とは裏腹に、こうした農村部からの労働力搾取、そして人身売買における中間搾取によって、国や財閥は大きな利益を得ていた。
実家の姉妹が売られたことを苦に、初年兵が消灯後に、隠し持っていた実包を銃に込め自殺する。
あるいは、演習中に銃を持って脱走し、身売りされた姉妹のいる遊郭に駆けつけて、心中を図る。
農村出身兵士のこうした痛ましいエピソードは、当時決して珍しいことではなかった。
部下たちの苦悶する姿を、目の当たりにしていた青年将校らは、貧困にあえぐ民衆から容赦なく搾取し、富を占有する財閥支配や、財界に癒着し党利党略に明け暮れる政党政治の腐敗、
そして、農村部の疲弊を傍目に、侵略戦争によって強引に不況を解消しようと画策する軍上層部に対し、不信感と危機感を強めていた。
明治維新以後、年貢に小作料が取って代わり、士農工商の身分制は、華族制や貴族院に引き継がれ、大財閥の資本独占によって、経済格差は拡大する一方にあった。
彼らが、国家革新として希求した、地主制の解体、華族制・貴族院の解体、財閥支配の解体は、
明治維新という不徹底な改革により、依然として引き継がれている江戸時代の封建体制を、解体することを意味していた。
Ⅱ
こうした青年将校らの革命構想に、決定的な影響を与えているのが、
226事件を思想的に煽動したとして逮捕され、事件に直接関わっているわけではないにも関わらず、将校らとともに死刑となった、国家社会主義者の北一輝である。
23歳で刊行した大著『国体論及び純正社会主義』で、北は、明治維新の革命性について、
君主が主権を独占する「君主国家」から、君主・国民を一体とした国家自体が主権を有する「公民国家」への移行と位置付けた上で、
天皇を「万世一系」の統治者として、国家の頂点に君臨させる帝国憲法は、天皇と議会の協同による国家運営を旨とする、公民国家の理念に矛盾すると指摘する。
帝国憲法下の天皇制を厳しく批判し、労働者や農民の政治参画や、生産手段の国有化といった、社会主義革命を唱えた『国体論』は発禁処分を受け、
北は、社会主義の「危険分子」として、当局に認知されることになった。
中国に渡り、辛亥革命に参加した北は、日本における国家変革の方策として、『国体論』において批判した天皇制を逆手にとり、憲法の効力を超えた、天皇の大権に基づく革命の断行を提唱する。
『日本改造法案大綱』には、天皇・国民の一体化を阻む財閥や官僚を打倒すべく、天皇の権力によって憲法を3年間停止させ、
全国に戒厳令を布いて両院を解散、一定期間政治権力を凍結させることで、普通選挙による新たな議会・内閣を設置し、国家改造を果たす革命の方法が説かれている。
北が記した国家改造策には、農地解放、華族制・貴族院の廃止、普通選挙、財閥解体、私有財産の制限などが盛り込まれており、
GHQの戦後政策を先取りしているとも言えるこうした改革のヴィジョンに、明治以来の体制に矛盾を感じていた青年将校らは、強く感化された。
将校らのあいだに高まる改革の気運に、危機感を強めた軍上層部は、先手を打つかたちで、彼らの多くが属していた第1師団の、満州派遣を決める。
これを受け、北が示した革命の方策を実行に移す機会は、渡満前しかないと判断した将校らは、遂に自らの部隊を率いて決起することになる。
天皇親政を妨げる「君側の奸」を一掃し、決起の真意を天皇に訴えかければ、
君主と国民の結束による「一君万民」体制を実現すべく、天皇自身が動いてくれるに違いない、このような錦旗による革命を、彼らは目論んでいた。
が、当の天皇裕仁は、決起将校らの行動に激昂、決起部隊を「賊軍」と呼び、早期鎮圧にあたるよう軍部に強く求めている。
事件発生の報を受けた時点で、天皇が決起軍鎮圧を明確に決意し意思表示したのは、
フランス革命から19、20世紀に至る、歴史上の様々な革命について熟知していた彼が、
北一輝のような当時の革命思想家の影響力をふまえ、社会主義や共産主義が天皇制に接近することで、日本型の国家社会主義が生まれる危険性について、重々承知していたからだろう。
天皇の恩情に賭けた「昭和維新・尊皇討奸」の希望は打ち砕かれ、決起部隊は不服にも、天皇に背いた叛乱軍として、鎮圧されることになる。
226事件を描いた文学や映画は数多くあるが、中でも『英霊の聲』や『憂国』、『十日の菊』など、226事件を題材とする作品を書き続けた三島由紀夫は、
遂には、自ら決起将校のそれを思わせるような、破滅的な最期を遂げるに至る。
226事件で処刑された青年将校と、神風特攻隊員たちの降霊を描いた『英霊の聲』では、
君主を信じて決起した兵を賊軍として退け、戦後は人間宣言によって現人神を否定したことに対する、兵士たちの屈辱と憤りが、天皇裕仁への呪詛として吐露される。
君主への狂おしいほどの愛と、それが翻って牙をむいた深い怨念は、三島自身の、天皇へのフェティッシュな欲望を露わにしていると言える。
226事件を起こした将校らも、自衛隊に決起を呼びかけた三島も、本気でクーデターを成功させることができるとは決して思っていなかっただろう。
が、マゾヒズム的とも言える悲劇的な最期を演じ切り、その死にざまを芸術的なイリュージョンに転生させることで、今なお彼らは、自らの声を、昭和史上に反響させている。
己の無念な死をもって、世代を超えて、この国が孕む天皇へのフェティシズムに訴えかけることが、ある意味での彼らの美学であり、戦略であったと言えるかもしれない。
Ⅲ
北一輝の唱えた国体変革を、青年将校らが、クーデターによって破滅的に断行する一方、
同じく、北の国家社会主義的な国家改造論に強い影響を受け、それをしたたかに政策路線に反映させていったのが、安倍晋三現総理の祖父・岸信介である。
秀才として知られた学生時代、岸は、国家主義の立場に身を置きながらも、『資本論』をはじめとしたマルクス的共産主義や、社会主義の著作も熟読し、
特に帝大入学後は、統制経済型の社会主義を提唱していた、大アジア主義者の大川周明、そして大川とともに国家改造を唱えた北一輝の思想に強く傾倒、
上海から帰国した北を、訪ねたりもしていた。
岸は後年、このころをふりかえって、
「『資本論』にはやられなかった」ものの、北は「最も深い印象を受けた思想家の一人」だったと語っており、
国家社会主義思想の強い影響下にあったことを明かしている。
帝大卒業後、農商務官僚時代を経て、226事件が起きた36年に、岸は満州国国務院実業部総務司長に就任、
39年までの3年間にわたり、産業部部長や総務庁次長を務めながら、ソ連の5カ年計画をはじめとする計画経済・統制経済の政策をモデルに、満州「産業開発5カ年計画」を実施する。
更に岸は、関東軍参謀長の東條英機、国務院総務長官の星野直樹らとともに、大規模なアヘン密造・密売事業を行い、莫大な利益を生み出すことに成功している。
満州国が、熱河省や内蒙古に広げられていく動機のひとつには、アヘンの原料となるケシの栽培地域の拡大に加え、アヘン市場、およびそれに付帯する売買春市場の拡大があり、
麻薬産業による満州社会・経済の半植民地化が、大きな成果をあげていたことがわかる。
こうした軍・官・財の協同による麻薬の製造販売は、戦費調達の手段として、その後の日中戦争や太平洋戦争の戦線拡大にも、大きく関係していくことになる。
いわば、満州を一国社会主義の実験場として、「植民地」経営に辣腕をふるった岸は、
あたかも、満州で行ったことを本土で実践するかの如く、帰国後は、統制計画経済による総力戦体制の整備に奉じ、
戦後は、安保条約下における低武装・経済重視の高度成長路線を、築いていくことになる。
つまり、北一輝の国家社会主義の影響、そして、満州経営における植民地的支配の経験に基づく岸の本土「満州国化」が、
現在に至る戦後日本の社会体制に、色濃く反映されているということである。
祖父・岸信介の政治思想からの強大な影響と、その継承を公言しているのが、現総理の安倍晋三である。
第二次内閣組閣以来、安倍が押し進めている統制的な国家再編政策に対し、一部右派からは、社会主義的だという批判が出てきていることは、過去の講義においても取り上げている。
ステレオタイプな左翼対右翼の二元論で解釈しようとすると、極右路線とされる安倍政治が、なぜ社会主義路線と称されるのか分かりにくいかもしれないが、
日本においては、北一輝らが提唱し、岸信介が政策に取り入れた国家社会主義が、紛れもない社会主義の一形態であり、
日本型のファシズムが、マルクス的共産主義やソ連統制計画経済と天皇制国家主義との接合によって生まれてきていることをふまえれば、
安倍による国家再編の指針に、一国社会主義的な極右体制の建設を読み取ることも、難しいことではないだろう。
自民党が政権を奪還し、安倍が総理大臣の座に返り咲いたとき、多くの自称左派リベラリストは、
俊英だった岸とは比ぶべくもない安倍の低学歴を笑い、第一次内閣退陣時には無様な醜態を晒した、無能な世襲三代目の政権の行く末について、長続きはしないだろうとたかを括っていた。
が、現状を見れば、第二次内閣はここまでしぶとく権力体制を維持し、支持率低下の危機を巧妙に回避しながら、着々と改革を進めて、今や憲法改正の目前にまで迫る勢いにある。
左派的な立場から、極右ファシストと野次をとばす典型的な安倍批判は、この2年余りの政権の猛威に対して、全く無力であった。
批判するものの主体が問われることがないまま、左翼対右翼という、形骸化したイデオロギー対立を自明のものとし、無内容な善悪二元論を振り回すだけでは、
左右のレッテルによって議論の場を住み分け、同じ立場やイデオロギーの相手と同じ意見を復唱し合うだけの、内輪のコミュニティーを築くことしかできない。
左派インテリが小馬鹿にするネトウヨや在特会支持者と、面と向かって話をしてみれば、
彼らの多くは、今日の経済格差・教育格差の前に敗れ、将来の希望を見失っている若者たちであり、
彼らがやっていることが単なる右翼活動とは異なる、いわば、時代に対する反体制的な違和感の表明であることが見えてくる。
無論、ネトウヨに同調したり、右派的な言説を支持したりする必要はないが、
むしろ重要なのは、226事件でクーデターを起こした将校や兵士らに、皇道派という派閥の枠組みでは語り切れない動機があったように、
今日右翼的な思想に走る彼らが、どのような動機によって突き動かされているのかを、読み解くことである。
かつて、社会格差に苦しむ若者は、共産主義や社会主義の思想に憧れ、それを天皇制に接合させていくことで、国家社会主義的な改革を夢見た。
多くの共産主義者や社会主義者が、共産主義・社会主義革命のスローガンを、天皇制とのアマルガムにされることで、積極的にファシストへ転向していった。
日本に古くから根付く一方的な左翼信仰は、こうした社会主義と国家社会主義との密接な関係から、目を背けようとする。
しかし、今日ここまで進行したファッショ化を前に、左翼と右翼をめぐる善悪二元論が、ますます空転するばかりである以上、
教条的な共産主義・社会主義性善説を、一度ここで捨て去り、左右の思想的・政治的な「違い」をめぐる議論を終わらせて、
むしろ、あらゆる政治思想の「なにが限界だったか」を、歴史的に顧みる必要に、時代は迫られている。
かつて、戦後日本の経済体制などを指して、日本を「最も成功した社会主義国家」だと揶揄する言い方があった。
無論、日本を社会主義国家だと論証することができるかと言えば、それには多くの時間を議論に費やされなければならないだろう。
が、226事件に象徴されるような、30年代における国家変革の気運の高揚、
岸信介に象徴される、戦中戦後の国家社会主義的な体制整備、
そして岸の継承者として、国家再編を押し進める安倍政治の、今後の動向を見据えるなかで、
昭和から現代にかけての歴史を追い、日本における社会主義・国家社会主義とはなんだったのか、
そして、そうした革命思想と天皇制が、どのように接近し接合されてきたのか、時間をかけて議論する価値は大いにある。