日本はもう日付が変わりましたが、今日26日は、米軍が沖縄に上陸した日です。
沖縄の『集団自決』は、言葉に表しきれない悲惨な事件でした。
そしてそれは、『戦争』というものの姿のうちのひとつです。
その地獄としか言いようのない所から生き存えてこられた方々の、はらわたにまで染み込んだ苦しみを、恐怖を、そして悔恨を、書いてくださった記事を紹介します。
軍隊は、人を殺す組織です。
命令をする人は、自分の手を汚しません。
殺し、殺されるのは、命令を受ける組織の末端にいる兵士たちです。
そして、その人殺しのための武器を、必死になって開発し、生産している人たちもいます。
殺られる前に殺る。
だから、いよいよ殺られるかもしれないという時が近づいてくると、恐怖のあまりに、突拍子も無い行動に出ます。
広島と長崎に、そして空襲で模擬として落とされた原爆もまた、当時そのような世にも恐ろしい爆弾の開発に競り合っていたアメリカの、軍の上層部の一部の人間たちの焦りが生み出したものでした。
軍などというものさえ無かったら、
よその国の人を殺してもよいなどという、どうしても正しいと思えない行為が仕事だというような組織さえ無くなったら、
武器も、武器の材料となる原発も、それらの実験も、核物質も、そしてそんなものを作るために使われてしまっている税金も、必要がなくなります。
それだけでも世界中は、うんと生きやすくなると思います。
↓以下、転載はじめ
座間味「集団自決」から70年 迫る米兵、山さまよう
【琉球新報】2015年3月26日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-240922-storytopic-1.html
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海岸線を覆うように連なり、島に近づく米軍艦。
座間味村慶留間の集落近くの防空壕に、祖母、2人の姉と共に隠れていた中村茂さん(85)=当時15歳=は、1945年3月26日朝、海上の異様な光景に息をのんだ。
戦車揚陸艦の前方が開き、中から海上に出た水陸両用戦車が、次々と上陸し始めた。
中村さんと家族が山へ避難し、ウンザガーラ横の壕に逃げ込むと、すでに多くの住民がいた。
壕に身を隠したが、米兵がすぐ近くまで迫っていた。
再び山に逃げ込んだが、祖母のウトさん、六つ上の姉・八重子さんを見失った。
中村さんは、三つ上の姉・照子さんや住民らと山をさまよい、山頂のサーバルで横穴を見つけた。
入り口には、首を絞め合った3、4人の死体が横たわり、顔はぱんぱんに腫れていた。
「集団自決」(強制集団死)が起きていた。
「私たちも早く死なないと」。
住民らはふらふらと歩き出し、別の防空壕を見つけた。
「ここで死のう」
親たちが、次々に、自分の子を手に掛け始めた。
照子さんが、「茂、早く絞めて」と、自分の首を絞めるようせがんだ。
中村さんは言われるまま、姉の首をひもで絞めた。
「嫌だ、怖いと思う余裕もなかった。ただ早く殺して、自分も死にたかった」
あまりの苦しさに、照子さんは、自分でひもを外そうとしたが、何度も絞め直した。
照子さんが倒れると、中村さんは、自分の首をひもで絞めた。
意識が遠のく中、まだ生きていた照子さんに、「まだよ、待って」と揺り動かされ、意識を取り戻した。
「これでは死ねない」と、照子さんと共に再び山中に戻り、八重子さんやウトさんと再会した。
家族や住民と山中をさまよう中、島北側の崖に行き着いた。
眼下の海には米軍艦。
「生き残ったのは自分たちだけだ。ここが死に場所だ」。
クバの葉をちぎって結び、木の枝にくくって首を掛け、足を滑らせようとした、その時だった。
「待て、待て」という声が聞こえた。
現れた年配の女性が、
「ほかの人も生きている。捕虜になっても殺されない」と教えてくれた。
極度に追い詰められた当時の心情を、「米軍に捕まったら男は殺され、女は乱暴される、米軍に捕まる前に死ぬもんだとしか考えていなかった」と振り返る。
中村さんは、モデル・知花くららさん(32)の祖父だ。
「孫にはまだ、戦争体験を詳しく話していない。でも生き延びたから、子や孫がいる。捕虜になって初めて思えたことだが生きててよかった」と、かみしめるように言った。
◇ ◇
45年3月26日、座間味島などに、米軍が上陸した。
座間味では同日、渡嘉敷では28日に、「集団自決」(強制集団死)が発生。
県内の他の地域でも起きた。
70年前の悲劇を思い起こし、体験者が減りゆく中、どのように記憶を継承していくかを考える。
<社説>米軍上陸70年 沖縄戦の教訓全国へ 時代逆戻りは許されない
【琉球新報】2015年3月26日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-240919-storytopic-11.html
70年前のきょう26日、米軍が慶良間諸島に上陸し、沖縄戦は地上戦に突入した。
米軍は、4月1日には沖縄本島に上陸し、住民を巻き込んだ日本軍との戦闘が、泥沼化する。
日本軍の組織的な戦闘が終わる6月中旬までに、多くの尊い命が奪われたことを、忘れてはならない。
取り返しのつかない多大な犠牲を払った体験から、日本は戦争放棄を誓い、平和国家として歩んできた。
それが今、国のカタチを根底から覆す動きが、加速していることを危惧する。
あの時代への逆戻りは許されない。
沖縄戦の教訓を全国に発信し続ける責任が、私たちにはある。
「軍命」明記すべきだ
米軍は、沖縄本島上陸作戦に先立ち、慶良間諸島へ侵攻した。
それと同時に、渡嘉敷村や座間味村などでは、「集団自決」(強制集団死)が起きた。
家族や近所の人らが、1カ所に集まり、手りゅう弾を爆発させ、不発で死ねなかった場合はカミソリやロープで、親が子を手に掛けた。
このような非人間的な行為を、誰が進んでやるだろうか。
そうせざるを得ないよう誘導・強制し、住民を精神的に追い込んだのは、日本軍である。
「米軍に捕まれば惨殺される」「投降は絶対に許さない」などと、住民を脅していたのである。
米軍上陸前に、日本軍の命令を受けた兵事主任が、住民に手りゅう弾を1人2個ずつ配布した上で、
「敵に遭遇したら、1発は敵に投げ、残りの1発で自決せよ」と訓示している。
いざとなれば「死ね」、という命令にほかならない。
日本軍は、軍事機密が漏れることを恐れ、住民の命を軽視していた。
軍隊にとって、それが当然だったのである。
「集団自決」での軍命の有無が争われた、大江・岩波裁判では、「集団自決には日本軍が深く関わっていた」と、軍の関与を認定する判決が出ている。
第3次家永裁判の最高裁判決は、「集団自決」の原因を、「極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、日本軍の住民への防諜(ぼうちょう)対策など」と認定している。
ところが、高校歴史教科書は、「日本軍が強いた」「日本軍によって追い込まれた」との記述にとどまり、「軍命」を明記したものはない。
歴史を事実に即して書くことは、当然のことである。
「軍命」をしっかり書き込まなければ、戦争の犠牲者は浮かばれない。
ましてや、「集団自決」を殉国美談とすることなど、あってはならない。
理想の実現目指せ
日本は、悲惨な戦争体験から、平和の尊さ、戦争の愚かさを、身をもって知った。
その結果手にしたのが、戦争放棄をうたった憲法である。
国は、それを順守する義務がある。
だが、安倍政権は、「時代にそぐわない内容もある」とし、改憲に突き進んでいる。
「積極的平和主義」を掲げる安倍晋三首相の、一連の安全保障政策は、戦前回帰そのものである。
その内実は、国民の描く「平和」とは、大きく乖離(かいり)している。
核兵器を持つ独裁国家の存在や、軍事的対立、テロの続発など、国際情勢に不安定要素はある。
だからといって、日本が、戦争のできる国となっていいはずがない。
日本は戦後、憲法が掲げる理想の実現に向かってきたからこそ、各国からの信頼を得てきた。
理想を実現するのが、政治家の役目である。
理想を時代にそぐわないとすることは、政治家失格と言わざるを得ない。
国民に犠牲を強いた、戦争の教訓を学ぶべきだ。
安倍首相が、自衛隊を「わが軍」としたのも、改憲志向の表れである。
菅義偉官房長官も、「自衛隊は、わが国の防衛を主たる任務としている。このような組織を軍隊と呼ぶのであれば、自衛隊も軍隊の一つということだ」と述べている。
戦後の歩みを否定する発言であり、許されるものではない。
沖縄の『集団自決』は、言葉に表しきれない悲惨な事件でした。
そしてそれは、『戦争』というものの姿のうちのひとつです。
その地獄としか言いようのない所から生き存えてこられた方々の、はらわたにまで染み込んだ苦しみを、恐怖を、そして悔恨を、書いてくださった記事を紹介します。
軍隊は、人を殺す組織です。
命令をする人は、自分の手を汚しません。
殺し、殺されるのは、命令を受ける組織の末端にいる兵士たちです。
そして、その人殺しのための武器を、必死になって開発し、生産している人たちもいます。
殺られる前に殺る。
だから、いよいよ殺られるかもしれないという時が近づいてくると、恐怖のあまりに、突拍子も無い行動に出ます。
広島と長崎に、そして空襲で模擬として落とされた原爆もまた、当時そのような世にも恐ろしい爆弾の開発に競り合っていたアメリカの、軍の上層部の一部の人間たちの焦りが生み出したものでした。
軍などというものさえ無かったら、
よその国の人を殺してもよいなどという、どうしても正しいと思えない行為が仕事だというような組織さえ無くなったら、
武器も、武器の材料となる原発も、それらの実験も、核物質も、そしてそんなものを作るために使われてしまっている税金も、必要がなくなります。
それだけでも世界中は、うんと生きやすくなると思います。
↓以下、転載はじめ
座間味「集団自決」から70年 迫る米兵、山さまよう
【琉球新報】2015年3月26日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-240922-storytopic-1.html
L
海岸線を覆うように連なり、島に近づく米軍艦。
座間味村慶留間の集落近くの防空壕に、祖母、2人の姉と共に隠れていた中村茂さん(85)=当時15歳=は、1945年3月26日朝、海上の異様な光景に息をのんだ。
戦車揚陸艦の前方が開き、中から海上に出た水陸両用戦車が、次々と上陸し始めた。
中村さんと家族が山へ避難し、ウンザガーラ横の壕に逃げ込むと、すでに多くの住民がいた。
壕に身を隠したが、米兵がすぐ近くまで迫っていた。
再び山に逃げ込んだが、祖母のウトさん、六つ上の姉・八重子さんを見失った。
中村さんは、三つ上の姉・照子さんや住民らと山をさまよい、山頂のサーバルで横穴を見つけた。
入り口には、首を絞め合った3、4人の死体が横たわり、顔はぱんぱんに腫れていた。
「集団自決」(強制集団死)が起きていた。
「私たちも早く死なないと」。
住民らはふらふらと歩き出し、別の防空壕を見つけた。
「ここで死のう」
親たちが、次々に、自分の子を手に掛け始めた。
照子さんが、「茂、早く絞めて」と、自分の首を絞めるようせがんだ。
中村さんは言われるまま、姉の首をひもで絞めた。
「嫌だ、怖いと思う余裕もなかった。ただ早く殺して、自分も死にたかった」
あまりの苦しさに、照子さんは、自分でひもを外そうとしたが、何度も絞め直した。
照子さんが倒れると、中村さんは、自分の首をひもで絞めた。
意識が遠のく中、まだ生きていた照子さんに、「まだよ、待って」と揺り動かされ、意識を取り戻した。
「これでは死ねない」と、照子さんと共に再び山中に戻り、八重子さんやウトさんと再会した。
家族や住民と山中をさまよう中、島北側の崖に行き着いた。
眼下の海には米軍艦。
「生き残ったのは自分たちだけだ。ここが死に場所だ」。
クバの葉をちぎって結び、木の枝にくくって首を掛け、足を滑らせようとした、その時だった。
「待て、待て」という声が聞こえた。
現れた年配の女性が、
「ほかの人も生きている。捕虜になっても殺されない」と教えてくれた。
極度に追い詰められた当時の心情を、「米軍に捕まったら男は殺され、女は乱暴される、米軍に捕まる前に死ぬもんだとしか考えていなかった」と振り返る。
中村さんは、モデル・知花くららさん(32)の祖父だ。
「孫にはまだ、戦争体験を詳しく話していない。でも生き延びたから、子や孫がいる。捕虜になって初めて思えたことだが生きててよかった」と、かみしめるように言った。
◇ ◇
45年3月26日、座間味島などに、米軍が上陸した。
座間味では同日、渡嘉敷では28日に、「集団自決」(強制集団死)が発生。
県内の他の地域でも起きた。
70年前の悲劇を思い起こし、体験者が減りゆく中、どのように記憶を継承していくかを考える。
<社説>米軍上陸70年 沖縄戦の教訓全国へ 時代逆戻りは許されない
【琉球新報】2015年3月26日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-240919-storytopic-11.html
70年前のきょう26日、米軍が慶良間諸島に上陸し、沖縄戦は地上戦に突入した。
米軍は、4月1日には沖縄本島に上陸し、住民を巻き込んだ日本軍との戦闘が、泥沼化する。
日本軍の組織的な戦闘が終わる6月中旬までに、多くの尊い命が奪われたことを、忘れてはならない。
取り返しのつかない多大な犠牲を払った体験から、日本は戦争放棄を誓い、平和国家として歩んできた。
それが今、国のカタチを根底から覆す動きが、加速していることを危惧する。
あの時代への逆戻りは許されない。
沖縄戦の教訓を全国に発信し続ける責任が、私たちにはある。
「軍命」明記すべきだ
米軍は、沖縄本島上陸作戦に先立ち、慶良間諸島へ侵攻した。
それと同時に、渡嘉敷村や座間味村などでは、「集団自決」(強制集団死)が起きた。
家族や近所の人らが、1カ所に集まり、手りゅう弾を爆発させ、不発で死ねなかった場合はカミソリやロープで、親が子を手に掛けた。
このような非人間的な行為を、誰が進んでやるだろうか。
そうせざるを得ないよう誘導・強制し、住民を精神的に追い込んだのは、日本軍である。
「米軍に捕まれば惨殺される」「投降は絶対に許さない」などと、住民を脅していたのである。
米軍上陸前に、日本軍の命令を受けた兵事主任が、住民に手りゅう弾を1人2個ずつ配布した上で、
「敵に遭遇したら、1発は敵に投げ、残りの1発で自決せよ」と訓示している。
いざとなれば「死ね」、という命令にほかならない。
日本軍は、軍事機密が漏れることを恐れ、住民の命を軽視していた。
軍隊にとって、それが当然だったのである。
「集団自決」での軍命の有無が争われた、大江・岩波裁判では、「集団自決には日本軍が深く関わっていた」と、軍の関与を認定する判決が出ている。
第3次家永裁判の最高裁判決は、「集団自決」の原因を、「極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、日本軍の住民への防諜(ぼうちょう)対策など」と認定している。
ところが、高校歴史教科書は、「日本軍が強いた」「日本軍によって追い込まれた」との記述にとどまり、「軍命」を明記したものはない。
歴史を事実に即して書くことは、当然のことである。
「軍命」をしっかり書き込まなければ、戦争の犠牲者は浮かばれない。
ましてや、「集団自決」を殉国美談とすることなど、あってはならない。
理想の実現目指せ
日本は、悲惨な戦争体験から、平和の尊さ、戦争の愚かさを、身をもって知った。
その結果手にしたのが、戦争放棄をうたった憲法である。
国は、それを順守する義務がある。
だが、安倍政権は、「時代にそぐわない内容もある」とし、改憲に突き進んでいる。
「積極的平和主義」を掲げる安倍晋三首相の、一連の安全保障政策は、戦前回帰そのものである。
その内実は、国民の描く「平和」とは、大きく乖離(かいり)している。
核兵器を持つ独裁国家の存在や、軍事的対立、テロの続発など、国際情勢に不安定要素はある。
だからといって、日本が、戦争のできる国となっていいはずがない。
日本は戦後、憲法が掲げる理想の実現に向かってきたからこそ、各国からの信頼を得てきた。
理想を実現するのが、政治家の役目である。
理想を時代にそぐわないとすることは、政治家失格と言わざるを得ない。
国民に犠牲を強いた、戦争の教訓を学ぶべきだ。
安倍首相が、自衛隊を「わが軍」としたのも、改憲志向の表れである。
菅義偉官房長官も、「自衛隊は、わが国の防衛を主たる任務としている。このような組織を軍隊と呼ぶのであれば、自衛隊も軍隊の一つということだ」と述べている。
戦後の歩みを否定する発言であり、許されるものではない。