Live In Peace⭐️9+25(旧アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局)さんが紹介してくださった、冬の兵士ー良心の告発。
この中の告発の一例が、先日の山本太郎さんの質疑応答の中で紹介されていました。
「戦争犯罪を繰り返す米国の片棒を担ぎ、いいポジションに居座る総理自身が総括する必要がある」山本太郎
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/7389ec30dd335c1bdb4d230e3088e2e8
先の戦争から帰還した米軍兵士たちの告発です。
とても長くなりましたが、どうか時間を作って読んでください。
今の国会で答弁をしている政府上層部の人間たちが、どれほど現実からかけ離れているか、そのことを知ることも悟ることもしようとしない、学びも反省も無い、知恵にも倫理にも貧しい人間だということがよくわかります。
冬の兵士――良心の告発
Winter Soldier
この作品は2008年3月13日から
16日まで開催されたイラク帰還兵による
証言集会・ウインターソルジャーでの証言と
独自に行った取材をもとに
イラク戦争の本質を検証したものです
冬の兵士・Winter Soldier・良心の告発
(まうみ注・帰還兵の証言、告発のみを掲載させていただきます)
アダム・コケシュ:
権力を乱用した、明らかな、専制政治が行われた時、その政府を倒すことは、人民の権利であり義務である。
デモ市民:
民主主義って何?
アダム・コケシュ:
歴史に学ばないものは間違いを繰り返す。歴史が教えるのは、我々が歴史から学んでいないということだ。
アメリカよ、目を覚ませ。
我々は、米軍の、イラクからの無条件撤退を要求する、今すぐに。
反戦イラク帰還兵の会・アダム・コケシュ:
我々帰還兵は、責任を果たすため、証言することが重要なのです。
我々は、マスコミから情報を得ていますが、多くの記者は、国防総省の発表を切り張りするだけです。
調査報道をしません。
アメリカ合衆国の名のもとに行われている多くの悪があるので、語る必要があります。
ワシントンDC郊外
全米労働大学
イラク帰還兵たちの証言集会
第一章・戦闘モラルの崩壊
ジョン・マイケル・ターナー:
2006年4月18日、初めて人を殺しました。
何の罪も無い男で、名前もわからないため、私は「太った男」と呼びました。
自宅帰る途中の男を、彼の友人と父親の前で撃った。
首のここらを撃ったので、一発では死にませんでした。
男は叫びながら、私の目をまっすぐに睨んだ。
私は、一緒に任務についていた友人を見て、「このままにしてはおけない」と言い、もう一発撃って殺しました。
男の死体は、7人の家族たちが運んでいきました。
私は謝罪したい。
罪の無い人々に怒りをぶつけ、破壊した。
これでいいと思っていたが、そうではない。
人々に、この戦争で何が起きているか知らせない限り、人は死んでいく。
私は後悔している。
もう私は、以前のような怪物ではありません。
ケリー・ドーアティー
2003年・イラクで従軍
2004年・反戦イラク帰還兵の会を設立
体験を語るだけでなく、責任と良心を持って、真実を語るという課題に直面しています。
私達は、占領を終わらせるため、マスコミの情報操作と戦い続け、帰還兵への福祉の実現とイラクへの賠償を求めます。
反戦イラク帰還兵のメンバーは立ち上がってください。
反戦イラク帰還兵の会は、占領軍のイラクからの即時撤退、イラクへの賠償、帰還兵への福祉の実現を目的に結成されました。
そして、2008年3月13日から16日まで、厳しい冬の時代に戦う兵士と言う意味の、ウインターソルジャーと名づけた集会を開催し、戦争の体験を証言しました。
証言は、多くのテーマで行われましたが、一番最初は、敵を攻撃するルールである交戦規定についての証言でした。
◾️交戦規定(敵を攻撃するルール)
アダム・コケシュ
1999年、高校卒業後、17歳で海兵隊に入隊。
海軍褒賞メダル、戦闘リボン、国家防衛メダル、イラク従軍記章を授与されている。
アダム・コケシュと申します。
2004年2月から9月まで、ファルージャで従軍しました。
開戦前、戦争に反対でした。
国連でパウエルが言った嘘や、情報操作を信じましたが、開戦すべきとは思わなかった。
しかし、米国は混乱を収め、本気でイラク国民の役に立とうとしていると考え、命を賭けて戦争に参加しました。
これは、イラクに派遣された時に渡された交戦規定のカードです。
次のような条件で、敵の軍を攻撃することができる。
交戦前に、明確な敵の確認が必要である。
明確な確認とは、合理的で間違いが無いこと、とカードには書いてある。
攻撃対象は、法的に正当な軍事目標。
これを胸のポケットに入れておくことになっていた。
ファルージャを包囲したとき、交戦規定は、下着を変えるよりも頻繁に変わった。
最初は、交戦規定を守ることを求められたが、怪しいものは射殺することになる。
双眼鏡や携帯電話を持つもの、ついには誰でも攻撃対象となった。
現地に着いてから数日経って、ある事件が起きた。
検問所で銃撃行動があった。
最初の写真をお願いします。
これは検問所に近づいた車です。
「怪しい車が高速で来た」といわれ、大口径の機関銃で撃ちまくった。
減速しないものはすべて、敵の戦闘員だとみなした。
銃弾は、バンパーからエンジンを破壊、このイラク人の胸を撃ちぬき、座席まで破壊した。
車のそばで撮影した私の記念写真です。
居合わせた海兵隊員全員が、かわるがわる写真を撮ったのです。
少なくとも、米兵側の認識では、武装勢力とだけ戦っているつもりだった。
米軍にとって、ファルージャ市民は、意図した攻撃目標ではなかった。
すべては上層部の作戦のせいでおきた。
市民を殺そうと考えた兵士はいなかったが、市民を殺害した。
ファルージャ市民を、ひどく軽視した上層部の作戦が、ファルージャにいるものはみんな、武装勢力かその同調者だとみなした。
武装勢力とは、米軍の占領にうんざりしている人たちです。
私は17歳で海兵隊に入った。
もし自分が17歳でイラク人だったら、占領軍を自分の国から追い払うため、武器を手に取らないかもしれないが、自分のとるべき立場はわかる。
12歳から17歳で、男としてまともに育っていれば、自分の国が外国に占領されて、いい気持ちではいられない。
政策を支持させるため、アメリカ市民を情報操作している。
アルカーイダは、アメリカ人を怖がらせる亡霊のひとつだ。
ジェイソン・ウオッシュバーン
ジェイソン・ウオッシュバーンです。
海兵隊の伍長で、4年間に3回イラクに派遣されました。
派兵のたび、交戦規定が変わりました。
振り向くたびに交戦規定が変わっている。
ある女性が通りかかり、大きな袋を持っていた。
こちらに向かってくるように見えたので、私たちは、MK19銃をぶっ放した。
粉塵が収まると、その袋には、食料品がいっぱい詰まっていただけだと分った。
我々に食料を持ってきた女性を。粉々にしたのです。
暗黙の了解のもとで奨励されていたことがあった。
証拠として残すための、武器やシャベルを持っていくことです。
爆弾を埋めるために使われるシャベルを持っていき、市民を間違って射殺した時、それを死体の上に置けば、武装勢力だったと言える。
友人が言ったように、イラク人が、シャベルや重そうな袋を持っていたら、撃っていいと決められていた。
だから、シャベルや武器を車に積み、市民を殺害した時に死体の上に置き、交戦規則に従い、掘っていたから撃った、と言うのです。
J・ウエイン・レミュー
J・ウエイン・レミュー、反戦イラク帰還兵の会のメンバーです。
海兵隊歩兵部隊で4年10ヶ月勤め、軍曹として名誉除隊しました。
イラクに3回派遣され、侵略開始時にも参加しました。
正しい交戦規定には、軍の正当化という目的があります。
軍が抑圧ではなくて、保護していると思わせるのです。
交戦規定を守ることで、反占領運動を防ぎ、占領を諸外国から非難されないようにします。
ところが、イラクでアメリカは、それをしませんでした。
この事実を否定するものは、嘘つきかばか者です。
2004年4月、アンバール州の戦闘に、私達の部隊は参加しましたが、銃撃戦が始まると、司令官が、このように命じました。
「イスラム教徒の衣装のものは、敵対しているとみなし撃ってよし」
その1,2時間後、路上にいるものはすべて、敵の戦闘員とみなした。
その命令が出た日の午後、街角で、武器を持たないイラク人が戸口から出てきた。
海兵隊員がライフルで狙いをつけたが、心理的拒否反応のためか、そこで私の記憶が消え、次に思い出すのは、男の死体を跨いだことです。
男が出てきた部屋は倉庫で、スナック菓子あるだけでした。
どこにも武器は無かった。
数週間後、司令官は、「敵を100人殺した」と言いました。
その数には、町を歩いていただけで射殺された人が含まれています。
このころには二回目、三回目の派兵となる海兵隊員の多くが、仲間が死ぬのを見て、深刻なトラウマに苦しんでいた。
そのため、非戦闘員としか思えない人を撃つようになった。
道路わきで爆弾が爆発したことがあり、海兵隊員が銃を撃ったが、数百メートルも離れた数台の車に向けて撃った。
遠くて誰が乗っているのかもわからず、脅威の無い車だった。
無差別射撃をした兵士は、司令官が、野菜を担いで歩いていた老婦人を射殺したのを見たことがありました。
彼は、「その女を撃て」と命じられたが断ったので、司令官が撃った。
危険の無い車を彼が撃ったのは、司令官をお手本にしただけでした。
交戦規定は頻繁に書き換えられ、その内容は矛盾するものになりました。
規定が厳しい時には守らず、市民を銃撃して殺しても報告されません。
私達は、自分を守ることが精一杯でした。
解放したはずの市民が、誰でも爆弾で攻撃してくる危険がある。
誰が敵か分からず、命をかける使命も無いので、海兵隊員は、交戦規定を冗談か、無事故郷に帰るためには、誤魔化すものと考えていた。
交戦規定の運用がでたらめなのは、戦略が間違っているためで、モラルが無くなった。
恥を知るべきです。
イラクから、直ちに軍を撤収すべきで、その理由の一つが、交戦規定の乱用です。
ジェイソン・ハード
戦争を終わらせるための、大きな一歩が始まりました。
反戦イラク帰還兵の会への入会者が激増し、たくさんの帰還兵が来て、兄弟姉妹の契りを結び、長く続く友情を育んでいます。
ウインターソルジャーが明らかにしたいのは、イラクで起きていることは、個人ではなく、政策の責任だと言うことです。
証言者の軍歴を見れば、彼らが優れた兵士だったとわかります。
証言者はみんな、国を愛する愛国者です。
ウイタンーソルジャーに来た市民も、みんな国を愛しています。
アメリカを信じているのです。
アメリカ精神である、人間らしい国を作ること、それを私たちは目指しているのです。
マイク・ロビンソン
州兵の歩兵機関銃部隊として、バグダッドの北にあるバラド空軍基地に派兵されました。
バラドは旧イラク軍の空軍基地で、我々は、飛行機用の巨大なコンクリート製格納庫に住みました。
自分のした作戦について、話したいと思います。
これがバラド基地です。
ここに、戦闘用ヘリコプターが駐機していました。
それを、テロリストと呼ばれる人たちが、毎晩、ロケット砲で攻撃してきた。
基地の南東はブドウ畑で、ヘリコプターを攻撃した者は見つからなかったが、あるイラク人が畑を見ながら歩いているのを発見した。
50才くらいの男で、背中に機関銃を背負っていた。
彼は草むらに何かを感じ、我々の物音が聞こえたのだろう、銃に手を伸ばした。
怖かったのだろう。
交戦命令が下り、私は彼に向かって5発撃った。
他の部隊も銃撃、彼は虫の息で、トラックに乗せると亡くなった。
彼は怖がっただけで、悪いことはしなかった。
私だって犯罪を犯したわけではない。
彼は撃とうとしたし、私は命令された。
このことで苦しんでいる。
普通の市民を殺したのだから。
バラド基地の正面入り口で、警備をしていた時です。
幼い少女が、門に向かって歩いてきた。
7歳の少女です。
通訳が、「止まれ」とイラクの言葉でいった。
少女は止まらない。
どうしたら良いのか?
「止まれ」と言って止まらない子供は、射殺するしかないのでしょうか?
命令が下り、彼らは、7歳の少女を射殺した。
調べると、彼女の胸に爆弾がつけられていて、服で隠されていた。
お父さんが、娘に自殺攻撃をさせた。
5人の兵隊がそこにいた。
お父さんが、娘の命よりも米兵の死を望んだ…。
射殺してしまった…。
命令されたのが私でなくて良かった。
イラクでは、人間性が踏みにじられてしまった。
5人のためだとしても辛い。
どうしたら良いだろう。
頭を離れないことがある。
気になってしかたがないのは、なぜ少女にそんなことをさせたのか。
私にはサラがいるから、親の気持ちがわからない。
その少女もかわいかった。
ジェイソン・ハード
我々は、たくさんの罪を犯した。
そのため、彼の言うように、明けても暮れてもその経験が思い出される。
戦場に行ったことのない人は、正当防衛だ、と言うと思う。
しかし、殺さなければ殺されていた、と言われてもどうにもならない。
子供を殺した事実は忘れられない。
爆弾がつけられていたとしても、忘れられない。
それで罪の意識を持っている。
マイク・ロビンソン
2003年6月20日、強制捜査の任務につき、機関銃を持って、ビルの中で仲間を援護している時、
戦闘ヘリコプターから、不審者発見の知らせを受け、階段を下りているときに、IED=手製爆弾で足を吹き飛ばされ、帰国することになった。
帰国して市民生活を再開したが、怒りの発作がおきて、妻とは殴り合いの喧嘩をして、数回逮捕されそうになり、離婚した。
職も失った、怒りの発作が起きて、仕事が続かない。
家も失った。
妻が出て行き、家賃が払えなかった。
友人の家を回り、路上やどこにでも寝た。
ジェイソン
それは辛い。
マイク
車にいるときに、路上の人を銃撃する幻覚を見る。
ジェイソン
駐車場で?
マイク
銃撃し、自分にだけに爆弾の音が聞こえる。
これは何だろうね?
あたりは血の海で、血しぶきがかかる。
毎日死ぬことばかり考えていた。
頭の中は、どう自殺しようかという考えでいっぱいだった。
去年の1月19日、私の誕生日、一人ぼっちだったから、酒場で飲んで酔っ払い、狂ったようなスピードでジープを走らせ、タイヤが外れてしまった。
警官が来なかったので、銃で頭を吹き飛ばそうと思いながら歩いていると、女友達のエリザベスから電話があり、励ましてくれたので、自殺しないですんだ。
それから3才の娘と会い、エリザベスの娘だが、彼女が私の生きる理由になった。
サラ、来てくれない?
サラは3才だが、この子がいるから生きることができた。
この子がいなければとっくに死んでいた。
ジェイソン
私の場合、うつ病がひどくて、ガールフレンドがとても心配したが、どうしようもなかった。
マイク
心的外傷後ストレス障害はとても辛い。
怒りの発作、うつ病、自殺を繰り返す。
治療はほとんど不可能だ。
ジェイソン
兵士を募集する時、大学奨学金が貰える。
職業訓練になり、各種給付金もある。
家が持てて友人ができると言うが、イラク市民を虐待し、ひどく傷つけるという事実は言わない。
現実には、足を負傷する場合もあり、ホームレスになる人までがいる。
反戦イラク帰還兵の会・ワシントンDC支部長
ジェフ・ミラード
9.11以降に、戦地に派遣された兵士の間では、周知の事実ですが、軍では人を間化するため、ハッジという言葉を使います。
イラク人やアフガニスタン人に限らず、自分たち以外の人間をハッジと呼ぶ。
2005年の夏、42歩兵師団の作戦地域の交通管制地区で、銃撃がありました。
そういうことは、イラクでは毎日起きています。
スピードを出して来る車があり、機関銃手が脅威と判断し、50口径の銃弾を200発撃ちました。
母親、父親、子供二人を殺し、男の子は4才、女の子は3才でした。
夕方、将軍に対する報告会で、担当官がこの件を説明しました。
その時、司令官のロシェル大佐が、部下の方を向いて、
「ハッジの馬鹿が運転を知っていたら、こんなクソみたいなことは起きなかった」と言った。
周りは将校や下士官たちばかりで、私が一番下の階級でした。
誰も抗議しません。
首をかしげるものもおらず、全員がそのとおりだと思った。
ハッジの馬鹿のせいで、こんなクソみたいなことが起きた。
信じられませんでした。
でも本当なんです。
このことが忘れられませんでした。
ハッジという言葉が聞こえるたびに、あたりを見渡しました。
あの射撃手は、このことを一生背負って生きていく。
あの日、皆殺しにされたイラク人家族、それをロシェル大佐は考えない。
こんな人種差別と、間化が、戦争の最高司令官に始まり、最下層の兵士まで浸透している。
他の証言者のみなさん、また、表には出られないけれど、証言を寄せてくださった皆さんにお礼を申し上げます。
制服を着ていた時も、これほど大きな誇りを感じたことはありません。
アメリカの歴史で、最高の愛国者である皆さんと、一緒に証言できて光栄です。
ハッジとは、聖地であるメッカを巡礼したイスラム教徒のことで、地元の人にとっては尊敬すべき人を指す言葉です。
それをアメリカ軍は、軽蔑すべき人という意味で使いました。
アメリカ軍のイラク占領政策の根底には、差別感情がありました。
そして、住民の人権を蔑ろにしていきます。
ジェイソン・ハード
ジェイソン・ハードと申します。
テネシー州兵として10年間働きました。
バグダッドに、2004年11月から翌年の11月まで、派兵されました。
パトロール中に、庭の手入れをしている女性を見かけた。
通訳が、
「サラームアレイコム、神と平和があなたと共ありますように」と挨拶をすると、
「神も平和もあなたには無い」と彼女は怒って言うので、
「なぜ怒っているの?私たちはあなたを守っているのです」と言った。
その女性は、「数ヶ月前、夫が、米軍の車列に近づいたという理由で射殺された」と話した。
彼女の夫は、武装勢力でもテロリストでもなく、家族のため働く男だった。
さらに悪いことには、その数週間後、この女性が武装勢力を支援している、という情報を得て、特殊部隊が彼女の家を捜索、
彼女と子供たちに手錠をかけ、床に転がし、息子を拘束連行した。
二週間、彼女は、息子の生死も知らされませんでした。
二週間後、特殊部隊は、彼女の息子を、家のドアの前に投げ捨てていった。
謝りませんでしたが、間違っていたことに気がついたわけです。
こんなことがイラクでは毎日起きて、人々の生活を破壊している。
控えめな統計数字でも、イラク人の大半が、連合軍に対する攻撃を支持しており、我々が出て行くことに賛成で、
ほとんどのイラク人は、我々が暴力の原因だと見ています。
我々は、米軍や連合軍と戦う集団を増やしてしまった。
リアム・マダン:
占領を拒否した町は破壊されるべきだとされ、米軍は、武装勢力の町だとレッテルを貼り、攻撃を正当化している。
ある人がテロリストと呼ぶ人は、別の人にとって自由の戦士だ。
戦争を正当化するため、戦争の相手側の市民を、人間的でないものと思わなければならない。
今、アメリカでは、テロリストが人間的でないものだ。
テロリストは顔の無い敵で、破壊すべきものだ。
テロリストの定義は、市民を標的に暴力を行使するもののことだ。
米軍は、多くの市民を殺している。
戦争は、大規模に市民を殺害する。
私には、テロリストと軍隊の違いがわからない。
アダム・コケシュ:
夜間外出禁止令を出した時、夜にはあらゆるものを撃つことが許された。
写真を見せてください。
ファルージャを包囲したとき、我々は、女性と子供を出そうとした。
立派なことをしているつもりだった。
ファルージャの西、ユーフラテス川北の橋で、男は14歳未満でないと出さないと決めたので、男達を追い返しているところです。
寛大なことをしているつもりだったが、私は、ひどい意思決定を家族に強制した、と思うようになった。
25万人の住む町が、膨大な爆弾で攻撃された。
ですから、女性や子供も殺されました。
ファルージャでしたことで、私がもっとも後悔しているのは、
停戦をして、市民を避難させるチャンスをつくり、ここは戦場なので、残れば攻撃を受けると知らせ、女性と子供を外に出そうとしたが、多くは出なかった。
女性と子供が町を出るとき、14歳以上の男性は出さないので、家族の半分を残して町を出る、ということを強いた。
そして行くところも無いのに、「あっちにモスクがあるよ」と言って橋を渡らせた。
選択肢が無かった。
たくさんの家族が、一緒にいることを選び、町に留まった。
アメリカの政策に責任がある。
マイケル・リュデューク
私はマイケル・デュークと申します。
海兵隊第一大隊、武器小隊に属し、2004年6月から12月までイラクに派遣されました。
2004年10月末、僕の中隊は、ファルージャの基地近くにあるイラク訓練センターに転進した。
二回目のファルージャ侵攻・『亡霊の怒り作戦』のためでした。
攻略戦まで訓練を受けていると、ある日、大隊の法務官が全員を招集した。
彼は、大隊で軍法の最高権限を持つ人物だった。
従軍記者がいないことを確かめて、法務官は、ファルージャの交戦規定を指示した。
何が敵対的行為で、何が敵対的意思かについては、これから下士官の中で最も階級が低い兵卒にも、判断をまかせるということだった。
また、発砲偵察という戦術を奨励した。
この戦術では、家や建物を調べるために踏み込むとき、危険や不安を感じたら、どんな攻撃をしても良いと許可された。
これで、僕たちのやり方が、本当に大きく変わった。
それまでは、攻撃の段階的拡大とやり方で、厳しい条件の下で武器を使った。
しかし今、すべての住民が敵対しているとみなす。
法務官は、最後にこんな質問をした。
「海兵隊の諸君、武器を持つ人間がいたらどうしますか?」
誰かが声を上げた。
「銃を撃つ」
「違う。発砲し威圧することと、射殺することは別だ。もう一度質問する」
「武器を持つ人間を見たら?殺せ」
「双眼鏡を持つ人は?殺せ」
「携帯電話を持つ人は?殺せ」
「何も持たず、敵対行為が無くても、走っている人、逃げる人は何か画策しているとみなし、殺せ」
「白旗を掲げ命令に従ったとしても、罠とみなし殺せ」
ファルージャで僕たちは、その交戦規定に従い、最初の三日間、特に激しい戦闘が続いた。
ブルドーザーと戦車を使って、家屋を一つ一つひき潰し、瓦礫の上を歩いた。
戦闘が始まって数日後に、町は静かになった。
僕たちは、家屋の中に隠れた。
数時間から一日二日も隠れたので、退屈し、癇癪を起こし、やっちまおうぜと。
人間は撃ちつくしたから、犬や猫や鶏など、動くものは何でも撃った。
道に放置されている死体に、名前をつけている隊員がいた。
腐乱のランディ、胴体トニー、道に横たわる死体の頭を標的に、銃の照準を調整する隊員もいた。
狙いをつけて撃ち、左に反れるなら照準を調整してまた撃った。
みんなでモスクの屋根にいた時、前日占拠したばかりのモスクで、陽がさしていた。
さほど遠くないところに家があり、その地下室に家族全員が隠れていたようで、男数人と女数人、たくさんの子供たちが出てきて、手を振ったので、
武器を持たないことを知らせようとしているのだ、と思ったが、隊員の一人が、それを見て発砲した。
家族を狙ったのかどうかはわからないが、彼らはみんな逃げ、もう見ることはなかった。
いろんな家に入り込み、そこにあったアルバムの、家や近所の写真を見た。
今の状態と写真を比べ、僕たちは大笑いした。
街の下水システムが、爆弾で破壊され、下水が道路にあふれ出ていた。
その下水に死体がいっぱい溜まり、恐ろしい光景だった。
前日何人かを射殺し、残りの人たちを拘束していた。
その中に、夫を殺された女性がいて、彼女の叔父か父親は、目が見えなかった。
僕たちは、二人を家まで送り返すことになったが、二人は遅れてついてきて、足手まといだった。
途中まで来たところで、二人を、下水が溢れた道に置き去りにした。
私は、良いことをしたくて軍隊に入った。
人々の役に立ちたかった。
イラクでそれができると思った。
私は若すぎて、浅はかで、間違っていた。
何かあったことで、僕が大きく変わったというつもりはありません。
自分がしたいと思っていたことができたこともあったし、誇りを感じたこともあったが、みんなやるしかないからしていた。
正しいことも間違ったことも、命令されれば、やるしかなかった。
カルロス・ハリス
最後にイラクに行ったとき、路肩爆弾で友人が殺されました。
輸送部隊が襲われた。
敵対象はとても変化しました。
最初は共和国防衛隊でした。
それから多分、アルカーイダになりました。
今はすべての人です。
シーア派、スンナ派の民兵、つまりすべての市民です。
多分アルカーイダは、まだイラクにいるかもしれないが、米軍が戦っているのはアルカーイダとだけじゃない。
イラクの住民と戦っているのです。
アメリカ軍はイラクの住民と戦っています。
そのため、法的に正当な、軍事目標だけを攻撃するという交戦規定を守れず、住民を無差別に殺害するという事件を、日常的に繰り返すことになっています。
そして、敵は大人の男だけではありません。
子供が攻撃してくる事件も起きているので、少女の持つバッグまでも検査していました。
アメリカ軍は、女性や子供までも相手に戦争をしています。
◾️軍隊という監獄
クリストファー・ゴールドスミス
クリストファー・ゴールドスミス軍曹です。
私は今日、戦争の囚人の話をしたい。
この囚人のことを、米国人は知らない。
この写真は10歳の私で、迷彩服を着て、認識票を下げ、ボーイスカウトの敬礼をしている。
この少年はイラクで死んだ。
これは、2003年のクリスマス直後、志願した誇り高い兵士だ。
アメリカの憲法を防衛しようとした。
この少年は死んだ。
私は、マンハッタンから20分の、ニューヨークの町に住んでいます、
9.11に、貿易ビルが崩れる時の煙が見えた。
9月12日、私はピザ店で立ち上がり、「中東の人間をみんな殺したい」と言った。
中東は、核兵器でなくしてしまえと、私は思った。
マスコミがそう思わせた。
マスコミが、不当な差別観を、私に植え付けた。
私は、人を殺すため軍隊に入った。
19歳でイラクに派兵され、8ヶ月間、サドルシティに配備された。
そこはバグダッドのスラムで、サダムに無視されたばかりでなく、アメリカにも恐ろしいほど無視されている。
住民は私達を嫌っている。
私達が、自由、水、食料、仕事を約束したのに、2005年、私が見た状況は今も同じだが、
電気は一日、2時間から4時間、いきあたりばったりに供給されるだけだし、下水が水道に混じっているのに、2005年には、下水道施設を建設している業者はいなかった。
恐ろしいほど暑いところでは、昼間に外に出ようとは思わない。
夜、米兵が巡回し、「外に出るな、人と話すな、喫茶店に集まるな」と言う。
夜間の外出は違法だから、夏のサドルシティは監獄だった。
320万人のサドルシティの住民は、戦争捕虜だった。
私の陸軍褒章メダルの業績評価を読みたい。
業績ナンバー3、ゴールドスミス上等兵は、サドルシティのパトロール中、イラク軍の援軍を求められ、
ゴールドスミス上等兵は、武器の配備を率先して行ったので、イラク軍は、敵の武装勢力を逃さず、破壊することができた。
私は、その日何が起きたのか、正確に言いたい。
今読んだことは事実だが、書いてないことがある。
私は軍用車の中で立っていたが、部隊長がそばにいた。
彼は、黒い服の武装勢力を見たので撃った。
銃弾は当たり、敵は殺されたか負傷した。
部隊の最高責任者が銃撃したので、戦闘が開始され、何かしなければならなかった。
幼い少年がいた。
右のビルの屋上にいた。
少年は米兵を嫌い、棒を機関銃のように構えて、撃つまねをした。
私は銃を向け、彼を敵だと確認した。
銃を向けながら、数分間、私は考えた。
イラク人は嫌いだ。
石やレンガを投げてくる子供は嫌いだ。
この子を殺せば手柄になる。
数百万の中のたった一つの命じゃないか。
引き金は引かなかったが、それまでに長い時間がかかった。
私は6才の少年を、誰かの息子を、殺そうとした。
私は子供を殺しかねない、そんな立場に追いこまれていた。
米国によるイラク占領で、そういう立場におかれ、マスコミがイラク人に対する嫌悪を煽った。
イラクから帰国して、酒を飲み続けた。
軍を辞めて、大学に行くことだけが希望だった。
しかし、その希望は、2007年10月に打ち砕かれた。
ジョージ・ブッシュが、新たに、2、3万の軍を送ることを決めた。
私の部隊は、その要員確保政策で拘束され、誰も辞められなくなった。
軍と言う監獄から解放されると思い、最高に幸せだったのに、それからとても気がめいり、恐ろしいほど激しい苦しみの渦に落ちこんでいった。
自殺しようと思い、薬を飲んで、ウオッカをもう飲めないところまで飲み、意識が無くなり、気がつくと、病院で担架に拘束されていた。
私は結局、除隊したが、恩恵が受けられないという処分を受けた。
それで大学給付金を失った。
私にとって唯一の希望は、大学に入れるということだったのに、2007年9月、大学に入れなかった。
入学金が払えなかったのだ。
病院通いや不安定な精神状態で、仕事を見つけることはとても難しい。
私は、水曜にピザの配達をしている、ピザ配達人だ。
私は軍曹でリーダーを務め、自分がとても優秀な兵士と思っていたのに…。
写真を見せてください。
彼は、要員確保政策の犠牲者です。
この男の名前は明かせませんが、私の友人で、お見舞いに行った。
彼は対人地雷を踏んだ。
右足をほとんど失い、右耳の鼓膜が破れ、聴覚を失った。
この男は、私と同じ週に除隊できる予定だったが、その週に私の部隊は再配備された。
だから彼に起きたことは、私に起きてもおかしくなかった。
この人と私は、一緒に1年間従軍したので、よく知っていた。
病院に行ったとき、私は自殺未遂をしたことに、罪を感じていた。
病室に入るや、「従軍しないで悪いやつ」と、彼に言われることを覚悟していたが、
彼は私を見て、強く見つめて、「戦地に戻ったりはしないよね?」と言ってくれた。
その言葉は、誰からも与えられなかったもので、私の心を満たした。
あなた方にメッセージがあります。
世界中の人が理解できる。
平和。
この中の告発の一例が、先日の山本太郎さんの質疑応答の中で紹介されていました。
「戦争犯罪を繰り返す米国の片棒を担ぎ、いいポジションに居座る総理自身が総括する必要がある」山本太郎
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/7389ec30dd335c1bdb4d230e3088e2e8
先の戦争から帰還した米軍兵士たちの告発です。
とても長くなりましたが、どうか時間を作って読んでください。
今の国会で答弁をしている政府上層部の人間たちが、どれほど現実からかけ離れているか、そのことを知ることも悟ることもしようとしない、学びも反省も無い、知恵にも倫理にも貧しい人間だということがよくわかります。
冬の兵士――良心の告発
Winter Soldier
この作品は2008年3月13日から
16日まで開催されたイラク帰還兵による
証言集会・ウインターソルジャーでの証言と
独自に行った取材をもとに
イラク戦争の本質を検証したものです
冬の兵士・Winter Soldier・良心の告発
(まうみ注・帰還兵の証言、告発のみを掲載させていただきます)
アダム・コケシュ:
権力を乱用した、明らかな、専制政治が行われた時、その政府を倒すことは、人民の権利であり義務である。
デモ市民:
民主主義って何?
アダム・コケシュ:
歴史に学ばないものは間違いを繰り返す。歴史が教えるのは、我々が歴史から学んでいないということだ。
アメリカよ、目を覚ませ。
我々は、米軍の、イラクからの無条件撤退を要求する、今すぐに。
反戦イラク帰還兵の会・アダム・コケシュ:
我々帰還兵は、責任を果たすため、証言することが重要なのです。
我々は、マスコミから情報を得ていますが、多くの記者は、国防総省の発表を切り張りするだけです。
調査報道をしません。
アメリカ合衆国の名のもとに行われている多くの悪があるので、語る必要があります。
ワシントンDC郊外
全米労働大学
イラク帰還兵たちの証言集会
第一章・戦闘モラルの崩壊
ジョン・マイケル・ターナー:
2006年4月18日、初めて人を殺しました。
何の罪も無い男で、名前もわからないため、私は「太った男」と呼びました。
自宅帰る途中の男を、彼の友人と父親の前で撃った。
首のここらを撃ったので、一発では死にませんでした。
男は叫びながら、私の目をまっすぐに睨んだ。
私は、一緒に任務についていた友人を見て、「このままにしてはおけない」と言い、もう一発撃って殺しました。
男の死体は、7人の家族たちが運んでいきました。
私は謝罪したい。
罪の無い人々に怒りをぶつけ、破壊した。
これでいいと思っていたが、そうではない。
人々に、この戦争で何が起きているか知らせない限り、人は死んでいく。
私は後悔している。
もう私は、以前のような怪物ではありません。
ケリー・ドーアティー
2003年・イラクで従軍
2004年・反戦イラク帰還兵の会を設立
体験を語るだけでなく、責任と良心を持って、真実を語るという課題に直面しています。
私達は、占領を終わらせるため、マスコミの情報操作と戦い続け、帰還兵への福祉の実現とイラクへの賠償を求めます。
反戦イラク帰還兵のメンバーは立ち上がってください。
反戦イラク帰還兵の会は、占領軍のイラクからの即時撤退、イラクへの賠償、帰還兵への福祉の実現を目的に結成されました。
そして、2008年3月13日から16日まで、厳しい冬の時代に戦う兵士と言う意味の、ウインターソルジャーと名づけた集会を開催し、戦争の体験を証言しました。
証言は、多くのテーマで行われましたが、一番最初は、敵を攻撃するルールである交戦規定についての証言でした。
◾️交戦規定(敵を攻撃するルール)
アダム・コケシュ
1999年、高校卒業後、17歳で海兵隊に入隊。
海軍褒賞メダル、戦闘リボン、国家防衛メダル、イラク従軍記章を授与されている。
アダム・コケシュと申します。
2004年2月から9月まで、ファルージャで従軍しました。
開戦前、戦争に反対でした。
国連でパウエルが言った嘘や、情報操作を信じましたが、開戦すべきとは思わなかった。
しかし、米国は混乱を収め、本気でイラク国民の役に立とうとしていると考え、命を賭けて戦争に参加しました。
これは、イラクに派遣された時に渡された交戦規定のカードです。
次のような条件で、敵の軍を攻撃することができる。
交戦前に、明確な敵の確認が必要である。
明確な確認とは、合理的で間違いが無いこと、とカードには書いてある。
攻撃対象は、法的に正当な軍事目標。
これを胸のポケットに入れておくことになっていた。
ファルージャを包囲したとき、交戦規定は、下着を変えるよりも頻繁に変わった。
最初は、交戦規定を守ることを求められたが、怪しいものは射殺することになる。
双眼鏡や携帯電話を持つもの、ついには誰でも攻撃対象となった。
現地に着いてから数日経って、ある事件が起きた。
検問所で銃撃行動があった。
最初の写真をお願いします。
これは検問所に近づいた車です。
「怪しい車が高速で来た」といわれ、大口径の機関銃で撃ちまくった。
減速しないものはすべて、敵の戦闘員だとみなした。
銃弾は、バンパーからエンジンを破壊、このイラク人の胸を撃ちぬき、座席まで破壊した。
車のそばで撮影した私の記念写真です。
居合わせた海兵隊員全員が、かわるがわる写真を撮ったのです。
少なくとも、米兵側の認識では、武装勢力とだけ戦っているつもりだった。
米軍にとって、ファルージャ市民は、意図した攻撃目標ではなかった。
すべては上層部の作戦のせいでおきた。
市民を殺そうと考えた兵士はいなかったが、市民を殺害した。
ファルージャ市民を、ひどく軽視した上層部の作戦が、ファルージャにいるものはみんな、武装勢力かその同調者だとみなした。
武装勢力とは、米軍の占領にうんざりしている人たちです。
私は17歳で海兵隊に入った。
もし自分が17歳でイラク人だったら、占領軍を自分の国から追い払うため、武器を手に取らないかもしれないが、自分のとるべき立場はわかる。
12歳から17歳で、男としてまともに育っていれば、自分の国が外国に占領されて、いい気持ちではいられない。
政策を支持させるため、アメリカ市民を情報操作している。
アルカーイダは、アメリカ人を怖がらせる亡霊のひとつだ。
ジェイソン・ウオッシュバーン
ジェイソン・ウオッシュバーンです。
海兵隊の伍長で、4年間に3回イラクに派遣されました。
派兵のたび、交戦規定が変わりました。
振り向くたびに交戦規定が変わっている。
ある女性が通りかかり、大きな袋を持っていた。
こちらに向かってくるように見えたので、私たちは、MK19銃をぶっ放した。
粉塵が収まると、その袋には、食料品がいっぱい詰まっていただけだと分った。
我々に食料を持ってきた女性を。粉々にしたのです。
暗黙の了解のもとで奨励されていたことがあった。
証拠として残すための、武器やシャベルを持っていくことです。
爆弾を埋めるために使われるシャベルを持っていき、市民を間違って射殺した時、それを死体の上に置けば、武装勢力だったと言える。
友人が言ったように、イラク人が、シャベルや重そうな袋を持っていたら、撃っていいと決められていた。
だから、シャベルや武器を車に積み、市民を殺害した時に死体の上に置き、交戦規則に従い、掘っていたから撃った、と言うのです。
J・ウエイン・レミュー
J・ウエイン・レミュー、反戦イラク帰還兵の会のメンバーです。
海兵隊歩兵部隊で4年10ヶ月勤め、軍曹として名誉除隊しました。
イラクに3回派遣され、侵略開始時にも参加しました。
正しい交戦規定には、軍の正当化という目的があります。
軍が抑圧ではなくて、保護していると思わせるのです。
交戦規定を守ることで、反占領運動を防ぎ、占領を諸外国から非難されないようにします。
ところが、イラクでアメリカは、それをしませんでした。
この事実を否定するものは、嘘つきかばか者です。
2004年4月、アンバール州の戦闘に、私達の部隊は参加しましたが、銃撃戦が始まると、司令官が、このように命じました。
「イスラム教徒の衣装のものは、敵対しているとみなし撃ってよし」
その1,2時間後、路上にいるものはすべて、敵の戦闘員とみなした。
その命令が出た日の午後、街角で、武器を持たないイラク人が戸口から出てきた。
海兵隊員がライフルで狙いをつけたが、心理的拒否反応のためか、そこで私の記憶が消え、次に思い出すのは、男の死体を跨いだことです。
男が出てきた部屋は倉庫で、スナック菓子あるだけでした。
どこにも武器は無かった。
数週間後、司令官は、「敵を100人殺した」と言いました。
その数には、町を歩いていただけで射殺された人が含まれています。
このころには二回目、三回目の派兵となる海兵隊員の多くが、仲間が死ぬのを見て、深刻なトラウマに苦しんでいた。
そのため、非戦闘員としか思えない人を撃つようになった。
道路わきで爆弾が爆発したことがあり、海兵隊員が銃を撃ったが、数百メートルも離れた数台の車に向けて撃った。
遠くて誰が乗っているのかもわからず、脅威の無い車だった。
無差別射撃をした兵士は、司令官が、野菜を担いで歩いていた老婦人を射殺したのを見たことがありました。
彼は、「その女を撃て」と命じられたが断ったので、司令官が撃った。
危険の無い車を彼が撃ったのは、司令官をお手本にしただけでした。
交戦規定は頻繁に書き換えられ、その内容は矛盾するものになりました。
規定が厳しい時には守らず、市民を銃撃して殺しても報告されません。
私達は、自分を守ることが精一杯でした。
解放したはずの市民が、誰でも爆弾で攻撃してくる危険がある。
誰が敵か分からず、命をかける使命も無いので、海兵隊員は、交戦規定を冗談か、無事故郷に帰るためには、誤魔化すものと考えていた。
交戦規定の運用がでたらめなのは、戦略が間違っているためで、モラルが無くなった。
恥を知るべきです。
イラクから、直ちに軍を撤収すべきで、その理由の一つが、交戦規定の乱用です。
ジェイソン・ハード
戦争を終わらせるための、大きな一歩が始まりました。
反戦イラク帰還兵の会への入会者が激増し、たくさんの帰還兵が来て、兄弟姉妹の契りを結び、長く続く友情を育んでいます。
ウインターソルジャーが明らかにしたいのは、イラクで起きていることは、個人ではなく、政策の責任だと言うことです。
証言者の軍歴を見れば、彼らが優れた兵士だったとわかります。
証言者はみんな、国を愛する愛国者です。
ウイタンーソルジャーに来た市民も、みんな国を愛しています。
アメリカを信じているのです。
アメリカ精神である、人間らしい国を作ること、それを私たちは目指しているのです。
マイク・ロビンソン
州兵の歩兵機関銃部隊として、バグダッドの北にあるバラド空軍基地に派兵されました。
バラドは旧イラク軍の空軍基地で、我々は、飛行機用の巨大なコンクリート製格納庫に住みました。
自分のした作戦について、話したいと思います。
これがバラド基地です。
ここに、戦闘用ヘリコプターが駐機していました。
それを、テロリストと呼ばれる人たちが、毎晩、ロケット砲で攻撃してきた。
基地の南東はブドウ畑で、ヘリコプターを攻撃した者は見つからなかったが、あるイラク人が畑を見ながら歩いているのを発見した。
50才くらいの男で、背中に機関銃を背負っていた。
彼は草むらに何かを感じ、我々の物音が聞こえたのだろう、銃に手を伸ばした。
怖かったのだろう。
交戦命令が下り、私は彼に向かって5発撃った。
他の部隊も銃撃、彼は虫の息で、トラックに乗せると亡くなった。
彼は怖がっただけで、悪いことはしなかった。
私だって犯罪を犯したわけではない。
彼は撃とうとしたし、私は命令された。
このことで苦しんでいる。
普通の市民を殺したのだから。
バラド基地の正面入り口で、警備をしていた時です。
幼い少女が、門に向かって歩いてきた。
7歳の少女です。
通訳が、「止まれ」とイラクの言葉でいった。
少女は止まらない。
どうしたら良いのか?
「止まれ」と言って止まらない子供は、射殺するしかないのでしょうか?
命令が下り、彼らは、7歳の少女を射殺した。
調べると、彼女の胸に爆弾がつけられていて、服で隠されていた。
お父さんが、娘に自殺攻撃をさせた。
5人の兵隊がそこにいた。
お父さんが、娘の命よりも米兵の死を望んだ…。
射殺してしまった…。
命令されたのが私でなくて良かった。
イラクでは、人間性が踏みにじられてしまった。
5人のためだとしても辛い。
どうしたら良いだろう。
頭を離れないことがある。
気になってしかたがないのは、なぜ少女にそんなことをさせたのか。
私にはサラがいるから、親の気持ちがわからない。
その少女もかわいかった。
ジェイソン・ハード
我々は、たくさんの罪を犯した。
そのため、彼の言うように、明けても暮れてもその経験が思い出される。
戦場に行ったことのない人は、正当防衛だ、と言うと思う。
しかし、殺さなければ殺されていた、と言われてもどうにもならない。
子供を殺した事実は忘れられない。
爆弾がつけられていたとしても、忘れられない。
それで罪の意識を持っている。
マイク・ロビンソン
2003年6月20日、強制捜査の任務につき、機関銃を持って、ビルの中で仲間を援護している時、
戦闘ヘリコプターから、不審者発見の知らせを受け、階段を下りているときに、IED=手製爆弾で足を吹き飛ばされ、帰国することになった。
帰国して市民生活を再開したが、怒りの発作がおきて、妻とは殴り合いの喧嘩をして、数回逮捕されそうになり、離婚した。
職も失った、怒りの発作が起きて、仕事が続かない。
家も失った。
妻が出て行き、家賃が払えなかった。
友人の家を回り、路上やどこにでも寝た。
ジェイソン
それは辛い。
マイク
車にいるときに、路上の人を銃撃する幻覚を見る。
ジェイソン
駐車場で?
マイク
銃撃し、自分にだけに爆弾の音が聞こえる。
これは何だろうね?
あたりは血の海で、血しぶきがかかる。
毎日死ぬことばかり考えていた。
頭の中は、どう自殺しようかという考えでいっぱいだった。
去年の1月19日、私の誕生日、一人ぼっちだったから、酒場で飲んで酔っ払い、狂ったようなスピードでジープを走らせ、タイヤが外れてしまった。
警官が来なかったので、銃で頭を吹き飛ばそうと思いながら歩いていると、女友達のエリザベスから電話があり、励ましてくれたので、自殺しないですんだ。
それから3才の娘と会い、エリザベスの娘だが、彼女が私の生きる理由になった。
サラ、来てくれない?
サラは3才だが、この子がいるから生きることができた。
この子がいなければとっくに死んでいた。
ジェイソン
私の場合、うつ病がひどくて、ガールフレンドがとても心配したが、どうしようもなかった。
マイク
心的外傷後ストレス障害はとても辛い。
怒りの発作、うつ病、自殺を繰り返す。
治療はほとんど不可能だ。
ジェイソン
兵士を募集する時、大学奨学金が貰える。
職業訓練になり、各種給付金もある。
家が持てて友人ができると言うが、イラク市民を虐待し、ひどく傷つけるという事実は言わない。
現実には、足を負傷する場合もあり、ホームレスになる人までがいる。
反戦イラク帰還兵の会・ワシントンDC支部長
ジェフ・ミラード
9.11以降に、戦地に派遣された兵士の間では、周知の事実ですが、軍では人を間化するため、ハッジという言葉を使います。
イラク人やアフガニスタン人に限らず、自分たち以外の人間をハッジと呼ぶ。
2005年の夏、42歩兵師団の作戦地域の交通管制地区で、銃撃がありました。
そういうことは、イラクでは毎日起きています。
スピードを出して来る車があり、機関銃手が脅威と判断し、50口径の銃弾を200発撃ちました。
母親、父親、子供二人を殺し、男の子は4才、女の子は3才でした。
夕方、将軍に対する報告会で、担当官がこの件を説明しました。
その時、司令官のロシェル大佐が、部下の方を向いて、
「ハッジの馬鹿が運転を知っていたら、こんなクソみたいなことは起きなかった」と言った。
周りは将校や下士官たちばかりで、私が一番下の階級でした。
誰も抗議しません。
首をかしげるものもおらず、全員がそのとおりだと思った。
ハッジの馬鹿のせいで、こんなクソみたいなことが起きた。
信じられませんでした。
でも本当なんです。
このことが忘れられませんでした。
ハッジという言葉が聞こえるたびに、あたりを見渡しました。
あの射撃手は、このことを一生背負って生きていく。
あの日、皆殺しにされたイラク人家族、それをロシェル大佐は考えない。
こんな人種差別と、間化が、戦争の最高司令官に始まり、最下層の兵士まで浸透している。
他の証言者のみなさん、また、表には出られないけれど、証言を寄せてくださった皆さんにお礼を申し上げます。
制服を着ていた時も、これほど大きな誇りを感じたことはありません。
アメリカの歴史で、最高の愛国者である皆さんと、一緒に証言できて光栄です。
ハッジとは、聖地であるメッカを巡礼したイスラム教徒のことで、地元の人にとっては尊敬すべき人を指す言葉です。
それをアメリカ軍は、軽蔑すべき人という意味で使いました。
アメリカ軍のイラク占領政策の根底には、差別感情がありました。
そして、住民の人権を蔑ろにしていきます。
ジェイソン・ハード
ジェイソン・ハードと申します。
テネシー州兵として10年間働きました。
バグダッドに、2004年11月から翌年の11月まで、派兵されました。
パトロール中に、庭の手入れをしている女性を見かけた。
通訳が、
「サラームアレイコム、神と平和があなたと共ありますように」と挨拶をすると、
「神も平和もあなたには無い」と彼女は怒って言うので、
「なぜ怒っているの?私たちはあなたを守っているのです」と言った。
その女性は、「数ヶ月前、夫が、米軍の車列に近づいたという理由で射殺された」と話した。
彼女の夫は、武装勢力でもテロリストでもなく、家族のため働く男だった。
さらに悪いことには、その数週間後、この女性が武装勢力を支援している、という情報を得て、特殊部隊が彼女の家を捜索、
彼女と子供たちに手錠をかけ、床に転がし、息子を拘束連行した。
二週間、彼女は、息子の生死も知らされませんでした。
二週間後、特殊部隊は、彼女の息子を、家のドアの前に投げ捨てていった。
謝りませんでしたが、間違っていたことに気がついたわけです。
こんなことがイラクでは毎日起きて、人々の生活を破壊している。
控えめな統計数字でも、イラク人の大半が、連合軍に対する攻撃を支持しており、我々が出て行くことに賛成で、
ほとんどのイラク人は、我々が暴力の原因だと見ています。
我々は、米軍や連合軍と戦う集団を増やしてしまった。
リアム・マダン:
占領を拒否した町は破壊されるべきだとされ、米軍は、武装勢力の町だとレッテルを貼り、攻撃を正当化している。
ある人がテロリストと呼ぶ人は、別の人にとって自由の戦士だ。
戦争を正当化するため、戦争の相手側の市民を、人間的でないものと思わなければならない。
今、アメリカでは、テロリストが人間的でないものだ。
テロリストは顔の無い敵で、破壊すべきものだ。
テロリストの定義は、市民を標的に暴力を行使するもののことだ。
米軍は、多くの市民を殺している。
戦争は、大規模に市民を殺害する。
私には、テロリストと軍隊の違いがわからない。
アダム・コケシュ:
夜間外出禁止令を出した時、夜にはあらゆるものを撃つことが許された。
写真を見せてください。
ファルージャを包囲したとき、我々は、女性と子供を出そうとした。
立派なことをしているつもりだった。
ファルージャの西、ユーフラテス川北の橋で、男は14歳未満でないと出さないと決めたので、男達を追い返しているところです。
寛大なことをしているつもりだったが、私は、ひどい意思決定を家族に強制した、と思うようになった。
25万人の住む町が、膨大な爆弾で攻撃された。
ですから、女性や子供も殺されました。
ファルージャでしたことで、私がもっとも後悔しているのは、
停戦をして、市民を避難させるチャンスをつくり、ここは戦場なので、残れば攻撃を受けると知らせ、女性と子供を外に出そうとしたが、多くは出なかった。
女性と子供が町を出るとき、14歳以上の男性は出さないので、家族の半分を残して町を出る、ということを強いた。
そして行くところも無いのに、「あっちにモスクがあるよ」と言って橋を渡らせた。
選択肢が無かった。
たくさんの家族が、一緒にいることを選び、町に留まった。
アメリカの政策に責任がある。
マイケル・リュデューク
私はマイケル・デュークと申します。
海兵隊第一大隊、武器小隊に属し、2004年6月から12月までイラクに派遣されました。
2004年10月末、僕の中隊は、ファルージャの基地近くにあるイラク訓練センターに転進した。
二回目のファルージャ侵攻・『亡霊の怒り作戦』のためでした。
攻略戦まで訓練を受けていると、ある日、大隊の法務官が全員を招集した。
彼は、大隊で軍法の最高権限を持つ人物だった。
従軍記者がいないことを確かめて、法務官は、ファルージャの交戦規定を指示した。
何が敵対的行為で、何が敵対的意思かについては、これから下士官の中で最も階級が低い兵卒にも、判断をまかせるということだった。
また、発砲偵察という戦術を奨励した。
この戦術では、家や建物を調べるために踏み込むとき、危険や不安を感じたら、どんな攻撃をしても良いと許可された。
これで、僕たちのやり方が、本当に大きく変わった。
それまでは、攻撃の段階的拡大とやり方で、厳しい条件の下で武器を使った。
しかし今、すべての住民が敵対しているとみなす。
法務官は、最後にこんな質問をした。
「海兵隊の諸君、武器を持つ人間がいたらどうしますか?」
誰かが声を上げた。
「銃を撃つ」
「違う。発砲し威圧することと、射殺することは別だ。もう一度質問する」
「武器を持つ人間を見たら?殺せ」
「双眼鏡を持つ人は?殺せ」
「携帯電話を持つ人は?殺せ」
「何も持たず、敵対行為が無くても、走っている人、逃げる人は何か画策しているとみなし、殺せ」
「白旗を掲げ命令に従ったとしても、罠とみなし殺せ」
ファルージャで僕たちは、その交戦規定に従い、最初の三日間、特に激しい戦闘が続いた。
ブルドーザーと戦車を使って、家屋を一つ一つひき潰し、瓦礫の上を歩いた。
戦闘が始まって数日後に、町は静かになった。
僕たちは、家屋の中に隠れた。
数時間から一日二日も隠れたので、退屈し、癇癪を起こし、やっちまおうぜと。
人間は撃ちつくしたから、犬や猫や鶏など、動くものは何でも撃った。
道に放置されている死体に、名前をつけている隊員がいた。
腐乱のランディ、胴体トニー、道に横たわる死体の頭を標的に、銃の照準を調整する隊員もいた。
狙いをつけて撃ち、左に反れるなら照準を調整してまた撃った。
みんなでモスクの屋根にいた時、前日占拠したばかりのモスクで、陽がさしていた。
さほど遠くないところに家があり、その地下室に家族全員が隠れていたようで、男数人と女数人、たくさんの子供たちが出てきて、手を振ったので、
武器を持たないことを知らせようとしているのだ、と思ったが、隊員の一人が、それを見て発砲した。
家族を狙ったのかどうかはわからないが、彼らはみんな逃げ、もう見ることはなかった。
いろんな家に入り込み、そこにあったアルバムの、家や近所の写真を見た。
今の状態と写真を比べ、僕たちは大笑いした。
街の下水システムが、爆弾で破壊され、下水が道路にあふれ出ていた。
その下水に死体がいっぱい溜まり、恐ろしい光景だった。
前日何人かを射殺し、残りの人たちを拘束していた。
その中に、夫を殺された女性がいて、彼女の叔父か父親は、目が見えなかった。
僕たちは、二人を家まで送り返すことになったが、二人は遅れてついてきて、足手まといだった。
途中まで来たところで、二人を、下水が溢れた道に置き去りにした。
私は、良いことをしたくて軍隊に入った。
人々の役に立ちたかった。
イラクでそれができると思った。
私は若すぎて、浅はかで、間違っていた。
何かあったことで、僕が大きく変わったというつもりはありません。
自分がしたいと思っていたことができたこともあったし、誇りを感じたこともあったが、みんなやるしかないからしていた。
正しいことも間違ったことも、命令されれば、やるしかなかった。
カルロス・ハリス
最後にイラクに行ったとき、路肩爆弾で友人が殺されました。
輸送部隊が襲われた。
敵対象はとても変化しました。
最初は共和国防衛隊でした。
それから多分、アルカーイダになりました。
今はすべての人です。
シーア派、スンナ派の民兵、つまりすべての市民です。
多分アルカーイダは、まだイラクにいるかもしれないが、米軍が戦っているのはアルカーイダとだけじゃない。
イラクの住民と戦っているのです。
アメリカ軍はイラクの住民と戦っています。
そのため、法的に正当な、軍事目標だけを攻撃するという交戦規定を守れず、住民を無差別に殺害するという事件を、日常的に繰り返すことになっています。
そして、敵は大人の男だけではありません。
子供が攻撃してくる事件も起きているので、少女の持つバッグまでも検査していました。
アメリカ軍は、女性や子供までも相手に戦争をしています。
◾️軍隊という監獄
クリストファー・ゴールドスミス
クリストファー・ゴールドスミス軍曹です。
私は今日、戦争の囚人の話をしたい。
この囚人のことを、米国人は知らない。
この写真は10歳の私で、迷彩服を着て、認識票を下げ、ボーイスカウトの敬礼をしている。
この少年はイラクで死んだ。
これは、2003年のクリスマス直後、志願した誇り高い兵士だ。
アメリカの憲法を防衛しようとした。
この少年は死んだ。
私は、マンハッタンから20分の、ニューヨークの町に住んでいます、
9.11に、貿易ビルが崩れる時の煙が見えた。
9月12日、私はピザ店で立ち上がり、「中東の人間をみんな殺したい」と言った。
中東は、核兵器でなくしてしまえと、私は思った。
マスコミがそう思わせた。
マスコミが、不当な差別観を、私に植え付けた。
私は、人を殺すため軍隊に入った。
19歳でイラクに派兵され、8ヶ月間、サドルシティに配備された。
そこはバグダッドのスラムで、サダムに無視されたばかりでなく、アメリカにも恐ろしいほど無視されている。
住民は私達を嫌っている。
私達が、自由、水、食料、仕事を約束したのに、2005年、私が見た状況は今も同じだが、
電気は一日、2時間から4時間、いきあたりばったりに供給されるだけだし、下水が水道に混じっているのに、2005年には、下水道施設を建設している業者はいなかった。
恐ろしいほど暑いところでは、昼間に外に出ようとは思わない。
夜、米兵が巡回し、「外に出るな、人と話すな、喫茶店に集まるな」と言う。
夜間の外出は違法だから、夏のサドルシティは監獄だった。
320万人のサドルシティの住民は、戦争捕虜だった。
私の陸軍褒章メダルの業績評価を読みたい。
業績ナンバー3、ゴールドスミス上等兵は、サドルシティのパトロール中、イラク軍の援軍を求められ、
ゴールドスミス上等兵は、武器の配備を率先して行ったので、イラク軍は、敵の武装勢力を逃さず、破壊することができた。
私は、その日何が起きたのか、正確に言いたい。
今読んだことは事実だが、書いてないことがある。
私は軍用車の中で立っていたが、部隊長がそばにいた。
彼は、黒い服の武装勢力を見たので撃った。
銃弾は当たり、敵は殺されたか負傷した。
部隊の最高責任者が銃撃したので、戦闘が開始され、何かしなければならなかった。
幼い少年がいた。
右のビルの屋上にいた。
少年は米兵を嫌い、棒を機関銃のように構えて、撃つまねをした。
私は銃を向け、彼を敵だと確認した。
銃を向けながら、数分間、私は考えた。
イラク人は嫌いだ。
石やレンガを投げてくる子供は嫌いだ。
この子を殺せば手柄になる。
数百万の中のたった一つの命じゃないか。
引き金は引かなかったが、それまでに長い時間がかかった。
私は6才の少年を、誰かの息子を、殺そうとした。
私は子供を殺しかねない、そんな立場に追いこまれていた。
米国によるイラク占領で、そういう立場におかれ、マスコミがイラク人に対する嫌悪を煽った。
イラクから帰国して、酒を飲み続けた。
軍を辞めて、大学に行くことだけが希望だった。
しかし、その希望は、2007年10月に打ち砕かれた。
ジョージ・ブッシュが、新たに、2、3万の軍を送ることを決めた。
私の部隊は、その要員確保政策で拘束され、誰も辞められなくなった。
軍と言う監獄から解放されると思い、最高に幸せだったのに、それからとても気がめいり、恐ろしいほど激しい苦しみの渦に落ちこんでいった。
自殺しようと思い、薬を飲んで、ウオッカをもう飲めないところまで飲み、意識が無くなり、気がつくと、病院で担架に拘束されていた。
私は結局、除隊したが、恩恵が受けられないという処分を受けた。
それで大学給付金を失った。
私にとって唯一の希望は、大学に入れるということだったのに、2007年9月、大学に入れなかった。
入学金が払えなかったのだ。
病院通いや不安定な精神状態で、仕事を見つけることはとても難しい。
私は、水曜にピザの配達をしている、ピザ配達人だ。
私は軍曹でリーダーを務め、自分がとても優秀な兵士と思っていたのに…。
写真を見せてください。
彼は、要員確保政策の犠牲者です。
この男の名前は明かせませんが、私の友人で、お見舞いに行った。
彼は対人地雷を踏んだ。
右足をほとんど失い、右耳の鼓膜が破れ、聴覚を失った。
この男は、私と同じ週に除隊できる予定だったが、その週に私の部隊は再配備された。
だから彼に起きたことは、私に起きてもおかしくなかった。
この人と私は、一緒に1年間従軍したので、よく知っていた。
病院に行ったとき、私は自殺未遂をしたことに、罪を感じていた。
病室に入るや、「従軍しないで悪いやつ」と、彼に言われることを覚悟していたが、
彼は私を見て、強く見つめて、「戦地に戻ったりはしないよね?」と言ってくれた。
その言葉は、誰からも与えられなかったもので、私の心を満たした。
あなた方にメッセージがあります。
世界中の人が理解できる。
平和。