青磁は平安時代より、我が国に輸入されていましたが、使用出来たのは、皇族と、1部の特権階級の者
のみと、言われています。
⑥ー2 青磁色の謎
e) 青磁の釉は、厚く掛ける事です。
青磁の陶片の断面を見ると、胎土と同じ又は、それ以上の厚みの釉の層が見られます。
釉を厚く掛けるには、一度に濃い釉を掛けるのではなく、やや薄めの釉を、数度に分けて塗る事です。
一度に、濃い釉を掛けると、釉が逃げて、[釉ハゲ]を起します。釉の層が厚いほど、
色も濃く、深みのある色となり、貫入も入り易く成ります。
発掘された作品は、薄作りです。轆轤で作っていますが、当然、職人の技が冴えています。
これを、薄胎厚釉(はくたい、こうゆう)と呼びます。
(余談ですが、どうしても、轆轤で薄く作れない場合は、削り作業で肉を薄くします。)
f) 貫入(かんにゅう=ひび)を引き立たせる方法。
一般に、貫入は釉の割れですので、欠点と見なされます。しかし青磁の場合は、ここが見所でも
あります。それ故、積極的に貫入を、目だ立たせる事さえあります。
(又、氷裂青磁と言い、「ひび」を大きくする釉もあります。)
イ) 使用していると、自然に「ひび」に色が付く。貫入の部の鉄分が、空気に触れて、酸化し
赤錆の様な色に成る事もありますが、ほとんどは、汚れが侵入したものと、思われます。
ロ) 砂糖水に作品を漬け、素焼する事により、割れ目に入った砂糖が、焼成で墨状になり、
黒い色が残ります。
ハ) 本焼き後に、書道の墨や、弁柄を全面に塗り込み、黒や赤い色を、浸み込む方法も在ります。
直ぐに乾燥しますから、水洗いします。以後水で洗っても、色が落ちる事は、ありません。
g) 「紫口鉄足」」(しこう、てっそく)
良い青磁を表す言葉に、「雨過天青」と言う言葉の他に、「紫口鉄足」と言う言葉もあります。
鉄分を含んだ胎土に、青磁の釉を掛けて焼成すると、口縁部では、素地の鉄分を熔かし、
やや流れた状態になり、色が茶色っぽく成ります。これを「紫口」と言います。
下部は、釉が掛からず、鉄分の色がそのまま出ます。それ故、「紫口鉄足」と表現します。
⑥ 北宋、南宋の官窯の青磁(龍泉窯)
北宋末~南宋前期に掛け、浙江省、西南にある龍泉市を中心に、四百以上の窯址が、確認され
中国最大の、青磁の生産地である事が、判明します。
日本人を最も魅了した陶磁器の一つに、この龍泉窯産の青磁が挙げられます。(砧青磁など)
同時に、世界に向けて、最も多く輸出された、青磁でもあります。
) 龍泉窯独特の作風が、確立されたのは、11世紀の北宋時代と言われています。
初期の作品は、灰色かかった、淡い青磁が特徴で、作品も日常品の、瓶、皿、碗、水注など
の他、埋葬用の「明器」も生産されています。
北宋後期では、緑青の釉が多くなり、海外に輸出される様に成ります。
) 12世紀末~13世紀初頭の、南宋の時代に、技術と意匠が大きく発展します。
薄胎厚釉(はくたいこうゆう): 薄い胎土に、厚めの釉を掛けます。
粉青(ふんせい)釉(水色)の青磁が、生産される様に成ります。
作品類も、青銅器や金銀器、ガラスなどに由来する、新たな形の青磁が作られます。
) 元の時代に成ると、支配階級のモンゴル人や、西アジア人の好みに合う、大型の花瓶、
酒器、大皿(大盤)が作られ、貼花文、書花文、鉄斑文などの、装飾が施される様に成ります。
この時代が、龍泉窯の最盛期で、世界各地に運ばれます。トルコのトプカプ宮殿のコレクションや、
前に述べた、新安沖沈船に詰まれていたのも、この時代の青磁です。
) 明~清の時代になると、宮廷用の最上質の青磁が、焼かれますが、陶磁器の中心は、
次第に、景徳鎮の青花磁器や、五彩磁器などに、取って代わって行きます。
それに伴い、龍泉窯の製品は、粗雑化し、釉も黄色がかり、輸出も途絶えて、衰退して行きます。
⑦ 「砧青磁」「天竜寺青磁」「七官青磁」
以下次回に続きます。
のみと、言われています。
⑥ー2 青磁色の謎
e) 青磁の釉は、厚く掛ける事です。
青磁の陶片の断面を見ると、胎土と同じ又は、それ以上の厚みの釉の層が見られます。
釉を厚く掛けるには、一度に濃い釉を掛けるのではなく、やや薄めの釉を、数度に分けて塗る事です。
一度に、濃い釉を掛けると、釉が逃げて、[釉ハゲ]を起します。釉の層が厚いほど、
色も濃く、深みのある色となり、貫入も入り易く成ります。
発掘された作品は、薄作りです。轆轤で作っていますが、当然、職人の技が冴えています。
これを、薄胎厚釉(はくたい、こうゆう)と呼びます。
(余談ですが、どうしても、轆轤で薄く作れない場合は、削り作業で肉を薄くします。)
f) 貫入(かんにゅう=ひび)を引き立たせる方法。
一般に、貫入は釉の割れですので、欠点と見なされます。しかし青磁の場合は、ここが見所でも
あります。それ故、積極的に貫入を、目だ立たせる事さえあります。
(又、氷裂青磁と言い、「ひび」を大きくする釉もあります。)
イ) 使用していると、自然に「ひび」に色が付く。貫入の部の鉄分が、空気に触れて、酸化し
赤錆の様な色に成る事もありますが、ほとんどは、汚れが侵入したものと、思われます。
ロ) 砂糖水に作品を漬け、素焼する事により、割れ目に入った砂糖が、焼成で墨状になり、
黒い色が残ります。
ハ) 本焼き後に、書道の墨や、弁柄を全面に塗り込み、黒や赤い色を、浸み込む方法も在ります。
直ぐに乾燥しますから、水洗いします。以後水で洗っても、色が落ちる事は、ありません。
g) 「紫口鉄足」」(しこう、てっそく)
良い青磁を表す言葉に、「雨過天青」と言う言葉の他に、「紫口鉄足」と言う言葉もあります。
鉄分を含んだ胎土に、青磁の釉を掛けて焼成すると、口縁部では、素地の鉄分を熔かし、
やや流れた状態になり、色が茶色っぽく成ります。これを「紫口」と言います。
下部は、釉が掛からず、鉄分の色がそのまま出ます。それ故、「紫口鉄足」と表現します。
⑥ 北宋、南宋の官窯の青磁(龍泉窯)
北宋末~南宋前期に掛け、浙江省、西南にある龍泉市を中心に、四百以上の窯址が、確認され
中国最大の、青磁の生産地である事が、判明します。
日本人を最も魅了した陶磁器の一つに、この龍泉窯産の青磁が挙げられます。(砧青磁など)
同時に、世界に向けて、最も多く輸出された、青磁でもあります。
) 龍泉窯独特の作風が、確立されたのは、11世紀の北宋時代と言われています。
初期の作品は、灰色かかった、淡い青磁が特徴で、作品も日常品の、瓶、皿、碗、水注など
の他、埋葬用の「明器」も生産されています。
北宋後期では、緑青の釉が多くなり、海外に輸出される様に成ります。
) 12世紀末~13世紀初頭の、南宋の時代に、技術と意匠が大きく発展します。
薄胎厚釉(はくたいこうゆう): 薄い胎土に、厚めの釉を掛けます。
粉青(ふんせい)釉(水色)の青磁が、生産される様に成ります。
作品類も、青銅器や金銀器、ガラスなどに由来する、新たな形の青磁が作られます。
) 元の時代に成ると、支配階級のモンゴル人や、西アジア人の好みに合う、大型の花瓶、
酒器、大皿(大盤)が作られ、貼花文、書花文、鉄斑文などの、装飾が施される様に成ります。
この時代が、龍泉窯の最盛期で、世界各地に運ばれます。トルコのトプカプ宮殿のコレクションや、
前に述べた、新安沖沈船に詰まれていたのも、この時代の青磁です。
) 明~清の時代になると、宮廷用の最上質の青磁が、焼かれますが、陶磁器の中心は、
次第に、景徳鎮の青花磁器や、五彩磁器などに、取って代わって行きます。
それに伴い、龍泉窯の製品は、粗雑化し、釉も黄色がかり、輸出も途絶えて、衰退して行きます。
⑦ 「砧青磁」「天竜寺青磁」「七官青磁」
以下次回に続きます。
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