愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

船形山城址 豊橋市

2016年10月17日 12時54分21秒 | 豊橋市
その日、2つ目の城です。船形山城です。

船形山城
豊橋市多米校区自治会のホームページによれば、船形山城は、
「三河と遠江の境にあるため戦略上の重要な拠点となり、駿河の今川氏はここに山城を築いて西進の足掛かりとした。築城の時期は明応年間(1492~1501)とされる。山城は、南東の尾根筋に築かれ、長さ240m、本丸にあたる平坦地を中心に北東隅に大きな空堀があり、西崖下に腰曲輪があった。」
とありました。

愛知の山城ベスト50によれば、明応年間に今川方の武将多米又三郎が戸田宗光らの攻撃を受け、落城したとありました。また、永禄11年(1568)徳川方の武将松平家忠と小笠原廣重が、武田軍への押さえとして、この船形山の砦を守ったそうです。小笠原廣重の息子小笠原信元もここを守ったそうです。

古刹 普門寺
さて、船形山城に行くには、麓の普門寺から行きます。

普門寺山門

普門寺は、奈良時代に行基によって開山した真言宗の寺だそうです。けっこう古いお寺です。船形山城に行くには、鐘楼門を左に曲がって山を登ります。

普門寺鐘楼門。宝永4年(1707)に建立されたそうです。

山道でハイキングのご夫婦に出会う
ここからの山登りが大変でした。船形山城は、標高280m、急な登り道が延々と続き、いささかばててしまいました。しかし、どうにか尾根にまで到達しましたが、道が左右に分かれていて、どっちへ行ったらよいかわかりません。ちょうど休憩のためのベンチが用意されていたので、しばらく休憩していると、偶然ハイキングをしていらっしゃるご夫婦に出会いました。
「この辺りにお城の跡があるのですが、どちらへ行けばよいのでしょうか。」
と尋ねたところ、
「うーん、何か看板のようなものがあった気がするけど、こっちだよ。」
と教えていただきました。
実にありがたかったです。反対方向に行くと絶対に行きつかなかったからです。

尾根伝いにしばらく歩いていきますと、見えました。目印の鉄塔です。
「ありました。あの鉄塔の下が城跡です。」
と、思わずいっしょに歩いてこられたご夫婦に叫んでしまいました。

船形山城の本丸に立つ鉄塔

船形山城は尾根に並ぶように造られていました。

船形山城イメージ図

まず、本丸のすぐ東に堀切がありました。

本丸東堀切。本丸から撮影したので、分かりにくいですが、左右に切られていました。

本丸
本丸は、鉄塔が建てられていましたが、その周囲に土塁の跡がありました。今は、登山道になっています。

本丸、土塁跡

3本の堀切
さらに西の方に進ん行きましたら、見事な堀切が3本ありました。

1本目の堀切


2本目の堀切


3本目の堀切

3本の堀切を確認した後にもう一度本丸付近に行き、山の下の方を見てみました。木が生い茂っていて、よく見えませんでしたが、豊橋市の東の方でしょうか、市街地を見ることができました。昔はもっと眺望が開けていたことと思います。

本丸からの眺望

赤岩山城址 豊橋市

2016年10月16日 10時03分53秒 | 豊橋市
10月に入り、雨が止んだと思ったら、急に涼しくなりました。朝晩は長袖でないと寒いくらいです。しかし、いい天気が続くようになりました。昨日は、絶好の行楽日和でした。
豊橋まで足を運びました。赤岩城址と船形山城址に行きました。両城とも愛知県の東の方にあります。


赤岩城
はじめに赤岩城址を訪れました。この城は、すぐ下を県道4号線が東西に走っています。また、豊橋市中心街から豊鉄が県道4号線に沿って途中まで伸びているので、この県道4号線が重要な道だったことが分かります。赤岩城は、この道を抑えるための城であると考えられます。

牧野氏関連の城
赤岩城は、いつ、だれが築城したのかはわかりません。「愛知の山城ベスト50」によれば、天文年間の吉田城攻めの際、吉田城を守っていた牧野氏の一族である牧野新次郎という武将が、法言寺(赤岩寺)に逃れてきたそうです。赤岩城は赤岩寺の後ろの山なので、牧野新次郎と赤岩城は関係がありそうです。
また、「史跡夜話」というネットの記事では、似たような話が紹介されていて、年代は享禄2年(1529)で、吉田城を攻めたのは、松平清康です。吉田城には牧野氏がいました。(ここは同じ)この時、牧野氏の一族で、牧野新次郎成勝と牧野新三郎成村という武将が、一人は牧野氏の本拠地牛久保城、他の一人はこの赤岩城に逃れたそうです。
どちらにしても、牧野氏との関係が深そうです。

赤岩寺
赤岩城址の麓の赤岩寺で車をとめさせていただきました。

赤岩寺の仁王門(山門)

赤岩寺の本堂の左隣に一対の石灯篭があります。それが赤岩城址への入り口です。

赤岩城への入り口。はじめは分からず山から下りた時に分かりました。

すぐに石の階段がありました。

赤岩城への登りの階段。勾配が強かったので、きつかったです。

辺りは公園になっていて、いくつかの道が交錯していました。「赤岩城址」という看板がないので道が多いと、かえって分かりにくかったです。ちょうど、法事が終わって戻ってこられたお坊さんが見えましたので、道を尋ねてしまいました。親切に教えていただいたので、登ることができました。目印としては、「林間広場」を目指していくと曲輪にたどり着きます。(これも後で分かったことです。)

赤岩城址イメージ

赤岩城址イメージ図。「林間広場」はイメージ図のⅢ郭にあたります。


Ⅲ郭(「林間広場」)

「林間広場」に着きましたが、ここが城址の一角なのか、城址とは別の場所なのかはじめは全く分かりませんでした。

大堀切
辺りをうろうろしていますと、ついに見つけました。大きな堀切です。

Ⅰ郭北側の堀切。左がⅣ郭、右が土塁です。

この堀切はかなり大きいです。豊橋市多米校区自治会のホームページでは幅10m、長さ30m、深さ8mだそうです。「ここを攻め込むのは困難である。」とコメントされていました。

先日福井県若狭町の「堂谷山城址」の堀切を見ましたが、あれに匹敵する大きさでした。

高い土塁
そして、その南側にこれまた大きな土塁がありました。

赤岩城Ⅰ郭北土塁

愛宕神社
山を降りるついでに愛宕神社に寄りました。

愛宕神社。岩にしがみつくように建てられていました。

展望できるところがあったので、そこから見ると、多米町の柳原団地が見えました。

愛宕神社から多米町の眺め。

お寺の奥の山城というのは先に見学した医王寺もそうでしたが、結構多そうです。

二川(ふたがわ)宿 豊橋市

2015年04月07日 18時49分20秒 | 豊橋市

二川宿本陣資料館

4月4日は、せっかくの日曜日でしたが、雨模様でした。しかし最近史跡めぐりをあまりしていないので、雨でも訪れることができるところへ行きました。豊橋市の二川宿に行ってきました。東海道を歩いて踏破したという知人から「行って損はない」と言われたので、いつかは行ってみようと思っていました。

二川宿は東海道33番目の宿
東海道の宿場は、これまでに鳴海宿、池鯉鮒(知立)宿を見てきましたが、二川宿は初めてです。

二川宿の位置(知立市のパンフレットより)

二川宿は江戸から33番目の宿だそうです。ちょうど三河の玄関口に当たります。

高札場
二川宿本陣資料館というところが、本陣跡になります。資料館の脇に「高札場」の復元がありました。

高札場復元(ここに、宿場に入れない者や人足、馬などの使用料が書かれていたようです。

江戸時代の旅の服装
資料館に入ると、さっそく江戸時代の旅の人がいました。時代劇でなじみの格好です。


道が折れ曲がっている
二川宿の模型がありました。


右側の青い線は、川です。梅田川です。その左に奥のほうから真っ直ぐ伸びているのが、東海道です。二川宿は東海道に沿ってきれいに建物が並んでいます。また、昔の絵図ではっきりと分かるように宿の中で道が折れ曲がっています。これは、防衛のためだそうです。これは、同じ宿場町池鯉鮒でもありました。


「二川宿絵図」(パンフレット「豊橋市二川宿本陣資料館展示案内」より)


知立市を通る東海道の案内板

本陣、旅籠屋を復原
さて、この二川宿資料館のすごいところは、本陣や旅籠を復元していることです。下の写真は本陣の表門です。本陣復元屋敷の中に、この建物の復元について以下のような説明がありました。



二川宿本陣の改修復原工事は、昭和63年より3ヵ年をかけて行い、現存部分の解体・修復に続き、取り壊されていた書院棟の復原を行いました。
 工事は建物全体をおおうように屋根をかけ、その中で解体・調査を行い、腐朽の木材・瓦を取り換え、江戸時代末期の姿に復原しました。
 建物の解体にともない、棟札、墨書のある柱・壁・銘の入った瓦、古銭などが見つかり、建物の建築、再建、修復の年代を決定するのに役立ちました。


パンフレットに、その本陣、旅籠の間取り図がありました。

二川宿復元間取り図(図上部は旅籠屋「清明屋」下部は本陣、資料館パンフレットより)


本陣玄関

本陣経営も楽じゃない
さて、本陣は大名が宿泊する施設なので、幕府で造るのかと思っていましたが、その町の豪商を指定しているようです。今復元されているのは、馬場家のものだそうです。本陣の経営も楽なものではないようで、馬場家は三代目になるそうです。(1代目後藤家、2代目紅林家)馬場家は文化4年(1807年)から本陣の経営を始めたそうです。

旅籠「清明屋」
この本陣復原建物の隣は、旅籠屋の復原建物がありました。「清明屋」です。

清明屋の「ミセニワ」と呼ばれる間、玄関のようなところでしょうか。時代劇そのままで雰囲気が伝わります。

五芒星は安倍晴明の紋
この「清明屋」で、不思議な模様を見つけました。


この星印は、「五芒星」と言って、陰陽五行では魔よけとして使われていました。先日テレビで、志摩の海女たちがこのマークを手ぬぐい等に刺繍していたのを見ました。また。有名な安倍晴明は、これを自らの紋として使っていました。「清明」と「晴明」少し字は違っていますが、何か関係がありそうな気がしました。

入館料は400円でしたが、たいへん興味深い史料や復原家屋があり、とても有意義な見学でした。

吉田城 豊橋市

2013年03月25日 16時39分54秒 | 豊橋市
3月24日(日)吉田城に行きました。
瓜郷遺跡に行った日とと同じ日です。
要するに、豊橋市に用事があったのです。


さて、吉田城はもう桜が咲いていました。2,3分といったところでしょうか。
吉田城は、吉田公園とも言って市民の憩いの場でもあります。
早くもお花見に訪れている方も多数見えました。

吉田城とは
住所:豊橋市今橋町(市役所の隣です)
築城:牧野古白という武将が、今川氏親の命令で建てたようです。1505年(永正2年)です。
城主:めまぐるしく変わっています。主な武将を挙げれば
   牧野古白(こはく)(築城者)
   戸田憲光(東三河の武将、今川氏の家臣のようです)
   酒井忠次(松平家康の家臣)
   池田輝政(豊臣秀吉の家臣、当時は照政といっていた。後に姫路城を建てた人)
吉田城の地図


鉄(くろがね)櫓に入れた

鉄櫓は5階建てでした。中にはいろんなものが展示されていました。


1階に鎧の展示がありました。誰のか確認できませんでした。


本丸の復元模型がありました。今は、広い原っぱのようになっていますが、ここに江戸時代まで本丸御殿があったそうです。地震で壊れ、そのまま建て直さなかったようです。


お城の全体の復元模型がありました。写真では白っぽくて見にくいですが、全体の様子がよく分かりました。