愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

大垣城 岐阜県大垣市

2015年01月10日 16時08分36秒 | 岐阜県
妖刀あざ丸のこと
2015年、初めての史跡めぐりは大垣城です。大垣城に行こうと思い立ったのは、「信長公記」です。
「信長公記」巻首に「景清あざ丸刀の事」という一説があったからです。

景清あざ丸刀の事
去る九月廿二日、山城道三、大合戦に打ち勝つて申す様に、尾張者はあしも腰も立つ間敷候間、大柿を取り詰め、此の時攻め干すべきの由にて、近江のくにより加勢を憑み、霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ候ひき。
爰に希異の事あり。去る九月廿二日の大合戦の時、千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を最後にさゝれなり。此の刀、陰山下掃部助求めさし候て、西美濃大柿の並び、うしやの寺内とてこれあり、成敗に参陣候て、床木に腰をかけ、居陣のところ、さん転の悪き弓にて、木ぼうをもつて、城中より虚空に人数備への中へくり懸け侯へば、陰山掃部助左のまなこにあたる。其の矢を抜き侯へば、又、二の矢に右の眼を射つぶす、其後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門所へ廻り来なり、五郎左衛門眼病頻に相煩ふ。此の刀所持の人は必ず日を煩ふの由風聞侯。熱田へまいらせられ然るべしと、皆、人毎に異見侯。これにより、熱田大明神へ進納侯てより、即時に日もよく罷り成り侯なり。


 景清とは平景清らしいです。平景清とは源平合戦の頃の武将で、大変勇猛だったようです。ので、各地に伝説が多く残っておるそうです。「信長公記」の一説もその伝説の一つを記録したのかもしれません。熱田神宮に行ったとき、たくさんの刀が展示してありましたが、その中にきっとあったのでしょうね。その時は知らなかったので、見過ごしてしまいました。

大垣城

大垣城は、大垣公園の北東部に位置しています。再建された主な建造物は天守閣、戌亥櫓、丑寅櫓です。

大垣城天守閣 四層四階建てです。四を嫌う風習があるので、めずらしいと思いました。

戌亥櫓です。

丑寅櫓です。

城の東側および北側を流れる水門川、昔は大垣城の水掘りでした。

初代藩主戸田氏鉄(うじかね)の像。戸田といえば、渥美半島の戸田氏を思い起こしますが、なんか関係があったのでしょうか。

関が原の合戦に関わるお城
 さて、大垣城ですが、行ってみると、「関が原の戦い」を一つのテーマにしていました。というのは大垣城が西軍石田三成の本拠となっていたからです。天守閣の中では「関が原の合戦」の映像が流されていました。おかげで、関が原の合戦の大要を学ぶことができました。

大垣郷土館
この城の近くに大垣市郷土館というのがあって、共通チケットでしたので、行ってみることにしました。

郷土館の中は関が原合戦屏風図などいろいろなものがありましたが、びっくりしたのは、大垣際という祭礼の山車に朝鮮山車というものがあったということです。

(パンフレットより)

朝鮮山車
江戸時代に朝鮮通信使が長崎から江戸に何回か行っていますが、大垣はその旅路の宿泊所だったのです。当時の人がめずらしいということで、彼らの服装などを複製して山車として祭りに献上したらしいのです。しかも「猿田彦大神」の幟が一緒に展示してありました。猿田彦と朝鮮には何か関係があるのでしょうか。明治になって禁制となり、今ではその遺品が残されているだけのようです。

(パンフレットより)