「愛知の山城ベスト50」に、「訪ねてみることをお勧めする」とあったので、行ってみることにしました。この本にもあるように、石碑も案内板もないというので、不安ではありましたが、どうにか見学することができました。(たぶん場所はあってると思います)
一色山城とは
「愛知の山城ベスト50」によれば、築城年等はっきりしたことは分かっていないそうです。しかし、伝説があり、それによると天文3年(1534年)に磯村左近が感応寺の和尚と囲碁の対戦中に品野秋葉城主松平家重、落合城主戸田家光が攻めてきたそうです。磯村左近は悠々と碁を打ち続け、打ち終わると戦場に駆けつけましたが、討死したそうです。
桜井松平氏の2代目は?
なお、「愛知山城ベスト50」によれば、松平家重は、松平宗家、松平清康と反目していた桜井松平信定の子どもとなっています。ところが、ネットで調べると桜井松平家の2代目、つまり松平信定の子どもは松平清定であるとしているものが多いです。松平信定の孫は松平家次で、三河一向一揆で一揆側に味方した武将です。これは大体一致しています。桜井松平家の2代目は清定なのか、家重なのか調べてみたいです。
登城口はどこ
さて、一色山城に戻りますが、城址は本当に看板も何もなくて、「愛知山城ベスト50」で詳しく所在地が書いてあったのでよかったですが、知らなければ通り過ぎて行ってしまったでしょう。
「ほたるの里」の看板から2つ目の40キロ規制の看板の近くに登城口があるとのことでしたので、慎重に歩いて行きましたが、それらしい入り口も見当たりません。この標識を通り過ぎると左側はずっとフェンスになっていて、山に入ることができません。そこで思い切って入れそうなところから入ると、道らしきものがあって、「ああここでよかったんだ」と安堵しました。
一色山城概要図「愛知の山城ベスト50」より
Ⅰの曲輪
しばらく道らしき道を南下していくと、1メートルから2メートルくらいの小高い盛土が見えました。たぶんⅠの曲輪です。
北のほうから簡単に城に行き着くことができるということは、それだけ防御が甘いということかと思いましたが、このⅠの曲輪のまわりは切り立った崖になっていて、一箇所以外は昇り辛いものとなっていました。
Ⅰ曲輪北側の崖
櫓台、虎口
Ⅰ曲輪の中央東側に虎口跡、櫓台跡らしきものがありました。
土橋
Ⅰ曲輪とⅡ曲輪の間の土橋跡です。
西側の堀跡です。
腰曲輪
西側一帯を腰曲輪で防御していました。
「愛知の山城ベスト50」では、ほかに「馬出し、枡形虎口など備えたメリハリの利いた縄張り」と紹介されていましたが、私にはよく分かりませんでした。今度行くときにはもっと注意してみたいと思います。
ぜひ看板設置を
今回看板なしの山城に初めて挑戦しましたが、看板のありがたさがしみじみと分かりました。研究者にとってはこれが当たり前なのですが、われわれ学習者には案内板は必要不可欠です。瀬戸市の職員の皆さん、どうか案内板をお願いします。
一色山城とは
「愛知の山城ベスト50」によれば、築城年等はっきりしたことは分かっていないそうです。しかし、伝説があり、それによると天文3年(1534年)に磯村左近が感応寺の和尚と囲碁の対戦中に品野秋葉城主松平家重、落合城主戸田家光が攻めてきたそうです。磯村左近は悠々と碁を打ち続け、打ち終わると戦場に駆けつけましたが、討死したそうです。
桜井松平氏の2代目は?
なお、「愛知山城ベスト50」によれば、松平家重は、松平宗家、松平清康と反目していた桜井松平信定の子どもとなっています。ところが、ネットで調べると桜井松平家の2代目、つまり松平信定の子どもは松平清定であるとしているものが多いです。松平信定の孫は松平家次で、三河一向一揆で一揆側に味方した武将です。これは大体一致しています。桜井松平家の2代目は清定なのか、家重なのか調べてみたいです。
登城口はどこ
さて、一色山城に戻りますが、城址は本当に看板も何もなくて、「愛知山城ベスト50」で詳しく所在地が書いてあったのでよかったですが、知らなければ通り過ぎて行ってしまったでしょう。
「ほたるの里」の看板から2つ目の40キロ規制の看板の近くに登城口があるとのことでしたので、慎重に歩いて行きましたが、それらしい入り口も見当たりません。この標識を通り過ぎると左側はずっとフェンスになっていて、山に入ることができません。そこで思い切って入れそうなところから入ると、道らしきものがあって、「ああここでよかったんだ」と安堵しました。
一色山城概要図「愛知の山城ベスト50」より
Ⅰの曲輪
しばらく道らしき道を南下していくと、1メートルから2メートルくらいの小高い盛土が見えました。たぶんⅠの曲輪です。
北のほうから簡単に城に行き着くことができるということは、それだけ防御が甘いということかと思いましたが、このⅠの曲輪のまわりは切り立った崖になっていて、一箇所以外は昇り辛いものとなっていました。
Ⅰ曲輪北側の崖
櫓台、虎口
Ⅰ曲輪の中央東側に虎口跡、櫓台跡らしきものがありました。
土橋
Ⅰ曲輪とⅡ曲輪の間の土橋跡です。
西側の堀跡です。
腰曲輪
西側一帯を腰曲輪で防御していました。
「愛知の山城ベスト50」では、ほかに「馬出し、枡形虎口など備えたメリハリの利いた縄張り」と紹介されていましたが、私にはよく分かりませんでした。今度行くときにはもっと注意してみたいと思います。
ぜひ看板設置を
今回看板なしの山城に初めて挑戦しましたが、看板のありがたさがしみじみと分かりました。研究者にとってはこれが当たり前なのですが、われわれ学習者には案内板は必要不可欠です。瀬戸市の職員の皆さん、どうか案内板をお願いします。