10月16日、蒲郡市の蒲形城に行きました。蒲形城は、別名下ノ郷城とも言います。以前上之郷城に行ったことがありますが、その上之郷城の分家みたいな感じです。天文年間(1532~55)に鵜殿長在(ながあり)が居住したそうです。
鵜殿家の系図
蒲形城には、下郷鵜殿家が居住しました。長龍の時家康の関東移封があり、下郷鵜殿家も関東に行きました。その後、深溝松平の松平忠利が入った後、竹谷松平清昌が、この城の東に陣屋を構え、明治まで続いたようです。
三河宝飯 蒲形(諸国古城の図より)
黒い太線で囲まれた形が蒲形城です。図の右側のやや色の濃い部分が陣屋の部分です。
蒲郡高校
蒲形城・陣屋は、今は蒲郡高校になっています。この高校の南の方に土塁が残っているとのことでしたので、さっそく探しました。
土塁跡の目印の鳥居
目印は、この赤い鳥居の神社です。竹島神社というそうで、お稲荷さんでした。
蒲形城土塁跡のスケッチ
土塁跡の北端
スケッチの右側の土塁跡
スケッチ左側の小さい土塁と右側の大きな土塁
この土塁跡は、はたして蒲形城のものなのか、陣屋のものなのか、よく分かりません。しかし、ここに土塁があるということは、この近くに城が確かにあったということが分かりました。
さらに陣屋の大手門の復元があるということで、蒲郡市博物館に行きました。
陣屋大手門の復元 外から
陣屋大手門の復元 中から
いわゆる高麗門というそうです。
鵜殿家の系図
蒲形城には、下郷鵜殿家が居住しました。長龍の時家康の関東移封があり、下郷鵜殿家も関東に行きました。その後、深溝松平の松平忠利が入った後、竹谷松平清昌が、この城の東に陣屋を構え、明治まで続いたようです。
三河宝飯 蒲形(諸国古城の図より)
黒い太線で囲まれた形が蒲形城です。図の右側のやや色の濃い部分が陣屋の部分です。
蒲郡高校
蒲形城・陣屋は、今は蒲郡高校になっています。この高校の南の方に土塁が残っているとのことでしたので、さっそく探しました。
土塁跡の目印の鳥居
目印は、この赤い鳥居の神社です。竹島神社というそうで、お稲荷さんでした。
蒲形城土塁跡のスケッチ
土塁跡の北端
スケッチの右側の土塁跡
スケッチ左側の小さい土塁と右側の大きな土塁
この土塁跡は、はたして蒲形城のものなのか、陣屋のものなのか、よく分かりません。しかし、ここに土塁があるということは、この近くに城が確かにあったということが分かりました。
さらに陣屋の大手門の復元があるということで、蒲郡市博物館に行きました。
陣屋大手門の復元 外から
陣屋大手門の復元 中から
いわゆる高麗門というそうです。