愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

臼子(うすご)城 新城市

2021年09月02日 09時11分34秒 | 新城市
 コロナも極まれりという感じです。いったいいつになったら収まるのか、まったくお先が見えません。しばらく活動を停止していましたが、季節も少しずつ良くなってきましたので、そろそろ再開しようかと思います。
前回の更新が21年4月なので、約半年ぶりです。

臼子城の紹介
臼子城について、「三河国二葉松」に以下のコメントがありました。
 佐惣大膳或ハ佐伯大膳ト書シ物モ有、白雪云、此城ヲ見物ス、大手ヲ杵坂ト云、其傍ニ蓑石ト云モ有、後ニ此大手所ニ奥平休可ト云兵法ノ師住ス、此休可と戦シ石地蔵杉山ニ有、奇特アリトテ今モ信仰ス、白雪モ旧子カラ杉山之石地蔵へハ度々行。

 佐惣大膳は、作手奥平氏の家臣だそうです。奥平氏はもともと作手亀山城が拠点でした。そこから東方面、新城の方へ行く道がありますが、臼子城は、山を越え、新城の平野が開ける起点の位置にあります。

臼子城の位置(グーグルマップより)

 天文14年(1545) 新城古城 の 菅沼定継 に攻め滅ばされました。その後、奥平貞勝の嫡男貞能が菅沼氏の臼子城を攻めて城を取り戻し、先の城主佐宗勝重の子重昌を城代としました。奥平休可という武将もこの臼子城の城代として入りました。「兵法の師」と三河国二葉松が記載しているので、軍師だったと思われます。(白雪とは、三河国二葉松の筆者の一人です)
天正18年(1590年)、奥平氏が徳川家康 に従って関東に下り、臼子城は廃城となりました。(参照、ネット「東三河を歩こう」)


臼子城概要図(原図:高田徹氏、愛知県中世城館跡調査報告書Ⅲ(東三河地区)より)
上が西になっています。

臼子城探索
 臼子城は、国道301号線の側の小高い小さな丘の上にあり、すぐ分かりました。国道に登り口が接していて、そこから登りました。登りきると墓地がありました。この墓地が櫓台のようです。下の曲輪より2メートルほど高くなっていました。今はまわりが木で見通せなくなっていましたが、昔は新城方面が見渡せたのでしょう。

櫓台

櫓台から下の曲輪は、杉林になっていました。

曲輪

 櫓台下の曲輪は結構広く、ここが本丸と思わせました。というか単郭のようにも見えます。
この曲輪を西の方(地図では上)に歩いていきますと、南下の方(地図では左)に腰曲輪が見えました。腰曲輪はこの下にもあり、二段になっていました。

南側の腰曲輪

曲輪の中を西(上)へ進みますと、一段低い曲輪があります。大きさや南(左)の帯曲輪との関連から、ここが虎口かも知れないと思いました。

西側の一段低い曲輪

曲輪を北(右)の方に移動し、下を見ると立派な切岸がありました。

北側斜面の切岸

北側斜面を見ながら、今度は東の方(下)、櫓台のあった方に進んで行きますと、北側(右)に急な谷が見えました。これは、おそらく堀切ではないかと思います。ネットで堀切についての言及がないので、心配ではありますが、山側からの敵に対して切岸、堀切を設け、曲輪への侵入を阻止していたと考えることができます。

北側の堀切

それに対して、平野側(南側)は腰曲輪を設け、弓矢、鉄砲などで防御したのではないかと考えられます。

臼子城は、はじめ櫓台だけが残る城かと思いましたが、腰曲輪や堀切などの遺構が感じられ、見ごたえのある城でした。
コメント (2)
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