愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

佐久城(1) 静岡県浜松市

2021年09月25日 17時26分57秒 | 静岡県
佐久城は、浜名湖にあるお城です。

佐久城の位置(グーグルマップより)

佐久城の由来について、本曲輪の中に石碑がありましたので、それを引用します。

本曲輪の石碑(この裏に以下の文がありました)

南北朝初期、正平3年(1348)濱名清政(はまなきよまさ)が佐久城を築城。以来、2百余年、濱名氏が当地を平穏裡に統治す。永禄12年2月(1569)徳川氏遠州侵攻に抗したが開城離散。天正11年(1583)徳川氏は佐久城を廃す。
濱名氏一族の鎮魂と、史跡保存継承の礎として、浄財を受け、これを建立する。
平成15年4月吉日
   三ケ日町教育委員会   佐久城址保存会
   三ヶ日町郷土を語る会撰文

佐久城は濱名氏という豪族のお城だったことが分かました。また、この名前からして浜名湖と関係があるような気がします。浜名湖を本拠としたので濱名氏、あるいは濱名氏が本拠とした湖なので浜名湖、どちらかだと思います。
また、城址の入口(馬出跡のすぐ下)に案内の看板がありましたので、その文も紹介します。


城址入口の看板

この背後の高地は室町時代浜名地域(三ヶ日町一帯)を支配した浜名氏の居城、佐久城(別名浜名城)跡である。浜名氏は平安末期鵺代(ぬえしろ)を本拠として興起した猪鼻(いのはな)氏の系統を引き、「鵺退治」で有名な源三位頼政(げんざんみよりまさ)の子孫と云われる。室町初期の貞和4年(正平3、1348)その中興祖浜名左近大夫清政がこの地域に築城居住して以来子孫は足利幕府の奉公衆となり常に京都にあって将軍の側近として活躍、又歴代歌人としても著名であった。清政より9代目の肥前守頼広(よりひろ)の時、永禄11年(1568)12月徳川家康の遠州進入に当り、守護今川氏のため当城にこもって抵抗したが、翌12年(1569)2月力尽きて降伏没落し、以来家康の武将本田百助信俊(ほんだひゃくすけ―ももすけ?―のぶとし)が守備したが、天正11年(1583)東北方の野地(のじ)城構築により廃城となった。
 その遺構は要図の如く半島突端に楕円形の本丸(本曲輪)南側に大きな空堀を隔て、二の丸(南曲輪)が残存するのみで、埋め立てられた現在地周辺は字名御馬(おんま)といい、旧厩舎(うまや)の所在地と思われ、これより東方200m位に及ぶ範囲が城内と考えられ字本城、南本城等の字名が残り、侍屋敷等があったと思われる。
浜松市教育委員会
平成3年12月作


「猪鼻湖」という名称が平安末期の浜名湖周辺の豪族の名前とは知りませんでした。
また、「鵺代」という地名も源三位頼政の鵺退治に由来する地名とも知りませんでした。しかし、ネットの情報によれば、「鵺」は「贄(にえ)」が江戸時代初期に改称されたのだそうです。「贄」とは都への献上物で魚や鳥などを言うのだそうです。鵺代の辺りはそういう献上物を納めるための土地だったようです。
(https://folklore2017.com/timei900/845.htm)
いずれにしても、濱名氏は源頼政の子孫らしく、このあたりを「平穏裡」に支配していたそうです。ところが徳川家康が攻めてきたために濱名氏は没落したそうです。

ついでに教育委員会が作成したと思われる要図(想像図)がありましたので、紹介します。イメージが湧きやすいです。

佐久城想像図

佐久城 つづく
コメント (2)
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